「デリのニャイ(9)」(2025年06月29日) スマトラ島各地の物産が集まる輸出港としてオランダがブラワンに与えた機能は、インド ネシア共和国の中で溶解して流れ去った。各州が地元の物産を地元の港からシンガポール に輸出し、スマトラの物産を集めて国際幹線航路に乗せることがシンガポールで行われる ようになったのである。必然的にブラワンの機能は北スマトラ州のための輸出港になり、 同時にペナンに往復するひとびとにとっての便利な渡海航路港になってしまった。 2024年のイ_ア語記事に書かれたインドネシアの8大国際海港の中に出てくるスマト ラの港は3位のバタム島ハーバーベイ港、5位のバタムセンター港、第7位のランプン州 バコフニ港の三つだけであり、第8位もマカッサル港に奪われてブラワン港の昔の威勢は 影を潜めている。鉄道でブラワン港に運ばれる貨物は今や石油・パーム原油・肥料・ゴム 原液などがほとんどを占め、おまけに日中の客車運行もなくなって夜間の貨物運送だけが 行わている。 そのおかげで日中に人間が行う諸活動が鉄道線路の上で営まれ、線路上にパサルが開かれ ているありさまだ。オランダ人が引いた三本の線路も今は一本が撤去されて複線が残って いるばかり。 メダンとブラワンを結ぶのに成功したデリ鉄道会社は続いて北西のパンカランスス方面、 更に南東のランタウプラパッ方面への鉄道網拡大を図った。メダンの華人指導者のひとり Tjong A Fieが鉄道開発にたいへん協力的だったためにデリ鉄道会社の線路網はスムース に広がった。 チョン・アフィは存命中、南洋華僑でトップクラスの富者のひとりになり、1920年に かれが没したとき、20カ所の農園がかれの名義になっていた。多数のヨーロッパ人がか れの農園に雇用され、管理職や技術者として働いた。 1888年にはメダンを介してブラワンとビンジャイ間の鉄道輸送が実現している。南東 に向かっては1904年にルブッパカム、1904年バグンプルバ、1915年トゥビン ティンギ、1916年シアンタルと線路は着々と伸びて行った。 デリ鉄道会社は最初の10年間で投資回収を完了させ、利益が計上されるようになる。同 社の業績が最高潮に達したのは1937〜1939年で、その期間に2百万フルデンの収 益が上がった。 デリ鉄道会社はその55年間の生涯の中で多数の車両を使った。さまざまなタイプの蒸気 機関車109台、ジーゼル機関車10台、連結客車223列車、そして数えきれない連結 貨車が総延長553.2キロの線路網の上を走った。 スマトラ島の鉄道史は民間資本のデリ鉄道会社が先頭を切ったものの、他地方での鉄道事 業はすべて公有の鉄道会社によって営まれたから、デリ鉄道会社はスマトラ島で最初で最 大、そして最後の民間鉄道会社としてその歴史を閉じたことになる。ご存知の通り、イン ドネシア共和国の鉄道事業はすべて国有鉄道会社が行っているし、鉄道車両製造会社すら 国有事業体になっている。 オランダ時代にスマトラで北スマトラ以外の各地に発足した鉄道会社はすべて政府資本の 会社だった。アチェのAtjeh Stoomtram Staatsspoorwegen、西スマトラのStaatsspoorweg ter Sumatra's Westkust、南スマトラとランプンはStaatsspoorwegen in Zuid Sumatraと いう公有の鉄道会社がそれだ。 さて、それではみなさんお待ちかねのロスミナの物語に戻ることにしよう。[ 続く ]