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[ 民衆経済 ]
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『インドネシアでビジネスは容易じゃない』
2002年1月1日から始まったAFTA東南アジアの自由貿易時代での、他のメンバー国の同種企業との競争におけるわが国産業界、特に水産業界の未来はどうなるのだろうか?去る三月中旬に西ジャワ州チアミス県パガンダラン(Pangandaran)で開かれた「統合的継続的な漁業のファイナンシングパターン」と題するワークショップで、パガンダランの水産業者スシ・プジアストゥティは体験談を物語った。
2003年のはじめ、スシはマイナス30℃の場所で使える靴を買うことにした。常にマイナス10℃以下になる魚用冷凍室で働く従業員に使わせるためだ。いくつかのウエッブサイトを訪れる中で、ドイツのある店が1足24ユーロで売っているのをスシは見つけた。1ユーロ=9,000ルピアとして、1足の価格はRp.228,000-となる。かの女は初回注文として5足をオンライン発注した。
ところがインドネシアに到着してもう2ヶ月になるその注文品は、いまだに税関に差し押さえられたまま。どういうことかというと、その靴は国内製靴産業の障害となりうる輸入品であると見なされたためだ。それゆえその靴をもらいうけるには、商工省が発行するNPIK(特別輸入者認識番号)を取得しなければならない。
更にそれとは別に、その靴の内側にはウールが使われているため、まずその前に口蹄病の検疫を受けなければならない、というのである。
「NPIKの取得や口蹄病検疫、そして税金等を計算するとわたしが出費しなければならない金額は合計でおよそ1千万ルピアになるんですよ。」とスシは述べる。ところが5足の靴の購入金額はトータルでたったの114万ルピア。
規定に従って手続きするべきかどうかを迷っている一方で、スシはもう20足、同じ靴を発注した。だが今度はシンガポールに住む友人の住所を靴の送り先に指定した。「わたしはシンガポール行きの航空券をUS$125−で手配し、シンガポールへ行って心置きなくあちこちと歩き回り、その20足の靴をカバンにほうりこんでインドネシアへ持ち帰って来ました。おかしなことに、その20足の靴は何の調べも受けずに空港を素通りし、無事に家にたどり着いたのです。シンガポールに届いた20足の靴を取りに行くために買った航空券はわずか250万ルピア。今もまだ税関にある5足の靴をもらいうけるためにしなきゃならない手続き費用等の総額のわずか四分の一なんですよ。」とスシは続ける。
「シンガポールから戻ってきて、わたしは考えました。適正な価格の靴を手に入れるということしか目的にしていないのに、わたしはどうして密輸入者みたいな振る舞いをしなきゃいけないんでしょうか?インドネシアにはどうして実業家が正しく効率的に働くことを妨げる税や法規がそんなにたくさんなければならないのでしょうか?」とスシは問う。
魚を獲るための網がシンガポールでは4万ルピアで売られているのに、インドネシアでは同じ品質のものが7万ルピアもしている、とスシは別の例をあげた。ところがその網を100枚、シンガポールからインドネシアに持ってこようとすると、インドネシアに入ったときにはそれが1枚20万ルピア前後になってしまう。網をインドネシア国内に入れるためにはNPIKやその他の税金を納めなければならないからだ。そのわけは、その網が繊維産業用原料のひとつであるナイロンでできているために、国内繊維産業の存続を妨げることになると見なされるからだ。
皮肉なことに、ビジネスの円滑さを妨げている種々の徴収金は中央政府だけが行っているのではない。この地方自治の時代、地方政府も種々の条例を制定して同じようなことを行っている。
「ところが、中国のようなAFTAメンバー以外からの競争の脅威にもわたしたちは曝されているのです。中国には鰆を一キロUS$0.8でオファーしているところがあります。そのキロ当たりRp.7,500-の鰆が何千トンも中国からインドネシアに入ってきたら、この国の漁民と水産業はどうなるのでしょう?」と問い掛けるスシ。いまパガンダランでの鰆のキロ当たり価格はRp.15,000-なのだ。
巨額の税金や徴収金が引き起こしている競争力下落問題は既に水産品缶詰産業を打ちのめしている。原材料不足に加えて、この産業にはPPN(付加価値税)15%がかけられるが、輸入される魚の缶詰にかけられる輸入税はわずか5%だけだ。インドネシア水産品缶詰産業製品の価格が国際市場で競争力を持つことを、そのような状況が困難にしている。結果としてインドネシアにある魚缶詰生産業界30社のうちの4割が、操業中止を余儀なくされている。
盛んに降りかかってくる種々の徴収金のただ中で、外国製品との競争力を維持するためにインドネシア水産業界がこれまで行ってきたもっとも現実的な対応は、スシの経験によれば、漁民からの買い取り価格を引き下げることだ。間接的とはいえ、種々の徴収金がもたらす負担の一部は漁民の肩にかぶさっている。しかしそのような方法は、最終的にはインドネシアの四百万世帯漁民を徐々に壊滅させていくばかりなのだ。
「一生懸命働いても、漁民は貧しいまま。なぜなら国内水産業における漁民の位置付けは実際問題、搾乳牛と変わりないのだから。」そんな状況下で得をしているのは一体だれなの、とスシは問いながら語る。
チアミス県庁秘書官デディ・アフマッは、県が事業家に負担をかけている多くの徴収金に関する話しを否定する。「そのような徴収金はきっと別の地方のことで、チアミスじゃない。チアミスはそれどころか、投資をしようという事業家があれば、さまざまな軽減措置を与えていつでも援助する用意があります。」とデディは述べたが、チアミスで投資をしようという投資家に対して県が与えようとしている軽減措置の詳細についてデディは説明を避けた。
ソース : 2003年5月20日付けコンパス
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『ナイトスポット業界は崩壊の戸口に』
「今、ジャカルタ首都特別州にはビリヤードを含めておよそ1千4百箇所のナイトスポットがある。15万人を超える雇用を作り出し、都庁地方源泉収益に年間30億ルピアの貢献をしているが、その貢献はきわめて小さい。」
都庁の地方源泉収益総額がいくらあるのかという説明なしに、ムハヤト都庁広報部長はそう語る。かれが言う「小さい」の意味を理解するのは、もちろん困難だ。「小さい」から軽視するということなのだろうか?
だが、本紙がインタビューしたナイトスポット業界者は「もっと大きいはずだが、本当にそんな規模しかないのだろうか?」と不審を抱く。1千4百軒の中の10社で毎月5億納めたとしてみよう。それだけで都庁収益の2倍になる。「ごまかしがあるんじゃないのか?」と業界者たちはコメントする。
11月第三週の一週間、本紙取材班はナイトスポット業界を観察したが、そこは蟻のまといついた砂糖そのものだった。ナイトスポットは金鉱あるいは金の成る木だと見られている。入れ替わり立ち代り人が来る。さまざまな役所からやってきた人はナイトスポットのマネージャーに面会して握り挨拶。挨拶が済めばすぐに「さようなら」だ。
「最低でもひとり月一回は現れます。」と語る南ジャカルタ市スディルマン通り地区のとあるカラオケ店女性マネージャー。「いくら渡すのか?」との取材班の質問には答えたがらない。ただ、かの女は、都庁がおおやけに徴収する税のほかに、個人に渡す領収書のない非公式の税があると明言する。警官、軍人、労働省職員、観光局職員などの不良役人たちだ。
「合計したら、おおやけの納税額を超えるだろうよ。」西ジャカルタ市コタ地区にあるカラオケ・ディスコ店の男性マネージャーの談。かれの店が都庁に収めるおおやけの納税額は年間7億ルピアだが、ひとりひとりが徴収する非公式税はその倍になるそうだ。「そこの違いは、おおやけの税は一括で納めるのに対し、非公式税はすこしづつ、一年中納めるという点だろう。」とも語る。
西ジャカルタ市ロカサリにある別のディスコ・カラオケ店のマネージャーは、都庁の要人に対する『サービス』の方がもっとむつかしい、と言う。「子供が誕生日だ。」とナイトスポット経営者に電話が来る。奥方の誕生日にもまた電話が入る。要人ご当人の誕生日はまた別だ。経営者は最初、自分にだけそんな電話が来たと思い、子供、奥方あるいはご当人の誕生パーティが盛大に行われるように、と過分の寄付をする。ところが後になって、自分だけが電話をもらったのではないことを知る。大勢が電話をもらったのだ。「家族やご当人の誕生パーティでどのくらいの金が集まるか想像してごらん。」と語るその経営者。
ゲストのために飲食から果てはカラオケ専用に一部屋用意してやってくれ、と依頼してくる要人のメモもある。「そんなゲストはよく5人以上でやってくる。災難なのはそんな人数のことじゃなく、要人のメモを良いことに、かれらが飲み物食べ物を際限なく注文することだ。」と北ジャカルタ市アンチョル地区にあるカラオケ店のマネージャーは言う。
そんなファシリティはどこ吹く風と深夜まで働かねばならない従業員たちはまた違っている。製造産業やその他の産業セクターが雇用を増やせないこの時期には、ナイトスポットも生計の資を得る場に成り得るのだ。ましてや、この困難な時代、タングランの製靴業界は2001年1月に三割人員解雇を行うと言われており、それは既存の全国3千6百万の失業者が更に増加することを意味している。その雇用削減は、海外バイヤーがインドネシアより安全と見られる中国やタイに事業を移転させることを検討している結果だということで、だからナイトスポット産業こそが労働力吸収の場たりうるのである。
とはいえ、その後経済危機へと進行した通貨危機がはじまった1997年6月以前の活気はそこにはない。ナイトスポット業界も客の減少という影響から無縁ではないのだ。5百人〜1千人の収容能力で建てられたディスコやカラオケは、経済危機以降、客の入りはしばしば4分の1に満たない。
「わたし、大学のお金がいるの。でもほかに働ける場所がないのよ。」南ジャカルタのスディルマン地区にあるカラオケ店で働く、色黒の可愛いエンダ19歳は語る。かの女は室内でカラオケを楽しむ客の相手をするレディになった。
夜8時から始まって、時には午前3時までということもあるが、たいていは午前1時に終わる勤務時間で月35万ルピアの報酬を得る。「でもそれは一ヶ月間皆勤したときよ。欠勤するたびに減らされるの。そんな勤務時間で一ヶ月間休みなしに働けるひとはめったにいないわ。」と言うエンダは、欠勤でいくら削られるかを言おうとはしない。かの女や他のレディたちも平均して月20万ルピアを超えない程度の収入にしかならないそうだ。
