「デリのニャイ(8)」(2025年06月28日) 日本軍進攻時にスマトラ島には鉄道路線がアチェ・北スマトラ・西スマトラ・南スマトラ ・ランプンの各地方にだけ設けられていた。日本軍は西スマトラのサワルント炭鉱の石炭 を日本海軍艦艇の燃料に使うことを主目的にして、西スマトラの山中と東海岸部のリアウ 州プカンバルを結ぶ輸送路を築いた。西スマトラのムアロシジュンジュンまで既存の鉄道 線路が達しているのだから、リアウ州を横断してそこまで鉄路を築けばサワルントに達す ることができるのだ。工事は1943年9月に開始された。 その鉄道建設工事の詳細は拙著「スマトラ死の鉄路」でご覧いただけます。 http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/Kawan-25Sawaluntoh_BayahRail.pdf プカンバルの東側の海が、太平洋戦争の後半に最大の日本海軍泊地となったリンガ泊地だ。 南太平洋の戦線を離脱して来た連合艦隊の生き残り諸艦がリンガ泊地を目指して続々と集 まって来たのである。燃料が枯渇し始めた日本に戻っても動けなくなることが目に見えて いたからだ。 だから1945年8月の太平洋戦争終結時にはリアウ州が鉄道路線を持つ州の仲間入りを していた。220キロの鉄路が州内を横断してムアラシジュンジュンまで設けられたのだ。 ところがインドネシア共和国はこの路線をまったく利用しようとせず、あれほど多くの人 間の血と涙と生命を?み込んだレールは歳月が経過する中で知らぬ間に撤去され、屑鉄に されて姿を消した。 インドネシア人鉄道専門家は、地勢的地形的に無理な設計になっている部分がこのスマト ラ死の鉄路の中であちこちに見られることを批判し、オランダ人の鉄道建設の方が優れて いるという評価を下している。実際に、オランダ人もスマトラ幹線鉄道とプカンバルを結 ぶ支線の可能性を調査検討し、不適切という結論を下してリアウ州は鉄道網建設計画から 除外されていた。日本人があえてそれに挑戦したのは、戦時下という状況に強いられての ことだった。 しかし後世の人間はそれを単なる先見性と技術力の違いとしてしか見ようとしなくなる。 果たしてわれわれも、先人の仕事をそのような目で見るくせが身に着いてしまっているの ではないだろうか? 北スマトラ州の鉄道事業は民間資本のN.V. Deli Maatschappij(デリ株式会社)が188 3年に鉄道用地コンセッションを政庁に申請したのを嚆矢とする。デリ株式会社は東スマ トラ地方ではじめて農園事業を興したオランダ資本の企業だ。ヤコブ・ニンハウスとピー テル・ヴィルヘルム・ヤンセンが1869年にこの会社を興し、デリのスルタンから12 万ヘクタールという広大な土地を20年間借地してタバコの栽培を開始した。株式の半分 をオランダ商業会社Nederlandsche Handel-Maatschappijに持たせている。 会社は本社を現在のメダンに置き、当時まだ寂れていたメダンが大都市になる礎石を築い た。その本社は最終的に壮大な建築物になった。ところが、インドネシア共和国が完全主 権を得たあと、オランダ資産国有化の際に共和国の資産にされ、今では北スマトラ州庁ビ ルとして使われている。 デリ株式会社のコンセッション申請が承認されてから1886年に鉄道事業を行う子会社 であるデリ鉄道会社Deli Spoorweg Maatschappijが設立された。この鉄道建設案はデリ株 式会社がデリスルダンで生産しているタバコ葉をメインにして東スマトラの農園で作られ ている物産を輸出港に運ぶことが主目的になっていた。デリスルダン産タバコ葉は葉巻を 包むタバコ葉として世界最高の折り紙が付けられた輸出品だったのである。 そのために最初の路線がメダンとその当時のメイン積出港ラブハンをつないで動き始め、 ほどなく海港のブラワンへと延長された。ブラワン港に鉄道が入った当初は三本の線路が 敷設されて大いに賑わったそうだ。オランダ政庁がかけた意気込みがそこから窺える。し かしインドネシア共和国にとっては、また事情が違っていた。[ 続く ]