「デリのニャイ(10)」(2025年06月30日)

バタヴィアのプチェノガン地区にガンアブという名の小路がある。小路に面した瓦屋根の
家の一軒がシミンの家だ。シミンはノルドヴェイクにあるシンガーの店で雑用係として働
いている。月給はわずか15フローリンだから、貧窮生活が当たり前。

かれの妻は結婚する前に娼婦をしていた。縁あってシミンの妻になり、ふたりの間に娘が
ひとり生まれた。ところが子供がまだ小さいときにその妻が亡くなった。父と娘の二人暮
らしの中で、目に入れても痛くないくらい父親は娘を可愛がったが、金銭的には何もして
やれなかった。その娘がロスミナだ。


ロスミナが14歳になったとき、家計を助けるためにノルドヴェイクにある衣料品店のお
針子になった。カンプンの娘には見えないロスミナの美しさに惹かれた男たちが寄って来
て、墜ち落とそうとしのぎを削った。そのころはまだおぼこだったので、ロスミナにはま
ったくその気がなく、男は怖いものであり、うざったかったから言い寄る男につばを吐き
かけたこともある。

ところが一年も経たないうちにこの少女は自分を美しく着飾るようになり、化粧して男の
視線を浴びるのを好むようになった。手に入れた給料のすべてが自分を美しく見せるため
に使われた。艶々した長い髪をきれいな形の髷に結い、新しい上衣とカインを着て女らし
さを匂いたたせる姿は、まるで華人上流家庭の娘を思い浮かばせるものだった。

上衣を作るとき、寸法はいつも身体にぴっちりのサイズにして、膨らんできた胸と細い腰
を際立たせるように気を配った。自分を見つめる若い男が生唾を飲みこむ音が耳に聞こえ
るようだった。

夕方になるとノルドヴェイクの運河に男たちが集まってくるのは、ロスミナが水浴する姿
を眺めるためだった。ある日の夕暮れ、水浴を終えて家に向かっていたロスミナが混雑す
るノルドヴェイクストラアトを渡ろうとしたとき、フィアットを運転している華人青年の
目とぶつかった。男が女を好きになるのはきれいだからであり、女が男を好きになるのは
金を持っているからだ、とこの小説の著者は書いている。

華人青年はサワブサールのハジ ドゥラの橋渡しでロスミナを手に入れた。正妻にしたの
ではなく、妾にしたのだ。小説にはbini mudaと書かれている。現代インドネシア語でbini
はistriと同義語になっているものの、biniには法的なニュアンスが付着していない。つ
まりbiniと呼ばれるとき、その女性は妻としての日常生活をしていることが述べられてい
るだけで、法的に公式な婚姻でつながっているかどうかには触れられていないということ
なのだ。

同義語関係だからbini muda = istri mudaが成り立つ。ところがbini tuaという言葉は
めったに出現せず、たいていistri tuaという形で耳目に触れる。親に命じられてまだ若
い年齢のうちに婚姻を済ました男が、しばらくしてあぶらがのりきってくると自分の好む
タイプの女を持ちたくなる。その女がビニムダと呼ばれる。先に正妻になった女がイスト
ゥリトゥアだ。このトゥア⇔ムダは年齢よりも順番を指している印象が強い。本人の年齢
が最初の正妻より年上であっても、世間は二番目の女をビニムダと呼ぶのが通例になって
いるのだ。このイストゥリとビニの用法の違いをわたしは、法的背景がからまっているか
いないかという要素がその原因ではないかと推測している。


ガンアブの花は華人青年に手折られてしまった。ブタウィのスラムがファナティックであ
ることはつとに有名だ。イスラムの定めに外れた行いをしたなら、世間はまるで人でなし
のようにその者を噂する。娘の愚かな振舞いをシミンが知ったとき、この父親は烈火のご
とく怒った。金に釣られて異教徒の妾になるとは何事か。親娘の関係はこれまでだ。二度
とわしの前に顔を出すな![ 続く ]