エンダが期待するのは客からのチップで、それは中央ジャカルタ市コタ地区にあるディスコ・カラオケ店でウエイターとして働くアスニ22歳と同じだ。「客が多いときは一晩で5〜10万ルピアになるよ。」広いスペースに並ぶテーブルの間を縫って、客が注文した飲食物のサービスをするアスニはそう言う。客は一晩で一度に5〜10テーブルになる。一テーブルで1万ルピアのチップがもらえるなら、5テーブルで5万、10テーブルで10万をかれは手にいれることができる。給料を尋ねると、かれははにかみながら月12万ルピアと答えた。
エンダの場合はちがう。かの女はいつもひとりで客の相手をするわけではない。ひとりでやってくる客はあまりないからだ。客はたいてい少なくとも4人。そうなると呼ばれるレディも4人。会社はレディひとりあたり1時間に2万5千ルピアのチャージをつける。そこからエンダは1万5千ルピアをもらい、残る1万ルピアは会社が取る。もし一晩で4時間客の相手をすれば、かの女がもらうのは6万ルピア。「でも客のくれるチップはたいていもっといい金額よ。」いくらとは言わずにエンダは語る。
カラオケ店の中には、レディの指名に三時間のミニマムチャージを適用するところがある。それはレディに1時間相手をしてもらっても、三時間分を支払わねばならないことを意味している。
「ここはちがうわ。」とエンダ。その店にやってくるのはたいてい外国人で、かれらは歌うどころか頻繁にビジネスの話しをしているそうだ。「外国人はチップを全然けちらないわよ。」とエンダの同僚ウエニ21歳が言う。
エンダ、ウエニ、アスニたちは少なくともまともなかっこうをしている会社の社員であり、それは同時に客層のレベルをあらわしている。だが少しスラムがかった地区の小さいカラオケ店で働くヌヌン23歳も、客はチップをけちらないと認めている。「チップについては客のレベルによらないと思うわ。男は奥さん以外の女にはけちらないものよ。わたしは一晩で5万から7万5千ルピアくらいね。」アスニと同じように、かの女の給料は月12万と少ない。それですら欠勤のたびになにがしかが削られていく。
ナイトスポットはどこでもたいてい同じようなシステムだ。レディ、ウエイター、キャッシャー、掃除係りなどが似たり寄ったりの条件で働いているが、キャッシャーや掃除係りは客と直接接する機会はあまりなく、そのためチップを手に入れることがない。だから、いまジャカルタで適用されている月36万ルピアほどの最低賃金に応じた給与がかれらには与えられている。そのために、キャッシャーや掃除係りはほんとうにどうしようもない場合は別にして、一晩でも欠勤しないようにするのである。
ディスコやカラオケは鼻の下の長い男を捕まえようとする女たちも利用する。かの女たちの人数ははっきりしないが、大手の店の中には毎晩二三十人にお目にかかるところもある。土曜の夜など長い夜には五十人にも膨れ上がる。かの女たちは店との雇用関係はないため、ナイトスポット業界が雇用する15万人の中には含まれていない。
かの女らは元締めであるムチカリの手配でディスコやカラオケ店に配置される。下宿や寮を用意し、衣装を買い、かの女らがプラスチック整形で目や鼻を美しくするようにと資金を用意してやるのもムチカリだ。整形手術費用は借金とされ、後日返済されることになる。
最近では、台湾や中国、あるいは香港の女たちまでがディスコやカラオケ店、更にはカラオケ施設を備えたレストランなどに生活の糧を求めようとしている。そしてナイトスポットのイメージを汚しているもうひとつの問題は、入り口やリフト、トイレなどで、エクスタシーや他の麻薬類を買ってくれと、公然と客に勧める者がいることだ。
「売春やエクスタシーのおかげでわたしの名前は傷つけられるの。でもわたしの学資に見合った収入が得られる仕事なんてほかにあるのかしら。」とエンダは語る。かの女が恐れているのは、長引く経済危機と不穏な首都の治安のせいで、ナイトスポット産業までが崩壊してしまうこと。
ソース : 2000年11月27日付コンパス
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『下層実業界の経済活力を再起させる』
ジャカルタ都民にとって経済危機とは何なのか?最近インドネシアの各界でしばしば投げかけられる疑問がそれだ。そんな疑問がよく出るのは、首都が経済危機下の姿をしていないからだ。首都の経済活動、中でも小売セクターは相変わらずの活況を示している。
『経済危機が見られない』ありさまは、にぎやかなショッピングセンターの様子がもっとも的確に描き出している。モール、プラザ、パサル、卸センター、セミ卸店、カキリマ・センターや中古品市場は人であふれている。ゴールデン・トライアングルのエリートビジネス地区も同じだ。人ごみと、にぎわいと。
信じない?首都経済の動脈になっているショッピングセンター数箇所に行ってごらん。東南アジア最大の繊維品センターであるタナアバン、薬剤と家電品の販売センターであるグロドック、事務用器具や日用品のセンターであるパサル・パギのにぎわいを見てごらん。毎時数十億ルピアの売買がそこで行われている。そのビジネスのにぎわいは時期を選ばない。イドゥル・フィトリ、クリスマス、新年の前だけというものではないのである。
他の例がほしいというなら、数十億ルピアもする超デラックス車をはじめ、都民がいかに熱心に新車を購入しているかを注意して見れば良い。ジャカルタ・コンベンションセンターで自動車ショーが開かれれば、会場は来場者で満ちあふれる。そのにぎわいはショーの会場へのアクセス路と退出路に交通大渋滞を引き起こす。四輪車のみならず、オートバイ市場も拡大した。2001年のオートバイ販売は対前年比160%だという。
パサル、モール、ショッピングセンターなどは販売者と購入者が出会うところだ。そんな場所のにぎわいと巨額な売買の発生はまぎれもなく経済活力の反映だろう。
ジャカルタのいくつかのショッピングセンターはその分野で東南アジア最大だから、リージョナルな通商のバロメータとなりうるということも認識しておくべきだ。繊維産品のパサル・タナアバンと周辺地区、薬剤・家電品小売りのグロドック地区、事務用器具小売りのパサル・パギ。チュンパカ交差点の卸センターも東南アジア最大だ。だから、ジャカルタ級というのは東南アジア地域級を意味している。
ショッピングセンター以外でも、経済危機の有無を示すものとして、都内の大通りの様子をあげることができる。
1997年7月14日にインドネシア経済を打ちのめした危機がはじまる前、スディルマン、タムリン、メダンムルデカバラット、ガトットスブロト、ラスナサイドやコタ地区の大通りなどは15時半ごろから交通渋滞がひどくなったが、今では13時にはもうひどい渋滞におちいり、22時近くになってやっと引き始める。
首都ジャカルタに経済危機はあるのか、との問いにもどろう。これほど特徴的なジャカルタの経済変異を説明できるひとはいるのだろうか?
パサル・パギ市場理事長のハジ・シャイフルは「自分は『経済危機』というイデイオムに抗議する者のひとりだ。」と言う。かれは毎晩、パサル・パギと1968年以来のパサル各ウイングの商店街におけるビジネスの動きに注意を向けており、各界で話題になっているような商業活力減退の兆候などひとつも目にしていない。今のビジネス取引きは経済危機前とほとんど変わらない、という商人たちの生の声もかれは耳にしている。市場運営費を滞納する商人がいないということもそれを裏書している。
パサル・タナアバンの二階にいる繊維品販売店主アフマド・シャムスディンも類似のコメントをした。「普通だよ。ここの商売はずっと好調だ。暴動の直後はさすがに貧血状態になったけど、また盛況にもどってるよ。」
ジャカルタの経済活力をインドネシアが経済危機から抜け出した指標だと考えるのは間違いだ、と本紙の集めたデータは物語っている。なぜなら、年収5千万ルピアを超えるインドネシアの金持ち層およそ6百万人のうち6割はジャカルタとその周辺に住んでいる。その年収額はシンガポールのひとり当たり国民所得とほぼ同じだ。経済危機の間、かれらの一部は自分の金を定期預金にして外国系、民族系の銀行に置いた。1997〜98年ごろの魅惑的な高預金金利(一時年利70%にまで達した)も昔語りとなり、大勢が金を消費するようになった。そんなかれらがショッピングセンターに詰めかけている。
クイック・キアンギー開発企画担当国務相は次のように評している。
ショッピングを満喫している市民の中には、正当な仕事の結果として金を得た善良なファミリーがいるが、それとは別に民衆の金を掠め取った汚職者のファミリーもいる。汚職で得た金をどう貯えたらいいのか考えあぐねて、不正直な連中がその金の一部を消費に使っている。また別に、金融界再建庁に資産の一部を握られた代わりに国費を隠匿するのに成功した事業家や、貸付高限度問題でつまずいて閉鎖された銀行オーナーの家族もいる。簡単に金を手に入れたから、かれらのショッピングもイージーだ。
ところで、ショッピング問題論争は別にして、好むと好まざるとに関わらず、今のインドネシア経済は『消費経済』で生きている。輸出が消沈し、実業界があるべきように進展せず、失業者数が急速に増加して4千万人に近づいている現在、インドネシア経済が頼るのは消費経済だ。インドネシアの中産階級がまだ強いために、この種の経済は伸びることができる。中産階級までつぶれてしまえば、将来のインドネシア経済がどんな姿になるか想像するのもむつかしい。
ガルーダフードの事業家スダメック・アグンは本紙との最近のインタビューの中で、インドネシア経済の75%は小売ビジネスが動かしており、残りは輸出入、サービス、アグロビジネスなどだ、との推測を述べた。わが国民の一部はもちろん消費傾向を持っている。
「興味深いのは、インドネシアの政治・治安状況がまだ十分よくなっておらず、関係各方面の間で互いに相手を陥れあっている印象すらあるというのに、インドネシア経済が4%近く成長しているということだ。そんな状況下での経済成長がどれほどすごいものか、想像できるだろう。」というスダメックのコメント。
いまだに穏やかでない状況にありながら、首都でインドネシア経済の心臓でもあるジャカルタは、消費経済から多くの利益を得ている。インドネシアの金持ちがそこに住んでいるからだ。かれらがショッピングをしてジャカルタの経済に活力を与えている。インドネシアの流通貨幣の半分以上がジャカルタとその周辺で回転している点も忘れてはいけない。
ジャカルタにおける経済成長の熱気は2001年のインフレ率にも見ることができる。首都と全国のインフレ率に顕著な差が見られるのだ。全国レベルでは10.24%だが、ジャカルタだけだと13.03%になっており、そこには2.79%の差が出ている。わずか2.79%と馬鹿にするなかれ。アメリカ、イギリス、ドイツ、日本などの先進国では、インフレ率があまり高いと政府首班の命取りになりかねない。その高いと言われるレベルがどのくらいかというと、2.5%が上限というレベルなのだ。
インドネシア、特に首都の経済マッピングを行うとき、小規模ビジネスや零細ビジネスはどこに位置付けられるのだろう?首都の大中規模事業家は既に自分の場所に落ち着いているが、下層レベルの事業家はどうだろうか?
