「植民地の見本市(1)」(2026年03月29日) 2025年6月19日から25日間、ジャカルタのクマヨラン地区で開催されたプカンラ ヤジャカルタはその歴史始まって以来56回目の催事だった。ジャカルタ大フェアを意味 するインドネシア語Pekan Raya Jakartaは最初、Djakarta Fairという名前で1968年 に第一回が催された。場所はクマヨランでなくジャカルタ中心部のムルデカ広場南西区画 が使われた。 このフェアの原形は1921年から1941年までオランダ東インド政庁が年中行事のひ とつにしたパサルガンビルという名称のフェアであり、1942年の日本軍占領後行われ なくなったその催事を独立したインドネシア共和国が1968年に再開したものだ。しか しパサルガンビルが1921年から年次の催しになる前、1906年にそれは単発の催し として開催されている。 だがオランダ東インド植民地で開かれた見本市は決してそれが初めてだったのでなく、1 898年に東インド民衆が作る日用雑貨品や手工芸品の振興を目的にする見本市が催され ているし、それどころか、オランダ東インドで行われた見本市の歴史は1829年まで遡 ることができると言われている。 その産業振興活動としての見本市はバタヴィアだけでなく、ジャワ島のあちこちの町でも 開催された。その名称もバラエティに富んでいて、さまざまなタイトルがその催事に付け られた。tentoonstelling(展覧会)、jaarmarkt(年次市)、jaarbeurs(年次取引所) そしてpasar malem(夜市)。 しかしそれらの催事タイトルが異なっていようとも、地元プリブミ住民のために産業振興 を図る場を廉価で楽しい娯楽とセットにして設けるというのが目的だったのは同じだ。一 番大きな違いは、3日からひと月という開催期間にあった。プログラム内容はいずこも似 たり寄ったりで、バタヴィアで行われたパサルガンビルとたいした違いがなかった。簡素 か、巧緻か、金をかけたか・・・、違いはそんな面にしか表れなかった。 1891年にマグランで行われた催しがそれまで東インドで行われたものの中で最大規模 のものになった。クドゥのレシデンがオープニングを宣し、半円形状のガプラの形をした メインゲートが開かれた。ガプラは盾を持つ2頭のライオンの描かれたオランダ王国の紋 章で飾られ、そこにはNijverheids - tentoonselling Residentie Kedoe 1891というオラ ンダ語と、更にジャワ文字でPagelaraning dadamelanipoen tijan Tanah Kedoe, Purna kang keksi astaning jana.という文が記されていた。 後半部分のPurnaから始まる文はジャワ年1821を示すcandrasengkala、つまりクロノ グラムであり、西暦の1891年を意味している。この催事はクドゥレシデン統治区にあ るローカル産業の全貌を示す完ぺきな成果であるという自負を主催者が示したものとそれ を見ることができるだろう。 監視官メイヤー・ランネフツはそのマグランの見本市についての報告書の中に、会場に展 示された4百を超える産品とクドゥ外から参加した物品数十種類の詳細を記した。その報 告書が1894年にBeschrijving der tentoonstelling te Magelang van producten van inlandsche nijverheid uit de Residentie Kedoe gehouden op 20, 21 en 22 Augustus 1891という長いタイトルで、108ページの書籍としてバタヴィアで印刷出版された。 その書籍はわれわれに、その見本市に参加したプリブミたちの社会学的背景を示してくれ ている。ほぼ9割がクドゥの各地区にある村々で農業・工業・機織・編細工・バティッ・ 絵画・彫像・彫刻・医業などを営む村人だった。その中には、村に住むプリアイ階層も混 じっていた。家具製造工房を営むラデンマス、畑作産品流通業者をしている引退役人、焼 き石灰事業者のブクルなどが村で事業を行っているプリアイだった。 残る1割はプリブミエリート階層のひとびとだ。トゥマングンとマグランのブパティもこ の催事を盛り上げるために展示品を出品した。かれらは芸術品・装飾品・骨とう品の収集 家として所蔵品を世間に示し、町住民の代表者という役割を務めた。 195人の出品者の中に東洋人在留者の名前も見られる。東洋人在留者とはオランダの東 インド植民地統治政策によって人種的な違いを理由に先住民族(プリブミ)でない者とい う区別がなされたひとびとであり、非ヌサンタラ系プラナカンがメインを占めていた。東 洋人在留者の出品物もプリブミエリート階層と似たような品物が多かった。[ 続く ]