「デリのニャイ(13)」(2025年07月03日)

カスミンが「おまえはどこへ行くの?」と尋ねたので、ロスミナは「トゥビンティンギの
農園に女中奉公に行くんです。お金が溜まったら家に戻るから、それまで悪気を持たない
で、あにさん。」と答えた。しかし心の中は不安と恐怖で満たされている。自分をニャイ
にしようとしているトアンと夫のカスミンが対決したら、すべてはご破算になる。なんで
あたしの運はこんなに悪いのかしら・・・

「ほう、そりゃいいや。わしもあっちに遊びに行ってみたいと思ってたんだ。おまえの雇
い主の家に泊めてもらうことにしよう。おまえのトアンにはわしを夫と言ってはいけない。
伯父さんにしておけ。どうすりゃいいか、よく考えるんだぞ。」
ロスミナの顔色は真っ青。心の中ではこんな言葉が踊っている。こいつがトアンの家まで
付いて来るだって?おお、神よ。正義はいったいどこにあるの?こんな邪悪の塊みたいな
男がなんでいつまでものうのうと世の中をうろついているの?神様、今すぐにこいつの生
命をあの世に連れ去っておくれ・・・


カスミンにはロスミナの語った言葉の裏が筒抜けだ。こんなに若くてきれいな女をただの
女中に雇うトアンなどいるはずがない。ニャイにするに決まっている。農園の運営を握っ
ている西洋人トアンの妾になるのが自分の妻だというのはカスミンにとってたいへんな金
づるができたことを意味していた。妻の稼ぎが夫のものになるのは世の常であり世間の道
理なのだから。

この金づるを最大限に利用するには、自分がニャイの伯父であるという触れ込みでトアン
の邸宅に住み着くのが一番良い。そのためには妻に協力させなければならない。妻の気持
ちをしっかりと方向付けるのだ。

威嚇を帯びた語調で「よく考えろ」と言われたロスミナは、カスミンに服従するしか方法
がないことを悟っていた。「嫌だ」と言えばカスミンはトゥビンティンギの駅で警官を呼
び、自分を逮捕させるだろう。家出した妻が娼婦になり、更に西洋人の妾になろうとして
いるという風紀上の素行不良者を取り締まることも、オランダ植民地警察の仕事の中に含
まれていた。これはイスラム法とは関係がなく、植民地刑法典の中にそんな条項が定めら
れている。カトリック時代のヨーロッパにもそんな精神があったではないか。

婚姻証書をカスミンが握っているかぎり、カスミンの毒牙からロスミナが自由になれる場
所はどこにもないのだ。名ばかりの妻はジゴロのお抱え娼婦になって生きていくしかない。
ロスミナは感情を失ったような顔でうなずくだけだった。


列車がトゥビンティンギ駅に到着した。プラットフォームはたくさんのひとで混雑してい
る。シアンタルから来た乗客がトゥビンティンギ駅でタンジュンバライ方面あるいはメダ
ン方面に乗り換えるのである。

ロスミナとカスミンは列車から降りてトアンを待つ。ロスミナはその間、カスミンをもう
伯父さんと呼んでいた。ロスミナを見つけたトアンが近寄って来た。ロスミナがトアンに
言う。「トアン、あたしの伯父さんがこの駅にいたんですよ。」

「あっそう、そりゃ奇遇だね。」トアンはそう言ってロスミナの隣に立っている、痩せて
背の高いプリブミ中年男に顔を向けて会釈した。カスミンも挨拶する。
「ごきげんよう、トアン。長い間会わなかった姪にこの駅で偶然出会いましたよ。夢にも
思わないことでした。この姪をトアンがそばに置いてくださるなんて、なんという幸運で
しょう。」
「あんたはどこにお住まいかな?」
「シアンタルです。わたしゃここへ遊びに来ただけで。」
「じゃあわたしの家に寄ってください。」
トアンはそう言ってロスミナにふたりでサドに乗るよう命じ、自分は別のサドに乗って農
園に向かった。

トアンの乗ったサドとその後ろに付いて走っているサドの距離が開いたとき、カスミンは
小声でロスミナに言った。「トアンが農園の見回りに出かけたら、おまえはわしの部屋に
来るんだぞ。」ロスミナはうなずくだけ。[ 続く ]