カキリマ商人、道端のワルン、小規模スタンドオーナーなどといった姿の、しばしば都庁秩序安寧局職員から追い立てをくらう弱小事業家たちはどうなのだろうか?
いまだかつて、小規模商人、カキリマ商人、道端の食べ物ワルン、ワルン・トゥガル、果物売り、手押し屋台の食べ物売りが何人いるのか、確かな数字を提供できた独立機関はない。歩道橋の物売り、横丁路地でミニ規模のファクトリー・アウトレットを開いている者、住宅地区内の雑貨屋、食用油・お菓子などを製造している零細事業、レストラン、衣料品、カレンダー作り、少量の工芸品、零細印刷業などの数について責任持てる数字を提供できた役所もない。
かれら小規模事業家の数は、経済的必要性と弱者経済層ビジネスの活発化によって増大している。わずか百万ルピアを元手にして、かれらは道路の隅に小さいワルンを開店する。ひとびとはかれら弱小事業家が十数万人はいるだろうと推測するばかりだ。
かれらの出現で興味を誘うのは何だろう?かれらはインドネシア経済の重要な柱のひとつだということだ。かれらの存在なくしてインドネシア経済は回らない。なぜなら、大中規模ビジネスだけで経済を牽引することはできないからだ。小規模事業こそが柱となる。そこでは数百万人のために職場が用意されている。
台湾や中国で壮大な経済発展が成し遂げられたのは、中小規模の経済プレーヤーに大きな役割を与えたからだ。台湾では、オートバイしか通れないような路地に数千の事業家がおり、また小さな「家」の並ぶ安物アパートに暮らす者もいる。ところが、かれらはオートバイや自転車の部品、コンピュータや時計の部品、家庭用器具や建築材料などを納入する生産者なのだ。この小規模経済セクターが台湾をして経済の奇跡を生ませ、アジアの虎の異名を取らせたのである。香港やマカオでも、小規模事業家たちが大中企業と手を携えて進む姿が見られた。そのシナジー戦略はマカオと香港の名声を高めることになった。
疑問は、インドネシアの、そしてジャカルタの経済プレーヤーたちの中で、どうしてシナジー戦略を行えるものがほんの一部しかいないのかということだ。協調の精神をもとに、小規模事業家と手を携えて進もうとする大型事業家があまりいないのはどうしてだろう?
元ブカカ・グループの領袖だったユスフ・カラ民衆福祉調整相は、小規模事業家とのシナジーは本当はむつかしいことではない、と語る。「意志の問題だよ。ブカカの製品の中にも、小規模事業家をスペアパーツなどの物品納入に使って生産したものがある。相互信頼をベースにして、シナジーを築くことができる。」との調整相のことばに、ガルーダフードのスダメックも同調する。
「一日何トンにも上るピーナツ仕入れを満たすために、農民と協力関係を結んだ。それがベースとなって会社の原材料入荷がはっきりするようになり、農民も明確なマーケットを持つことができた。」ガルーダフード社は今やインドネシア最大のピーナツ食品生産者となり、毎年生産量を倍増させている。小規模事業家との連携のたまものだ。
問題は、わが国のすべての事業家がそのようなことをしたがるわけではないということだ。もしそれがなされるなら、中国、台湾、香港、シンガポール、マレーシア、タイなどのようにきらめく経済をインドネシアも手にすることができる。
そうすれば、長引く経済危機もなく、そして毎年IMFやCGIなど援助国からの借款についての会議などする必要もなくなるのだが ・・・・・・。
ソース : 2001年12月6日付けコンパス
ライター: Abun Sanda
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『ものはがらくただが、売上は・・・・・』
スラバヤのドゥパッルクン通り沿いには、目の届く限り数百のスタンドがならんで多種多様な品物を陳列している。2フェーズ9ブロックに2千のスタンドを擁するドゥパッルクン廃品市場に足を踏み入れると、そこにあるのは廃品ばかり。
幅三メートルほどの未舗装の道路の左右に、さまざまな物が雑然と積み上げられている。電柱、パイプ、土管、ミサイルのようなかっこうのガスボンベなどが道路の脇にそのまま転がされている。そして時に店の者が道路の真中で傍若無人に溶接などするから、人や乗り物の通行は障害だらけ。整然と秩序立った印象など探すべくもない。
1977年に建設のはじまったこの市場はガラクタ市場だと客ばかりか店側も自認する。そこで売られているのは一から十まで中古品だ。ところがこのがらくた市場の売上は、なんと驚くなかれ、一日十億ルピア。
1997年にインドネシアを襲った経済危機で日商が30億に達したため、数多くの廃品百万長者や億万長者が誕生した、とドゥパッルクン廃品市場商店会のアブドゥル・ムクティ会長は語る。廃品売買者が集まって経済力に応じた取引きを行う中心地がこの市場なのだ。売られているのは百ルピアのボルトから1億ルピアのヤンマー船舶用エンジンまであり、価格は米ドルレート上昇のあおりを受けている。船舶用エンジンが毎日売れるものでもないが、ジーゼルエンジン、揚水ポンプ、自動車エンジンなどの売上で、だいたい日々十億ルピアに近い売上になる。
船舶用部品を扱うトーフィクは、自分の商品はよそでは手に入らない、と言う。タンジュンペラッ港に入った日本、シンガポールあるいは中国の船がエンジンを交換するときに直接買い付けるそうだ。「外国船は航海中の故障を避けるために3ヶ月か6ヶ月で機関を交換しなければならない。この市場の外でこんな品物を見つけることは絶対不可能だ。」日本製の航海器具を指差しながら、トーフィクはそう語る。品物が希少価値を持つだけに、店は売値を高くつける。ところが実際にそんな珍しいものでもキロ2千から2千5百ルピアの量り売りで買えることもある、とかれはもらす。
船舶用器具ばかりか、クラシックカーの部品やアクセサリーもここで見つけることができる。21年間自動車部品を専門に商っているコ・アティンは、1918年から1989年製までの自動車用雑貨のストックがある、と言う。「何の部品を探してるの?インパラ?ブン・カルノのベンツ?何でもあるよ。」
それらの品物の由来がどうなっているのかをアティンは「知らない。」と言う。ドゥパッルクンで自動車部品を扱っている店には毎日だれかが物を買ってくれと言って持ってくるが、市場に店を張っているアティンをはじめとするおよそ二十人の華人系商人は、その珍奇な品物の出所を聞き出そうとはしない。「買取るだけだよ。どこから来たかなんて聞かない。」と語るアティン。
がらくた市場はやばい仕事で手に入れた不審な物品の同義語とされる。世間には廃品市場は泥棒市だというステレオタイプが植え込まれているのだ。だから、売りに来た品物の出所由来を尋ねるのはきわめてセンシティブな質問になる。そんな世間の目から、商店が故買屋だという非難を浴びないようにできるかぎりのことをしている、とアジス・ムスリム商店会事務局長は説明してくれた。
商店が買取るときは身分証明書のコピーを付けさせ、それが無理でも必ず身分証明書を提示させることを義務付けた標準手続きを採用している。また品物を商店に渡すとき、「その品は盗品ではなく、後日その品物に関連して問題が発生した場合は一切の責任を負う。」という宣誓をさせているそうだ。
「そりゃあ確かにむつかしい。おまけに品物がただの扇風機やメガネの場合などは不可能だ。だが、たった一回の取引きで大きなリスクを背負うのもいやだ。要は、この市場にあるもので、違法手段で手に入れたものはないということを信じてもらいたい。売買は白昼公然と行っている。心配は無用だよ。」とアジス事務局長。
ドゥパッルクン廃品市場はおよそ2千人の廃品取り扱い商が生計を立てている場だ。かれらの大半は1977年頃のトゥリ市場の火事でここへ移ってきた。かれらは「高く買い、安く売る」をモットーにしている。商人にあるまじき異様なその原則の意味をアジス事務局長が説明してくれた。
商人の95%はマドゥラ島出身者で、残りはジャワ人と華人だ。かれらは物が何で値段がいくらであっても買い、そして売るときはマーケットの相場よりずっと安い価格で売ることを理念にしている。買取った中古の品物をそのまま売ることはない。修理し、磨き、新品同様にする。注意深くない買い手は新品だと思ってだまされてしまう。
はじめは汚いぼろくずが修繕され、新品か新品以上のきれいなものに変身する。さびだらけの揚水ポンプでも、二三日かけて磨かれると新品同様になる。ポンプは最初ペーパーがけされて塗装を全部はがされる。次に壊れた部品が、やはり中古品の中から状態のましなものを探し出してきて交換される。最後にもっとつやの出る別色で塗装されてできあがり。
面倒で時間のかかるプロセスだから、そのポンプに40〜50万ルピアの値段がつけられるのも不思議ではない。新品を買おうとすると150万ルピアはするのだから。ところが、店側は10個まとめて50万ルピアでそのポンプを買ったのだ。交換するべきスペアパーツをあちこち探し回り、修理し、磨き上げた費用がその売値には当然含まれている。
