「デリのニャイ(7)」(2025年06月27日)

だからメダン市の創設は1909年4月1日ということにされた。オランダ時代はそれで
良かったのだが、独立後に植民地支配者の遺産を後生大事に抱え込むことへの反感が出て
くるのも当然で、その習慣は1975年まで継続したあげく最終的に民族主義感情に否定
されて、その年のメダン市議会がメダン市創設の日を1590年7月1日に変更してしま
った。その裏付けとして、グル パティンプスがメダンプトゥリの集落を開いた説話がメ
ダン市創設の根拠として語られている。


さて、ヨーロッパ資本の農園のおかげでメダンが栄え始めると、デリスルタン国はラブハ
ンを去ってメダンに移った。鉄道線路もラブハンからブラワンへ伸ばされた。ブラワン港
の数キロ手前にあるブラワンの町に鉄道駅が建設されて、そこにメダンから初の列車がや
ってきたのは1888年2月16日のことだった。その後、線路はさらにブラワン港埠頭
まで延ばされた。

オランダ東インド政庁はブラワン港をきわめて重要な港に位置付けた。この港を大型港に
してスマトラ島北部中部の物産をヨーロッパに送り出すことは東インド政庁にとって大き
な意味を持っていたのである。スマトラに大型港がなければ、スマトラ島の物産をジャワ
島北岸の大型港に一旦集めなければならない。インド洋側の物産はそうするよりほかに仕
方なかったものの、マラカ海峡を抜けてスマトラ島東側の農園産業が作り出す世界市場向
けの物産をジャワ島の港に運ぶことは政庁にとってたいへんに神経を使うことがらだった。

それは物流コストの合理性という問題だけでなくて、マラカ海峡がイギリスの池になって
いたことも重大な理由だったのである。マラヤ半島の主要地域と半島が面しているマラカ
海峡をイギリス人はストレーツセトルメントと呼んだ。

いや、イギリスの池でオランダ船が襲われるというような話ではない。イギリス人はもう
海賊行為をやめている。そんなことではなくて、スマトラ島で作られる物産の出荷状況が
イギリス側に筒抜けになるという問題なのだ。その情報を世界市場における競争で巧みに
利用されたら、通商コンペティションでオランダ側が思いがけない打撃をこうむることが
起こるかもしれない。できることなら、スマトラ島で作られる物産をすべてブラワン港に
集めてヨーロッパへ直接船積みし、コンペティタが密かに行うモニター作業を避けるよう
にしたい。

その構想がスマトラ島鉄道網建設計画という形に練り上げられて、重要政策のひとつに置
かれた。北はアチェのクタラジャから南端はランプンのトゥルッブトゥンまでを幹線が結
び、パダンシデンプアン、パダン、ジャンビ、ブンクル、パレンバンなどの主要都市とそ
の幹線が支線で結ばれる地図が1910年に描かれた。

その構想がまだ部分的なバラバラの状態のときに日本軍が進攻してきたために、オランダ
によるスマトラ島鉄道網建設計画のファイルは永遠に閉じられることになったのである。
しかしインドネシア共和国はトランススマトラ鉄道網という名前でその夢を引き継いだよ
うだ。[ 続く ]