「華人街騒乱(7)」(2026年06月01日)

オンメランデンで華人叛徒とVOC軍間の戦闘が起きるようになったため、ファルケニー
ル総督は9月26日に東インド評議会緊急会議を招集し、華人の武装叛乱は軍事力をもっ
て鎮圧する方針であることを主張した。

9月27日、華人武装叛徒がバタヴィア・メステルコルネリス・タングラン・デクアルの
VOC軍事拠点目指して移動中という噂が流れた。分散した叛徒は各ターゲットからあま
り遠くない場所に布陣して攻撃の機会を待った。

10月に入ると2百人の武装叛徒がパニンガラン村を占領して、プリブミ下士官ひとりを
殺害した。メステルコルネリスのVOC要塞からバタヴィアのVOC軍司令部に宛てて、
華人叛徒6百人が攻撃態勢に入っているので大至急援軍を派遣するよう要請する手紙が送
られている。そして戦闘が開始されてVOC軍事ポストのひとつが陥落し、50人の兵員
が殺された。

10月5日、兵力に圧倒的な差のあるVOC軍は直接的な軍事衝突を避けるべきであると
いう意見を持つ東インド評議会有力議員のファン イムホフとファン アエデンがタナアバ
ン地区の華人統率者タイ・ワンスイと話し合うためにバタヴィア城市から外に出た。そし
てタナアバン地区に入って来意を告げたもののタイ・ワンスイが面会を拒絶したため何の
成果も得られず、反対にタイ・ワンスイの送って来た手紙がVOCの怒りをかき立てたこ
とから、ファルケニールの軍事弾圧論がバタヴィア城市内で支持者を増やした。好戦論の
ファルケニールと避戦論のファン イムホフの間には敵対感情が渦巻いていた。ファルケ
ニールの総督就任時にファン イムホフがその対立候補者だったことがふたりの間に和を
失わせる結果をもたらしたという論が見られる。

大虐殺事件の3年後に総督に就任したファン イムホフはファルケニールに事件の責任を
負わせ、ケープタウンに移っていたファルケニールを裁くためにバタヴィアに連れ戻して
カスティル内のロベンバスティオンに幽閉した。奇しくもそこは逮捕されたニー・フーコ
ンが監禁されていた場所であり、華人叛乱首謀者の容疑で逮捕されたニー・フーコンは自
白を強いる拷問をそこで受けている。


10月7日には、デクアルのVOC軍事ポストが5百人ほどの叛徒に攻撃されて多数の死
者が出た。バタヴィア城市から援軍としてブカシに派遣されたVOC軍分遣隊は全滅した。
ほどなく、華人叛徒がバタヴィア城市に向かって移動しているという情報が流れたために
城市内住民はパニックに陥り、城市内に住んでいる華人の一部が婦女子を連れて城外に出
て行く姿が散見された。その時点でVOC側はまだそれが意味するところのものを重視し
ていなかった。

バタヴィア城市に向かってオンメランデンから津波のように集まってきた華人叛徒によっ
てグロゴル地区に置かれていたVOC警備ポストは壊滅し、近辺の住宅や建物が放火され
た。そのころ、タングランに向かっていたVOC軍分遣隊もクダウン地区で叛徒の襲撃を
受け、指揮官2人と兵員14人が殺され、11人が命からがら帰還した。

7日の夕方、バタヴィア城市大門の外は華人叛徒で埋め尽くされ、東西の城壁の外も叛徒
部隊が攻撃配置に就いた。大門の外に置かれていた警備ポストが叛徒の餌食になり、バリ
人下士官の率いる警備隊が一掃された。

8日の朝、バタヴィア城市を包囲している叛徒の姿が城壁の防塁から明瞭に望観された。
その数はおよそ1万人と推測され、満を持して総攻撃に移るだろうことが明らかに見て取
れた。ところがタナアバンから来た華人叛徒の単独攻撃が起こっただけで、VOCはその
小手先調べのような攻撃を砲撃で撃退した。その後は小康状態が続き、叛徒軍は攻撃を夜
まで差し控えたのである。[ 続く ]