別の店では中古のローラーブレードが2万5千から3万ルピアで売られていた。10万ルピア以上する新品に比べてこの値段は格安だ。だが店側はわずか5千ルピア札一枚でその壊れたローラーブレードを手に入れている。車輪は壊れ、紐もなく、他の部品も完全ではなかったが、それを再生するのに必要なものはすべてドゥパッルクンで手に入った。
外から来た客には、車輪一個2千ルピアで売られるが、同じ市場内の廃品商人には同じ金額で車輪6個が手に入る。
総面積17,370平米、建物面積15,259平米のこの市場を歩くのは快適とは言えない。廃品商人たちのエアコン付きの贅沢な住環境とは大違いだ。ベンツを乗り回すかれらが見せる市場内での姿は180度の開きがある。
しかし、クレージーな価格で品物を手に入れたいと望む購買客は、狭く埃っぽい道で汗を流すことなどいとわない。安くて良いもののハントに熱中するあまり、客はこの市場中をめぐって大金と時間を消費するという話しだ。
市場の状況がふつうの市場とかけ離れていることに加えて、百人に達するブローカーの存在も客の訪問意欲をそぐものだ。市場に足を踏み入れたとたん、ブローカーたちの旺盛な出迎えに接して身動きすら困難になる。
「何をお探し?わたしらも探し物のお手伝いができるよ。」などと言い続けながら、ブローカーは客の一挙手一投足をマークするために、客は気おくれしてしまう。廃品商人たちによれば、ブローカーの方がスタンドを持っているかれらより収入が多いらしい。「ブローカーはスタンドを持っていないのに、わたしらよりも金持ちだからもう何回もメッカ巡礼に行ってる。ブローカーは客の無知を利用して値段をできるだけつりあげるんだ。わたしらから直接買えばもっと安く買えるんだがね。でも、わたしらは構わないよ。糧を分け合うということだ。商売の邪魔になるわけでもないからね。」というアジス事務局長のコメント。
東部ジャワが誇る廃品市場の明暗はさまざまだが、あらゆる欠点をさておいても、国民に職場を提供して政府の負担を軽減している、試練に強い個人事業家たちへの賞賛はふさわしいことだ。驚くべき日商高を持つこの市場は4千人の雇用を創出している。
1977年に建設されて以来、この市場はあらゆることを独力で成し遂げてきた。モスク建設、94年と95年に火事で焼けたフェーズ1と2の建設。シンガポールにあるような廃品センターの建設も2002年に予定されている。独立独歩の発展を誇りにしながらも、かれらは行政からのアテンションを期待する。だが一日十億ルピアに達する売上を有するこの市場。期待するのは良いが、今の政府にはもっとプライオリテイの高い援助先がたくさんあるように思えるのだが ・・・・・
ソース : 2001年12月11日付けコンパス
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『廃品ビジネスはますます盛況』
どんな品物でも、廃品になってしまえばもう値打ちはない、とだれもがきっと考える。ましてや大都市では捨てるだけでもコストがかかる。そのような廃品が高い経済価値を持ち得るなんて、だれが思うだろうか。
しかし、西ジャワ州チレボン県パグラガンの事業家たちはその廃品ビジネスの力強さを見せつけてくれる。ずっと以前から、そして経済危機下にいっそうの発展を示すかれらのビジネスを見てみよう。
廃品という名が意味するのは、もうまったく壊れてしまったぼろくずだ。姿かたちも原形などとどめてはいない。たとえば、チレボンのヌサ・ンダ住宅地区でくず拾いが拾った濃緑色のプラスチック片は、もともとバケツ、たらい、それともいったい何だったんだろう?その家の住人がそのままゴミ箱に捨てたものだが、しかし普段グヌン・サハリ地区を縄張りにくず拾いをしているダルキムにとって、それは経済的価値を持っている。かれは鉄やプラスチック、あるいはビニールパイプなどいろんな廃品を、原形をとどめていようがなかろうが、回収しては収集場のオーナーに売る。
ダルキムは、大きいビニール袋だけを仕事の元手にしている数多くのくず拾いのひとりだ。間接的だとは言っても、かれは町をゴミからきれいにすることに貢献している。いや町ばかりか、くず拾いの活動範囲は全国津々浦々にまで広がり、廃品はくず拾いたちの手によって、かれらの家計を支えるものに変えられて行くのである。
「悪くないね。」バンドン近郊のチマヒにいたあるくず拾いは、その仕事でいくらの収入があるのか、との問いにそう答えた。「ならしてみりゃあ、一日3万ルピアの収入になる。状況次第だが、運がよけりゃあ一日4万ルピアになることもあるよ。」とかれはほほえむ。かれによれば、どんな物でも金になるそうだ。
「空き瓶や古ダンボールは持ってくよ。曲がった鉄なんか根こそぎだ。でも同業者の中には手の長いやつも少なくない。つまり廃品だけを持ってくんじゃなくて、住人が油断してれば物干しの洗濯物さえ持ってく。そんなくず拾いを『鷹の目くず屋』と言うんだ。」と語ってくれる。
扱われる品物がほかではゴミと見なされるものであり、またその環境が汚らしいことから、従来この産業にあまり注意は向けられないできた。更に、ラパック(lapak)と呼ばれる廃品収集場も、たいてい周囲を古トタンで囲った当座しのぎの姿をしているのがふつうで、みすぼらしくて汚い。ところが実際は、このビジネスはほかのビジネスに比べてとても魅力的なものなのである。
パグラガンの廃品事業家数十人が行っている廃品商いだけで月間数百億ルピアの収入を得ている事実がそれを証明している。「ここのハジはたいてい廃品ハジだよ。つまり廃品ビジネスでメッカ巡礼の務めがはたせるんだ。」とパグラガン村役のひとりは言う。
西ジャワ州北岸地方の一般的な経済構造は農業依存であり、住民の大半が農民として暮らしを立てている。パグラガンでも、住民のマジョリティが農業従事者であることは同じだが、経済状況は大きく違っている。ある推定では、この地域の人口の6割は農民だが、15%は公務員、25%は事業家で、事業家の全員が廃品売買業だとされている。しかも廃品ビジネスを内容とする商業セクターが、この地域の経済をリードしているのだ。地元有力者のひとりは「収穫が不作であっても、飢える住民が出ないのがその証拠だ。」と述べている。
1ドル1万2千ルピアにまで落ち込んだ為替暴落が経済危機を生み、インドネシア経済は大きく揺れ動いたが、廃品業界の収入もそれに合わせて落ち込んだということでは決してない。工業界が原材料の一部をリサイクル廃品に転換して経費削減をはかったため、廃品業界は世の流れとは反対にいっそうの活況を呈したのだ。
この業界が特別な技能や学歴条件を要求しない労働集約産業であることを考えれば、数十万あるいは数百万人のひとびとの暮らしがその強さによって支えられているにちがいない。大きな資金はいらない。「大事なのはハードワークと粘り強さだ。」と廃品事業家のひとりはコメントする。
きわめて軽い条件のゆえに、ひとはだれでも自分の能力に応じてこのビジネスに参入できる。くず拾いは大きな古袋か荷車だけで十分だ。一部の人は廃品と交換するための玩具や風船を元手にし、自転車に乗せたり担いだりして村を巡る。
くず拾いの上には、かれらを何人かコーデイネートする買取り業者がいる。買取り業者はたいてい収集場を持ち、定住して事業を行っている。そこから更に、ボスと呼ばれる大親方へと廃品は流れる。ふつうは2〜3人、場合によってはもっと多くのボスがひとりの買取り業者についている。くず拾いが買取り業者に持ち込む廃品の種類が多岐にわたっているので、それは当然だと言える。
収集場事業主に「商品」を運搬する面倒はない。毎日あるいは二日に一度、収集場に専用トラックがやってきて廃品を運び出す。この廃品ビジネスでは、ほかの商品のように商品が金を求めるのではなく、金のほうが商品を求めてやってくる。そのため、ボスが収集場を訪れて収集場事業家に金を貸そうと申し出るのは稀なことではない。それはビジネス関係を結ぶための手付金になるのだ。
ボスは廃品原材料の納入を工場から請け負っているお得意さんだ。故鉄、金属、空き瓶、プラスチック、段ボール、故紙などの専門化も進んでいる。ボスのビジネスは独占傾向を持つために、収集場事業家がボスをバイパスして工場に直接納入できる可能性は薄い。「工場が買ってくれたとしても、安値にされて損するから、二度と工場に直接売ろうとは思わなくなる。」廃品ビジネスの裏表をある収集場事業家が教えてくれた。
西ジャワ州最大の廃品業センターであるパグラガンは村であり、郡でもある。郡としては、近隣6か村を合わせて2001年4月12日に新設されたばかりだ。パグラガン(Panguragan)の名は超能力を持った美しい娘から取られている。宗教師キ・グデン・スラパンダンのその娘は、身体から花のような香りを発したことから、後にニ・マス・ガンダサリと綽名された。パグラガンにあるかの女の墓は、多くの参詣者が訪れる聖地になっている。
パグラガン郡の人口は3万6千人強。この地域の廃品事業家は街の中心をなしているパグラガン、パグラガン・ロル、パグラガン・ウエタン、パグラガン・クロンの村々に集中している。ところが、この地域のひとびとが築き上げた廃品売買ネットワークは全国津々浦々にまで広がっている。
