「カフリパン王国(1)」(2026年04月24日)

西暦1016年のその日、ムダン王国の都ウワタンの町は王家の婚姻という華麗な祝典で
賑わっていた。ムダン王国の大王であるダルマワンサ トゥグの王女ガル スカルとバリ島
ブダフル王国の王子アイルランガの結婚式である。アイルランガの生母はダルマワンサ 
トゥグの実の姉妹マヘンドラダッタであり、ブダフル国王ウダヤナ ワルマデワに嫁いで
王妃になったマヘンドラダッタは西暦990年にアイルランガを産んだ。

ウワタンは現在のポノロゴ県プルン郡ウォタン村だという説と、マグタン県マオスパティ
郡だったという説が見られる。どちらもマディウンの周辺だ。ブダフル王国は王都を今の
ギアニャル県タンパッシリン郡ペジェン村に置いた。ギアニャル県の観光スポットのひと
つ、ゴアガジャのすぐ北側にそのペジェン村がある。

アイルランガの一行はどのようなルートをたどってジャワ島の内陸部マディウン地方を訪
れたのだろうか?たいへんな量の引き出物が運ばれ、大勢の人間がその一行に加わってい
たのではないかと推測されるのである。


ウワタンで華燭の宴が続けられていたある日、突然軍隊が攻め込んできた。その結果、王
宮は燃やされ、王都は壊滅し、大王の一族は皆殺しされてムダン王国は滅びたという解説
になっているのだが、ムダン王国の王都防衛軍はいったい何をしていたのだろうか?警戒
態勢が正常に機能していれば、侵入軍は王都の外でまず防衛軍と戦闘しなければならなか
ったはずではあるまいか。それがダイレクトに王都の中まで侵攻してきたということなら、
王都防衛軍が王国を裏切った可能性が出て来るように感じられる。

攻め込んできたのはムダン王国に服属していたウラワリの領主であり、ムダン王国の宿敵
であるスリウィジャヤ王国に味方して謀反を起こし、ジャワ島の覇権を崩壊させて群雄割
拠の状態に変化させたという解説がイ_ア語ネット内では主流だ。

その事件を単に、スリウィジャヤのサイレンドラ王家がジャワのイシャナ王家を憎むあま
り、ウラワリの領主を使ってイシャナ王家を滅ぼしたとしている論調が少なくないように
見えるのだが、スリウィジャヤにとってはウラワリ領主にジャワ島の覇権を引き継がせる
方が大きなメリットを享受できたのではないだろうかという気がする。ところがスリウィ
ジャヤ王国はそこまで踏み込むことをせず、ウラワリ領主をただの群雄のひとりにしただ
けでその秘密大作戦を終わらせたようだ。

それはそれであり得ない筋書きではないと思われるものの反対に、スリウィジャヤの隠密
に焚きつけられたウラワリ領主がなぜジャワ島の覇権をわが手に握るためにスリウィジャ
ヤの助勢を要求しなかったのかという点が腑に落ちない。もしもその密約がなされたにも
関わらずスリウィジャヤがそれを反故にしたのであれば、そのウラワリ領主なる人物は相
当なお人よしか馬鹿殿だったということにならないだろうか?

ウラワリ領主の謀反の背景には、ガル スカルを嫁に求めたにもかかわらず父親のダルマ
ワンサ トゥグ大王が拒否したために恨みを抱いたという話が語られており、イシャナ王
家の親戚でもなければ大型外様大名でもなかったウラワリ領主が王位継承権を持つガル 
スカルを嫁にくれと大王に言っていく神経が尋常ではないようにも思える。

もしもスリウィジャヤの隠密がそんな手法でウラワリ領主を焚きつけるシナリオを考えた
のであれば、ウラワリ領主というのはスリウィジャヤにとってただの使い捨てのコマだっ
たと言えないだろうか?

ところが数年後にムダン王国のジャワ島覇権を回復させる戦争をアイルランガが開始した
あと、スリウィジャヤの影はジャワ島にまったく現れなかったような話になっているのだ。
その場合、スリウィジャヤが滅ぼしたかったのはイシャナ王家でなくてダルマワンサ ト
ゥグ個人だったということになるのかもしれない。

確かに、インドのチョーラ王国の侵攻を受けたスリウィジャヤにジャワ島派兵のチャンス
がなかったと言えるかもしれないが、年代的には微妙なところだろう。アイルランガの巻
き返し戦争がチョーラのスマトラ侵攻以前に始まった可能性も否定しきれないのだから。

ともあれ、ウラワリ領主の謀反にスリウィジャヤが関わっていたというのは歴史学者によ
る推測でしかなく、その両者の間に同盟関係が結ばれたことを証明するものはなにひとつ
ないのが事実なのである。どうも歴史学者の世界というのはどこの国であれ、小説家気取
りの人物が幅を利かせているように思えてならない。[ 続く ]