「カフリパン王国(終)」(2026年04月29日) 結局カフリパン王国は二人の息子のために、西のダハを都にするPanjalu王国と東のカフ リパンを都にするJanggala王国の二つに分割されることになった。このアイデアも、バリ 島説得に失敗したバラダが考え出したのか、それともアイルランガが考え付いたことなの だろうか?アイルランガはバラダに分割の線引きを命じたので、バラダは水を満たした甕 を抱えて空を飛び、その水で境界線を引いたと古文書は語っている。 境界線を引き終えるとバラダは「この境界を冒した者はだれであれ、災厄に見舞われるで あろう」という呪いをかけたそうだ。人間はだれしも不運と災難に見舞われる塞翁が馬の 宿命を抱えているのだから、そんなことに神経質になっていれば生きていけないだろう。 ふたりの息子はアイルランガが没するとすぐに戦争した。いや最初の戦争は1044年だ ったという説もある。その戦争はジャンガラ側の勝利に終わった。 バラダの引いた境界線は、北は北岸部のルンバンからブロラを経てジョンバンのワトゥガ ルの東を通り、カウィ山に達してからそのまま南下して南岸に至るラインになっていた。 ブランタス川にしろソロ川にしろ、ダハに近い大河から海に出るためには境界線を通過し なければならず、パンジャル王国にとって喜ばしい線引きではなかったように思われる。 1042年11月20日の日付が記されたパムワタン碑文にはアイルランガが大王として の名前で登場する。ところが1042年11月24日付けガンダクティ碑文に述べられた アイルランガの名前はResi Aji Paduka Mpungku Sang Pinaka Catraning Bhuwana.になっ ていた。ルシとはヒンドゥ教の聖賢を指す言葉で、日本語では英語に倣ってリシという発 音になっている。 つまり21日から23日までの間にアイルランガは大王の位をサングラマウィジャヤに譲 って退位したことが推測されるのである。その日をダハ王国の発足日と考えてよいかもし れない。アイルランガは血と汗と涙に満ちた自分の半生から離れ、肩の荷を下ろして心の 平和に身を委ねる暮らしにやっと入りかかったのである。しかしサングラマウィジャヤは 翌年またその荷をアイルランガの肩に戻した。 アイルランガは1049年に没してプナングガン山麓のチャンディブラハンに祀られた。 ブラハン水浴場チャンディには壁側に二体の女人像が少し間をあけて立っており、その間 にガルーダにまたがるウィスヌ神に擬されたアイルランガ大王の像があったとされている ものの、今その像はない。 その二体の女人像はデウィ スリとデウィ ラッスミであり、アイルランガのふたりの妻だ ったという説明が見られる。その説によれば、ダルマワンサ トゥグの娘ガル スカルはウ ラワリ領主の反乱の際に殺され、アイルランガはただひとり、ナロタマに導かれて王宮を 脱出した。であるなら、サマラウィジャヤとマパンジ・ガラサカンはスリとラッスミのふ たりの妻が産んだ異腹の兄弟になるのではあるまいか?ふたりが王位継承を争って本心か ら憎み合ったなら、王国分割という対策の合理性はより高いものになると思われる。 その一方で、雌伏の三年間と遺臣たちの旗上げ要請を受けて決起するアイルランガの姿は ガル スカルがいることによってはるかに現実性を帯びて来るようにわたしには感じられ るのである。もしガル スカルがいなかったのであれば、アイルランガはなぜバリに戻ら ず、スンダンマデに三年間も隠れていたのだろうか?婿入りする王家が消滅したにもかか わらずバリに戻ろうとしなかったのは、イシャナ王家の復興という自分の宿命をかれが自 ら選択したことを意味していたのだろうか?[ 完 ]