住民のひとりは「パグラガンの者は、イリアンジャヤを除いてほとんどの地方で廃品買取り業を開いてるよ。故郷からはるか遠くで、かれらはさまざまな廃品を集め、パグラガンの廃品センターにコンテナで送ってくる。」と語る。
この地域で廃品を扱っている事業家は百人を超えると推測される。鉄、トタン、プラスチック、空き瓶から骨まで、ありとあらゆる物が回収される。「人間の骨だけだろう、ここで売れないのは。」と故鉄を扱うボス、ハジ・マドライスの言。
「牛、水牛、そのほかの家畜の骨なら必ず金になる。だが、どこへ送られてどうなるのかは知らない。」と語るのは、去る4月15日に三十の廃品事業家を集めて設立されたパグラガン廃品業者協同組合のスヘルマン・ファハルデイン事務局長。かれによれば、空き瓶こそがその地域のプリマドンナ商品なのだそうだ。
「空き瓶商売だけで毎月220億ルピアに達する。故鉄、故紙などほかの商品は別にしてだ。」
パグラガンで商われる廃品の中で、たぶん空き瓶だけが原形を保っているものだろう。いや、割れた瓶が金にならないと言っているのではない。空き瓶の破片さえもが量り売りの対象になるのである。
この地域の廃品ビジネスの中で、空き瓶商売がその半分以上を占めていると見られている。ペニシリンのような注射液の空き瓶は、周辺のインドラマユ、スバン、チカンペック、プルワカルタなどからカルティカが集めてくる。かの女はふつう、病院、保健所、医者や治療保健師の開業場所などをまわる。点滴液を入れてあったビニール容器にも、かれらの目は経済価値を見出す。薬剤の空き瓶と同じように、点滴液の容器も半月あるいは一月に一度、回収人が集めてまわる。回収人はほとんど顔なじみになっており、病院職員に価格交渉の面倒はない。これも買い手のほうからやってくる例のひとつだろう。
スマトラ、カリマンタン、スラウェシなど西ジャワ州外からも空き瓶は集まってくる。その広範なビジネスネットワークから、この地域における空き瓶やそのほかの廃品の流通がどれほど大きいものであるか想像できようというものだ。
空き瓶がプリマドンナだというスヘルマン事務局長の言葉は、去る11月4日に証明された。その日だけで5業者がトラック207台分の空き瓶を出荷したのだ。1台1千万ルピア相当として出荷総額は207億ルピアになる。そしてこの地域にはまだほかに15の空き瓶業者がいる。業者数が多いこととは別に、商われる瓶の種類も多種多様だ。飲料やケチャップなどの空き瓶に特化した者がおり、また香水や薬剤用小型瓶に特化した者もいる。
それらの瓶は独自のマーケットを持っている。ケチャップの空き瓶はスマランに送られる。飲料の空き瓶は、フルーツジュース用として使われるために北スマトラ州メダンに送られるものもある。形態と用途が一様でないので、空き瓶の価格も千差万別だ。ファンタ、スプライト、テボトルなどの空き瓶は値が安い。ほかの会社で使うことができないからだそうだ。一方、シロップの空き瓶などはもっと値が高い。ほかの会社も使えるので買い手が多いためだ。
空き瓶事業家の経験では、ルバラン、クリスマス、新年などを迎える3〜4か月前になると一般用の空き瓶は値が上がる。工場での生産がアップしているので、空き瓶は1本4百ルピアにまで高騰する。そしてそのピークを超えると市場もダウンするので生産が減る。こうして空き瓶価格はまた平常に戻る。「値が下がって1本100〜125ルピア程度になっても普通に売る。」とその事業家は語る。
空き瓶業界がいつも順風満帆だったわけではない。1992年に政府が出した製薬業界に対する空き瓶使用禁止の法令は業界に大打撃を与えた。「ここの空き瓶事業家はみんなノックアウトだった。損が大きくならないように、空き瓶をつぶして破片で売ったが、値段はしれてる。だいたいみんな損してるよ。」と事業家のひとりミネンは回想する。
その法令が出されてから、この地域の売上は大幅に低下した。薬品や飲料の製造工場が、違反の罰則を恐れて空き瓶を買わなくなり、価格は前代未聞の大暴落となった。しかし、従来空き瓶再利用で需要を満たしていた製造工場は、政府が指示する新品の瓶を使うことで製造コストが上昇し、そんな状況に耐えられなくなってきた。それから二年、製造工場は密かに新品と空き瓶を半々に混ぜて使うようになり、その変化は即座にパグラガンの空き瓶業界に新風をもたらしたのだ。空き瓶ビジネスがふたたび立ち上がった。そのブームに新たな事業家たちが参入した。そして長引く経済危機が更に空き瓶需要を推し進めた。
ルピア為替レートの暴落で、事業生き残りをはかる製造業界は生産コスト削減のために空き瓶再利用にシフトして行った。経済危機は、パグラガンの廃品ビジネスに追い風となった。「経済危機で落ち込んだのは、外国から物を買ってルピアで製品を売っていた連中だけだ。」と語るある事業家は、その危機が思いもしなかった利益を享受させてくれたとコメントする。
空き瓶や廃品の価格は為替レートの影響にさらされなかったが、一方で空き瓶需要家への価格は上昇した。単純な利益増だった。その差益は工場と直接関係しているボスや大手の事業家たちだけが享受した。そして、空き瓶需要のアップが予想外に大きいことが知られるようになるにつれて、収集場事業家やくず拾いにもそのおこぼれがやっと回ってくるようになった。あまりにも大きな需要を前にして、業界は四苦八苦しているのが実情らしい。だから資金力のある収集場事業家は、「空き瓶を何本持ってきても全部買い上げる。」と豪語しているという。
活況を呈する空き瓶ビジネスは、収集場事業家やくず拾いのビジネスチャンスを拡大したばかりではない。空き瓶を再利用する工場の多くは瓶をきれいにしてから納入するよう要求するため、あちこちに空き瓶洗浄の新ビジネスが登場した。
このビジネスは主婦や子供の片手間仕事として行われているのが多い。かれらは1本あたり20ルピアを手に入れる。「一日に4〜5百本洗えるよ。わたしらのような貧しいカンプン者にとって、一日8千から1万ルピアの収入は結構なものだわ。」と主婦のマ・ラチさんは語る。夫あるいは男手は、品物の積み込み積み下ろしをする担ぎ人足の仕事をしたり、品物を選別して袋に入れる仕事をする。一日の手当ては1万5千〜1万8千ルピアで、昼飯と朝のコーヒーがついている。
空き瓶や廃品からの生計が最下層にまで達したとはいえ、それはまだあまりにも小さいものだ。事業家と一般庶民の格差は大きく、それはこの地域の住居や生活環境にはっきりと顕れている。
ソース : 2001年11月9日付けコンパス
「廃品ビジネスは耐震ビジネス」「空き瓶、パグラガンのプリマドンナ」のふたつのルポ記事をまとめたもの。
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『ひとシーズンだけの希望』
今月第二週の金曜日の午後、中部ジャワ州ウンガランのプリンガプス郡クレプ町住民テレシア・スギミ33歳は、家を片付け子供をマンディさせてから朝行っていた仕事に戻った。ウンガランの会社から請け負った、ドイツやヨーロッパ諸国に輸出される靴を縫うのがかの女の仕事。
かの女は赤いビニール袋から未完成の靴を取り出した。繊細で柔らかい革靴だ。この靴はドイツに輸出される。
とても高価なその靴は一足30万ルピアもするそうだ、とギミと愛称で呼ばれるスギミは話す。ギミの仕事は、ある会社が作った靴の上の部分と別の会社が作った靴底を縫い合わせること。工場で働くよりリラックスして仕事ができるように見えるが、労働時間は一日8時間という標準を上回っている。
その実態はまるで、かの女のポジションをカリカチュア的に描いているようだ。工業労働システムの『靴』に踏みつけにされている労働者の姿。そのシステムはいまや村落部に入り込んで社会システムに影響を投げかけているが、悲劇的なのは、村人たちがそんな仕事があるのを幸運だと思い、社会学者がプッティングアウトと呼ぶ家内的下請け仕事をニャンビ(サイドジョブ)と称していることだ。実際には巨大資本や大型生産規模の工業システムによる搾取なのに、「仕事がないよりはニャンビ」という肯定的な響きの言葉が言い交わされている。
ギミは朝7時から昼までその仕事をし、午後3時から再開して夜9時まで続ける。つまりギミは毎日11時間靴を縫っているということだ。皮肉なことに、その労働時間とかの女が受け取る賃金は好対照をなしている。
産業の車輪の機能を、ジョクジャのバティック衣料品会社のシティ・マイムン、ヤティ、パルシニ、パルシナたちも演じなければならない。スラメット・プラモノにしてもそうだ。スラメットは1993年にPT GTOを離れたが、いまだに巨大産業の車輪の中にいる。
ちっぽけなネジのようなシティと仲間たちは、飯、野菜、サンバルに豆腐かテンペひときれが入った弁当を食べる昼休みにも、小さい椅子から動こうとしない。来週もまだ仕事があるかどうかなど、だれにも確かなことはわからない。来年また外国から注文がくるのだろうか、ということも予測はつかない。ましてや病気になったら・・・・、子供の学校に必要なお金は・・・・?
「そのときになってみなきゃわからないわね。」夫がスレマンに帰郷するためにスマランからジョクジャに移って来ざるを得なかったパルシニの言葉。
靴一足を仕上げてギミが手にするのはわずか9百ルピア。計算してみれば、かの女のひと月の収入は13万7千から15万ルピアにしかならないことがわかる。材料を取りに行き、製品を納入するときの交通費はそこからまかなわねばならない。会社とギミの家は一キロほどしか離れていないが、一往復で千二百ルピアが出て行く。一ヶ月で1万8千ルピアになる。
ギミの収入が低い要因はいくつかある。靴を縫い合わせる仕事はひとりの職人がどんなにがんばっても一日20足が限度だ。そんな肉体的限界に加えて、ギミに仕事をオーダーする靴会社は二日で三十足以上のオーダーを出さない仕組みだ。
低い賃金のほかには食費も交通費も何ももらえない。ただ、イドゥル・フィトリやクリスマスの前に、ハリラヤボーナスのようにして会社が出す1万5千ルピアがあるだけだ。「ハリラヤが祝えるように、とのお情けのしるしでしょう。」と語るギミ。
かの女は同じ仕事をしている仲間を誘って、オーダーを出している会社に福利厚生問題を問いかけようとしたことがある。残念ながら、大半が50歳前後のご婦人方であるかの女の仲間たちはその提案を拒否した。「あのお母さん方を支えて抗議に向かわせるなんて不可能に近い。仕事をもらえるだけでもありがたいと思ってるし、しかもこれはニャンビなんだから。ヌリモの姿勢のおかげで難しいったらないわ。」労働者の権利を擁護する活動をして去年解雇された、ひとり娘を抱えるギミはそう語る。
明確な労働契約はなく、スギミと百人の仲間たちの交渉力は弱いものでしかない。低賃金以外にも問題は多い。スギミと仲間たちはいとも簡単に悪者にされてしまう。破れたり、壊れた靴底があった場合、その原因が自分になくともそのミスの責任をかぶらなければならない。会社が取らせる責任は賃金カットであり、靴底に傷があればひとつにつき450ルピアがカットされる。「しばらく前にその工場で革の盗難事件があったけど、責められたのはわたしたち縫製オーダーをもらうお母さん方よ。罰を与えられることはなかったけど、あんな風に悪者にされると哀しい。」
会社と靴縫い作業者の間には懲罰もある。「縫い目がよくないと、一週間オーダーをもらえないのよ。」とギミは付け加える。
モールのショーウインドーに飾られた一着150〜200万ルピアの背広は、スラメット・プラモノにとって別の意味を持っている。目は即座に我を忘れてその仕上げを調べ、手は素材の上を這う。裁断と縫製のレベルはどうか、裏地は、細部は、そして言うまでもなく着心地は?スラメットはそれを買おうとしているのではなく、その背広を研究しているのだ。
男性服女性服の型紙つくり、布の裁断、裁縫、要するに服の仕立て屋であるかれは、店にある服の値段と仕上げを見る。その開きのなんと大きいことか。
「ズボンはたいてい会社が自分で請け負う。一般的に簡単だし、面倒が少ない。でも背広は複雑だからよくオーダーが出る。」ある大会社の布裁断専門工として一日2万5千ルピアの契約で働いたこともある四児の父。
「名前のある衣料会社や仕立て屋は客に対して、普通クラスのスーツは一着25万ルピア、上級クオリティだと45万ルピアの値をつける。中には何百万というのもあるけどね。でもわしが得るのはせいぜい10万だ。その代わりにわしは電動ミシン、電気アイロン、素材に応じた布製ファスナーやボタン、裏地やポケット布を用意しなきゃいけない。10万の中でわしの手に残るのは実質4万5千ルピアくらいだよ。」朝7時半から夜10時まで、およそ2時間の休憩を取る以外スラメットは5つの会社から受けた背広の注文を、型紙、裁断、裁縫、仕上げを自宅で行いながらこなす。ジョクジャのドマガンにある大手のPT GTOで1989年から1993年まで働いたとき、かれの収入は毎月35万ルピアを下ったことはなかった。その衣料品会社がつぶれ、かれはジョクジャのトップ仕立て屋4〜6箇所で働いたが、結局家に戻って仕立て『コントラクター』になることに決めた。いまでは大学、軍の公式制服、女性用ジャケットなどの注文が取れるようになり、先行きのはっきりしない会社からの下請け作業を取る気はあまりない。
スギミもスラメット・プラモノも家内労働者と呼ばれる数百人の下請け作業者のひとりだ。かれらの状況は工場労働者よりはるかに悪い。
スギミと仲間たちは何の契約書も持っておらず、その結果会社はかれらの運命など気にもかけず、好き勝手な仕打ちをかれらに加えることができる。スギミは賃金を現金で受け取っているだけまだラッキーだ。下請け作業者の中には、いつ現金化できるという明確な説明もなしに伝票で支払われる賃金を受け取っている者もある。おまけに、作業者が前払いを求めたという口実で賃金が割り引かれている者すらいる。
作業の仕上がりがきたないという批難をかれらは拒めない。ところが、そんな批難は既にきわめて低いレベルの賃金をもっと小さくして支払い負担を軽くしようとするただのトリックである可能性も否めないのだ。
スコハルジョのトランサン村にある家具下請けの職工になったプリハティン17歳とエルナ15歳のふたりの少女は、頻繁にボスから借金しなければいけない。「賃金が払われるのを待ってたら、わあ、いつのことやら。お金はいますぐいるの。お母さんが食材を買う足しにしなきゃいけないから。」
切迫した必要から、ふたりの姉妹は借金を口実に賃金を削られることに同意する。「だって、そうしないとお母さんが食べられないんだもの。」と言うエルナ。
企業にとって下請け(請負)労働者の使用は、工場で労働者を働かせるよりはるかに割がよい。トランサン村にあるCV Kharisma Rotan Mandiri社オーナーのスプリヤディは、受けたオーダーを自分で作業するよりはよそに投げる方を選ぶと語る。かれの工場の周辺には、数千人の下請け作業者がかれからのオーダーを待っている。
工業システムにおける分業と、業界から村落部への資本主義的傾向を持った関係の浸透を社会はあるがままに受け入れている。軽いリスクで最良の成果が得られることが望まれているのだ。
「わしもそうだよ。上級クオリティの背広60着の注文がある。型があまり違ってこないようにするために、型紙つくりと裁断はしょうがないから自分でやるが、裁縫と仕上げの全部はほかの仕立て屋にオーダーするよ。そのやり方のほうが早く金になるし、布が傷ついたり縫い間違いが起こったりなんていうリスクも自動的に下請け者の方に流れていくからね。」そうすればスラメット・プラモノはいく晩も縫い物で夜更かしすることもなく、また電動ミシンの電気代を使うこともない。
何層にも積み重なり、リスクは下へ下へと押しやられるシステムの中で、労働者になった村人たちが、ひょっとしたらわたしたちが着ている背広をはじめとして、さまざまな消費物資を作り出している。この豊かさは、本当は村にしたたった汗の上に乗っているものなのだ。
ソース : 2001年11月18日付けコンパス
ライター: Vincentia Hanni S
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『カキリマ商人のショバ』
[ 掠奪される金鉱 ]
2000年11月末以来、東ジャカルタ市ジャティヌガラ郡ラワブガ町ブカシ街道のカーブはカキリマ商人でいっぱいになった。このにわか市場はラマダン月に限っての季節的なものだ。タクビランの夜が迫れば商売も終わり、ひとりでに消えて無くなってしまう。
12月6日、その一帯の商人たちのうち12人がラワブガ町役場を訪れた。村落民衆防衛機関のスダルノ出納役がその商人たちを迎えた。商人たちは、かれらから不法徴収金を取り立てているのが本当は誰なのか、その説明を求めてやってきたのだ。
「ひとりずつ30万ルピア払わないといけない。12月10日までにだ。そうしないと、あそこで商売をやらしてもらえなくなる。」
商人グループのひとり、ハディはそう言う。ハディと仲間たちは、大勢のやくざ者がかれらから不法徴収金を取っている、と言う。
「金を取るとき、やくざ者はラワブガ町役場の人間の後ろ盾を得ていると言うが、わたしらの中で払う者は少ししかいない。他の者は拒否してる。」と別の商人が言う。そこを明らかにしてもらおうとして、商人たちは町役場へ来たのだ。
ルバラン祝祭日が近づくと、カキリマ商人の売り場が都内のあちこちで芽を吹く。そして、その裏では、やくざや役人が行う不法合法の徴収金も花開く。
中央ジャカルタ市タナアバン地区でも、似たようなことが行われている。タナアバン市場Aブロックの区画に売り場を持つ商人の多くは、45万ルピアを納めたことを認めている。
「その金額はまだ安い方だ。Fブロックだと一区画50〜60万ルピアが徴収されてるんだから。」名前は書かないでくれ、と言うある商人の証言だ。
ブンドゥガン・ヒリル市場の区画はそれよりもっと高い120万ルピアだ。この市場では、だから一区画にカキリマ商人がふたり入っている。
ジャカルタ南部地区で既にまるで最大のカキリマセンターのようになってしまったブロックMでも同じだ。駐車用スペースや歩道のすべてがカキリマ商人でいっぱいになっている。びっしり連なるカキリマ商人の売り場を通り抜けるのに、歩行者はたいへんな努力を払わなければならない。芝が植えられていたグリーンゾーンは、ずっと以前から踏みにじられて土が露出している。
「多分その緑地を直すためもあるんだろう。このラマダン月の一区画2平米の値段は70〜80万ルピアだよ。」シャツ売りのファイサルの談。
初売りの場合でそんなものだ。再販されれば、その区画の値段は2百万ルピアにも達する。その金は商人たちの手から流れ出てくるが、都庁の金庫に入って行くのではない。やくざ者や都庁職員個人の懐へ流れることもあり得るのである。
タナアバン公設市場で子供靴を売っているズルカルナエンは、わずか1.2平米の区画にさえ掛けられた徴収金を納めたとき、領収書などまったくもらえなかった、と告げる。
「せいぜい、アスファルトに書かれた区画番号を使う権利を有す、と書いてあるカードみたいな紙をくれただけだ。」
確かにタナアバン公設市場Fブロックへの進入路の左右には、チョークで書かれた番号がはっきり記されている。
そんなわけで、カードを持たない商人が入れる区画などない。「そうやって区画を区切ってるのは、商人同士で取り合いの喧嘩が起こらないようにするためじゃないか?」パダン出身のズルカルナエンはそう語る。
一区画60万ルピアというのは場所のスペースのためだけだ。売り場の陳列台を仕立てるためのビニールテントやベニヤ合板の費用はまた別だ。安物の材料を使った売り台を造るのは集合的に行われるために、商人たちはまた金を出さなければならない。
「ここの警備員が商人ひとりひとりから徴収する金もあるよ。」とある商人は訴える。
商人たちにとって、徴収された金が都庁政府に入ろうが、やくざ者、はたまた特定役人の懐に入ろうが知ったことではないのだ。かれらは繁華な場所で商売できることを好運と考え、ルバランを予定している消費者からこのラマダン月に何倍もの利益が得られることを期待している。おまけにクリスマスもほどなくやって来ようとしている。
45万ルピアを超える区画料を含む、どうしても支出せざるを得ない総資金よりはるかに大きい利益を手にすることができる、と商人たちは経験的に知っている。商人のひとりは「ふつうはそれでもまだ利益が残るよ。」と述べている。
カキリマ商人から区画料として集めた金を数えれば、数億ルピアに上るはずだ。計算してみれば良い。タナアバンのAブロックだけで7百人の商人がいる。みんなから最低額の45万ルピアを徴収したとしても3億ルピアを超える。Aブロックだけでそれだ。ブロックはもっとたくさんある。いや、プアサの期間中にカキリマ商人のにわか市場となる都内の他のエリアやパサルだっていっぱいある。おまけに、それらの場所で毎日徴収されている保安料や清掃料もあるではないか。
都議会第B委員会メンバーのサンブディ・バクリ議員は、「ラマダン期の季節的カキリマ商人用売り場区画の公正な運営を、首都公設市場公社に対して何度も注意している。」と語る。
「公正適切な運用がなされるなら、市場公社の収益はすぐ十倍になるはずだ。一区画だけで120万ルピアが徴収されるブンドゥガン・ヒリル地区を例にとるなら、その地区に50区画あるとしても、ラマダン期間中に市場公社には最低六千万ルピアが入ってくる。日々商人たちから徴収されているRp.22,500はまた別だ。市場公社の2001年度収入目標が31億ルピアとなっているが、ほんとうなら二百億はゆうに超えるだろう。公社の会計に入っていないラマダン期のカキリマ商人区画の金がいったいどこへ流れているのか、それをわれわれは問題にしている。」
サンブディ議員とトーンを合わせて、アマルラ・アスバ都議会第C委員会議長も「その金の流れを明らかにするよう市場公社に説明させる。」と述べている。カキリマ商人たちは穏やかに商売にいそしむことができるようにしてやるべきだ。そして、かれらから集めた課金は黄金の鉱脈として都庁財政を潤すようになるべきなのである。
[ 競売になると、商人たちは奪い合い ]
カキリマ商人用の区画に450万ルピアから630万ルピアの値がついても驚いてはいけない。たとえ、せいぜい4平米の土地がラマダン期間中しか使えないとしても、である。
区画を手に入れるのが実に難題なのだ。ましてや、南ジャカルタ市ブロックMバスターミナル地下にあるブロックM第二プラザのような好立地条件の場合は。
「人通りのもっとも激しい最前列を手に入れようと思ったら、もうたいへんだよ。」育毛剤や髪染めを売っているジョコの弁。ラマダン月は他の月とはもちろん違う。
「他の月は一区画300〜450万だ。ルバランだから貸し料が高くできるチャンスなんじゃないか?」とある商人は言う。
ブロックMターミナル公園のカキリマ区画に店を張っている商人は素朴にこう語る。
「その金がどこへ流れるのか、何に使われるのか、そんなことは誰も興味を持ってないよ。ここの値段は、あの第二プラザとは全然違う。ここだと60〜70万ルピアだ。だいたい設備が大違いだよ。あっちはエアコン完備やら何でもあり。ここは日が照りゃ暑いし、雨降りゃ濡れる。まあ当然だろうね。」Tシャツ売りのソフィアンのせりふ。
区画の値段が目の飛び出るようなめちゃ高であっても、商人たちはお構いなしに奪い合う。二次三次と売買の手を経るごとに値段は倍増して行く。商人の必要性がその値段を決めている。
「場所が良さそうでご利益もついてりゃあ、まあそうなるね。その場所をどうしても使いたい人が無理にも売ってくれ、と言ってくるんだ。」ソフィアンはそう説明する。
商人同士の売買が盛んに行われる傍らで、口利きブローカーも徘徊する。
「おれは仲間たちが安全に商売できるよう、許可をもらう世話をしてるだけだよ。それが終わりゃあもう何も干渉しない。」東ジャカルタ市ジャティヌガラ郡ラワブガ町役場で出会ったブローカー氏はそう語った。このブローカー氏に出会ったのは、ジャティヌガラ駅前のブカシ街道カーブ沿いにあるカキリマ商人用区画で商売している商人グループが、町役場の名でかれらに不法徴収金が課されていることを確認するために役場を訪れたのを取材したときだ。ブローカー氏の話しでは、場所決めをする前に、予定用地にどのくらいの商人が来るか、というデータをまず取ったそうだ。「場所が決まってはじめて、おれらは祝福をもらいに行ったよ。その地元のやくざや、あるいはその場所を支配するお役人に直接ね。」
どこへ流れ去ったか灰色の数億にのぼる区画貸し料の動きに、アマルラ・アスバ都議会第C委員会議長は「この機会をとらえよ。」と市場公社と都庁に対して檄を飛ばした。
「例年出現するラマダン月商人の存在をちゃんとしたメカニズムに乗せるべきだ。商人への課金は公的なものとし、首都財政に繰り込むべきなのだ。まるで不法の臭いふんぷんで、一部の者だけを利している今のあり方ではいけない。高い透明度でこの問題を処置しなければ、これは市場公社悪徳職員の不法金の狩場となってしまう。」と議長はコメントする。
都議会第B委員会メンバーのサンブディ・バクリ議員のコメントは更に鋭い。「市場公社がこの区画問題の解決に能力がないようなふりをしているのは、悪徳職員が故意に手をつけないようにしているためではないか。ジャティヌガラだけで一日3百万ルピアの駐車料金が入ってくるから、ひと月では9千万ルピアになる。それほど多くの潜在的収入源を持ちながら、公社の2000年予算における収入目標は27億ルピアしかなかった。ラマダン月はひと月だけだが、カキリマ商人用区画収入は巨額なものになる。ブンドゥガン・ヒリル市場だけでも六千万ルピアもあり、都内には百箇所の市場がある。そして公社は商人ひとりひとりから毎日Rp.22,500を徴収している。隠し立てしないで、本気で全収入をそろえれば年間二百億ルピアは軽くオーバーするはずだ。」
このあらゆることが異常な時代に、「年に一度不法徴収金をエンジョイして何が悪かろう。」と考える悪徳役人がいないという保証はない。かれらは、自分の懐を肥やすためのその事業を、どうして都庁財政のために変えていかねばならないのか、と考えているかも知れないのだ。
ソース : 2000年12月11日付けコンパス
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『人はせいぜい呪いを口にするだけ』
爆竹はどこから来たのだろう?大勢の人を驚かすことのできるこのおもちゃは、あちらこちらから炸裂音が聞こえてくる通り依然として街にあふれている。禁止と取り締まりが続けられている中でいったいどうやって世の中に出回り続けているのだろうか。
西ジャワ州スカブミ県スカラジャ郡ボジョンサワ村に立ち寄ってごらん。この村は爆竹生産の中心地のひとつとして有名なところだ。聞けば、村の生産品はジャカルタをはじめ、西部中部東部ジャワの都市部で売られているらしい。
「村民の三割が爆竹生産者だ。」とボジョンサワ村書記Mユスフは語る。村の人口はおよそ6千人。爆竹生産はラマダン月にだけ行われるそうだ。
「爆竹製造は年一回だけだし、それも一ヶ月間フルに行うわけじゃない。」爆竹の製造、販売、使用の禁止は間接的に村民を殺すのと一緒だ、と不満を述べるボジョンサワ村ベンチョイ集落住民アセップ・アブドゥラ48歳。自分も爆竹生産者であるかれは、ボジョンサワ村の爆竹生産者はみんな貧農なんだ、と話す。生産者一軒当たりの元手はせいぜい50万ルピアで、その資金を回転させながらルバランの一週間前に生産を終える。つまり最初、その元手で爆竹が二〜三バール(一バールは一万個)できたら、その売上を使って次の生産で三〜四バールを作る、というやり方を繰り返す。
「ルバランの一週間前には、衣料品や料理の材料などルバランに必要なものを買って祝祭を迎える準備をはじめるからだ。」チャベ・ラウィッ型爆竹をもっぱら作っているアセップはそう説明する。「悪用されるといやだから、わしは大型爆竹は作らない。小型のチャベ・ラウィッ型だったら、驚いた人がせいぜい呪いを口にする程度だし、危険がないのははっきりしてる。」危険はない、とアセップは言うが、この村の爆竹製造者は仕事中に大勢死んでいる、と息子のデデンはささやく。
今年の生産量が減っていることをアセップは認める。先週本紙がインタビューしたさい、やっと1バールできたばかりだ、とかれは述べていた。警察の取締りで発注者のオーダー意欲は冷え込んだようだ。かつては毎年、ひとシーズンに7〜8バールを生産した、とアセップは言う。それは初期資金が十倍前後に膨らむことを意味しているのだ。
「ことしは苦い年になる。」禁止令の取り消しを要望する気持ちをこめてかれは語る。ルバランのための金を得る手段を村民はそれ以外に持っていない。
この村の爆竹製造を、生産者たちは貧困と結び付けたがる。ボジョンサワ村の農地所有はおおむね、一世帯あたり四分の一ヘクタールに満たない。日々の需要を満たすだけの余裕はそんな農地からは得られない。ましてや、ルバラン祝祭を喜び合うための新調の服と料理を用意するのは、そこからでは無理だ。アセップは集落の様子を見せようとして、記者を案内して回った。稲が植えられているのはほんのわずかであり、それも町の人間と契約した収穫シェアシステムに基づいて行われているだけ。
あいている農地にどうして稲を植えないのだろうか?「耕作のための費用をまかなう資金がない。種苗や肥料は値上がりするばかりなんだよ。」というアセップの説明。
その集落にもモダンな建築の立派な家がいくつかある。「ああ、あれはサウジのおかげなのよ。」アセップの妻、アニ・ギンティンの言葉だ。アニ自身も1995年ごろ、サウジアラビアへ二年間出稼ぎに出たことがある。蓄えたかなりの金を持ち帰ったアニは今自分たちが住んでいる恒久素材建築の家を建てた。
ボジョンサワ村は四か村が集まったもので、どの村でもたいていサウジアラビアへの女性海外出稼ぎ者を送り出している。「サウジがなかったら、このへんの農家はいまだに竹のあばら家のままだろうね。」とアセップは言う。
生産者につながっているのは商人だ。西ジャワ州ボゴール県パルン郡は爆竹が盛んな地区のひとつ。パルン市場でもうどのくらい爆竹を商っているのか、との質問に、マンシュル25歳は「もう何十年にもなる。」と答えた。かれはパルン地区周辺の小規模製造者から直接仕入れるそうだ。仕入れ品の大半はジャカルタの商人に卸し、残りをみずからパルン市場で小売している。
「これは年1回の季節ビジネスだ。」とかれは言う。自分は零細商人で一日の売上は5万から10万ルピア程度だが、ハリラヤが近付くと大規模商人は一日数百万の売上をあげることもある、と物語る。パルンの今年の爆竹商売は低調だそうだ。
爆竹だけでなくほかの雑貨も扱っているサミンは爆竹の商売が低調な現状について「警察がこれまでより厳しくしているからだ。」とコメントする。かれもパルン地区の住民であり、11歳から爆竹ビジネスに手を染めているかれは地元で、「爆竹サミン」の異名で呼ばれている。
かれは卸しをしているが、それ以外にチプタッの婦人警官学校へも商品を納入している。婦警候補生に対する教育訓練用として、学校は毎月大型の爆竹を発注してくるのだ。「長さ15センチ、直径5センチほどの特別サイズのものだ。他にも戦闘訓練用として長さ三メートルの爆竹連の注文も来るし、ある特殊部門はときどきもっと大型のものを注文する。ついさっきも10本の注文をもらったばかりだ。」と語るサミン。
通常のビジネスに関しては、チレンシ、ジョンゴル、ボゴールからのこのラマダン用の注文をもうもらっているそうだ。みんな幼児の小指大の小型爆竹で、それぞれ1バール。「去年は一千四百万ルピアの損を出した。大量に注文して結局金を払わないやつがいたから。」
自分は爆竹のビジネスで生きていくよう運命付けられていたのだ、とかれは感じている。「これまで果実、魚、鶏と様々なものを手がけてきたが、どのビジネスも何一つ成果なくすべて壊滅だ。爆竹を扱うようになってやっと一息つけるようになった。オーダーは途絶えたことがない。」そうサミンは語る。
サミンによれば、爆竹ビジネスの黄金期は1988年〜1989年だった。「あのとき俺はキジャントラックニ杯分、つまり50バール以上の爆竹を売った。今年はプアサの第一週の週末でやっと5バール捌いた程度だよ。」
「爆弾による爆破事件があちこちで起こっているせいだ。」かれは低調な商売の原因をそこに求める。そんな事件が起こるために、オーダーを受けるさいには用心深さが要求される。「どこかを爆破する目的を持ったやつの注文だったら心配だよ。注文されても、大型サイズなら特に、そいつの身元や自宅の隣組長からの証明書なんかを問い質すことにしている。そういうのがはっきりしていなかったら、とても注文には応じられない。」と言うサミンは、去年ジャカルタで起こったイスティクラル・モスク爆破事件に関連して、自分の名前があわや関係者リストに載せられそうになった、と告白する。
あの事件の暫く前に、かれは爆竹製造に使う薬品を大量に求めている男の訪問を受けた。「疑わしかったし、そいつは証明書なんか何一つ持っていなかったから、もちろん注文には応じなかった。そいつが爆破事件の犯人だったかもしれない。」サミンはそう回顧する。
「俺の爆竹は不発なしだ。保証する。」と商売人スタイルでかれは言う。つまりかれのは、点火すれば確実に大音響で破裂する、というのだ。だからパルン市場で売られている爆竹の相場よりちょっと高い。「爆竹連はふつう6千ルピア程度だが、俺のは一メートル一万ルピアだよ。」と自慢げに語る。だからもし「バーン」という音であなたが驚いたとしたら、それはきっとサミン製の不発なし爆竹にちがいない。
ソース : 2000年12月10日付けコンパス
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『中途半端だらけの公共輸送対策』
インドネシア、特に都市部での公共輸送問題に対する政府の対応が従来と同じであるなら、満足の行く改善はいつまでたってもなされないだろう。あらゆる面にわたって中途半端で、政治利害の色濃い政府の対応は問題の核心に触れたことがないのだから。
公共輸送には二つの領域があり、その取扱いは区別されなければならない。ひとつは選択的な公共輸送、中でも支払能力のある一部のひとの用に供するためのものと、もうひとつは大多数庶民のためのもの。前者はタクシーのような経済的に余裕のあるひと向けのものであるため、大きな社会問題を引き起こすことは稀だ。なぜなら、その種の輸送機関のサービスを享受するのは持てる者たちだけだから。このカテゴリーに属すのはタクシーやもっと庶民的なエアコン付きパタスなどの非エコノミー・バス。この種の公共輸送機関の料金値上げに関連して、それに反対する人々からのデモやボイコットといった事件が発生したことはない。
しかし最下層市民にも手の届くべき公共大量輸送に関する適正な料金政策は、慎重に行われなければならない。この種の公共輸送は、大多数市民が生活を営むためのバックボーンのひとつなのだ。なぜなら、自家用車よりもはるかに短時間に大量のひとを運ぶことができるから。
公共大量輸送がなぜ一般庶民に手が届かなければならないのか、についての考察はいくつかある。まず、この種の輸送機関は市民の円滑な活動をサポートするものであるため、それによって市民の経済活動は発展し、ついには社会に繁栄がもたらされる。次に、アクセスに便利で料金も安いとなると自家用車の利用が減少するので、大通りでの交通緩和がもたらされる。
自動車で過密状態になった大通りは、市民にダブルの損失を与えている。まず石油燃料の浪費や自動車と部品の消耗、そして大気汚染。おまけに渋滞からストレスを受けたひとびとの活動効率は劣化する。大通りを運転している市民で、渋滞に巻き込まれてため息をつかない者はいない。恋人と二人きりの場合を除いては。
バス乗客百人が25台のセダンに分乗し、それらがバス25台の動ける広さの路上スペースを埋め尽くすとどれほど稠密になるか、想像できるだろう。それがオートバイであったとしても、バスの効率にはかなわない。なぜならオートバイ10台、いや4台でさえも、バス1台が使うスペースを占領するのだから。
そのような相関性の面から都庁は公共輸送の役割を十分認識しているため、都市バス運営に対してファシリティや補助金などの援助を与えている。いくつかの大都市で、公共大量輸送は地元政府が用意して民間に運営を委ねていても、政府はさまざまな形態の補助を与えている。
鉄道の場合、鉄道会社がパブリックサービスオブリゲーション(PSO)という名称の補償や補助を受けているのはよく知られている。鉄道会社が低料金で公共輸送を行い、政府の義務を肩代わりしているためにそれが与えられるのだ。たとえばエコノミークラス料金がわずか400ルピアというジャボタベッ近郊鉄道を例にとれば、20キロを越える距離での運送コストは乗客ひとり当たり1,100ルピアになる。
道路公共輸送でもPSOという補償は存在するが、インドネシアでは稀だ。先進国のバス会社の中には、収入の半分を政府が補償しているというところもある。
処かわれば品かわる。ほかの国はインドネシアとは違っている。インドネシアでは、道路公共輸送、特に大都市とその近郊地区における輸送需要を満たす能力が政府にないため、その役割の大半は民間に頼っている。だとしても、公共サービスの責任から逃れられない政府は、一般大衆が利用するエコノミークラス・バス料金の統制を行っている。
政府が担う公共サービス責任のせいで赤字を続けなければならないバス公社PPD(ジャカルタ乗客輸送会社)があるジャカルタはまだマシだ。しかし運輸通信省管下のその都市バス会社だけではとても首都の需要をまかないきれないために、民間会社も首都の公共輸送に加わっている。ジャカルタ以外の都市でも、やはり運輸通信省管下のダムリ公社が都市バスを運行させている。
1970年代初期、アリ・サディキン都知事時代のジャカルタに、アメリカから援助が入った。USAIDが都市公共輸送のために数百台のバスを贈ったのだ。オペレーションは民間が行うという条件がついていた。こうしてマヤサリバクティ、SMS、ボネラヤ、ムランタマ、メダルスカルワギ、プリタなどの民間会社が作られた。当時の政府が定めた料金は適正だったので、それらの会社の経営は正常に行われた。ところがバスの経済寿命が尽きると、料金は妥当性を失い、最近のようなひどいものでなかったにせよ、サービスは低下し、ついには倒産する会社が出てきた。
バス台数を増やして発展を示したマヤサリバクティ以外の民間会社は政府が引き受けることになった。つまりPPD公社にバスと従業員込みで吸収されたのだ。
それからおよそ20年経った1990年代初期、都市公共輸送需要はPPD公社の手に負えなくなり、政府は新規参入事業者を募るという過誤を繰り返した。都市バス運行の許可を手にしたいくつかの会社が登場したが、その多くはKKNの色濃いものだった。
それからまた5年後、それらのバス会社はひとつまたひとつと倒れて行き、そのうちのいくつかは昔から名前を変えないマヤサリバクティにライセンスを譲り渡した。元々業界者でないひとびとが経営するそれらの会社は、規定に違反してレギュラーバスの運行をせずにパタスバスだけを走らせたが、それでも生き残ることはできなかった。
公共大量輸送バスはエコノミークラス・バスを非エコノミーより多く、つまり6対4の比率で運行させなければならない、という都庁の規則がある。エコノミークラス・バス運行での赤字は非エコノミークラス・バスの運行で得られる利益で埋め合わせられるよう目論んだ方針がそれだった。ところが実態は、エコノミー・バスを運行させるどころか、非エコノミー・バス運行だけの経営でも既に困難に陥り、ましてや最初から何人もの高官職者を『養う』というKKNを行う失敗を犯していたので、ハイコストビジネスにならないわけがなかった。
ハルヤント・ダヌティルトが運輸大臣のとき、上の規則に違反した会社はパタスやエアコン付きパタス用車種を使ってエコノミークラス客を運ぶよう強制されたが、それは長続きしなかった。なぜなら、それらの違反会社を『共有』する高官たちが手を回したために、大臣はその処罰を撤回したからだ。
いまでは、料金300ルピアのエコノミークラス(レギュラー)バスを運行させているのはPPDだけで、他の会社はマヤサリバクティを含めて非エコノミー・バスしか運行させていない。運行経費をカバーするのがまったく不可能なエコノミークラス料金でやっていけるような会社はもう存在しない。
公共輸送バスにとってサービスレベルの鍵は適正な料金にあるが、料金は政府のポリシー次第となっている。問題はきわめてスペシフィックなものだ。なぜなら政府のポリシーは、乗客である市民とバス事業者のいずれにとっても賢明と言えないものであるためだ。
もしも政府が公共サービスの責任を民間に委ねず、公共輸送問題を自分の責任として握っていたなら、これほど厄介な状況にはならなかっただろう。政府は常に、断固たる措置に迷い、往々にして処理は政治的配慮に染められ、社会的インパクトを怖れるあまり下層庶民の経済負担を増やすことを好まない。為政者の目からは、政策のせいで事業者が抱えなければならない損失に比べて、社会不安のほうがはるかに高価なものなのである。
幾度かの対話を通して、事業者とバス台数が40%以上も減ってしまった公共輸送業界の苦難を政府が正しく理解していることがいまや明らかになった。しかし事業健全化のために、経済性の面から算出された料金に引き上げることを、政府はしようとしない。値上げ幅があまりにも大きくなるからだ。
一方で民衆は今、とても簡単に煽動され、つまらない問題に関してもすぐに反応するようになっている。ましてや衣食住の次に都市の基本需要となっている公共輸送問題とくればなおさらのことだ。オルバ時代のように、すべての動乱はかならず鎮圧されてスケープゴートが作られたのとは違い、いま民衆は抗議ができる。「大学生が何にでも抗議し、黙っていないのは自然なことだ。だから民衆や学生のデモを受けたことのない大臣がほとんどいないのは当たり前だ。」グスドゥルもそう語っているではないか。
将来とき至れば、民衆のデモや抗議が社会状況を乱すことはなくなるが、今現在それは治安と経済に悪影響を与える。だから公共料金をあえて値上げする大臣はいない。なぜならそれは暴動を誘い、大臣はその元凶として非難されるからだ。
公共輸送における政府の責任放棄は、いくつかの例に見ることができる。中でも事業者をもっとも傷つけているものは、1970年代に決められた100ルピアという学生料金を、学生生徒に援助を与えるという理由で継続していること。事実上、その援助を与えているのは公共輸送バス事業者のほうであり、もっとずばり言うなら、バスを運行させている運転手と車掌なのだ。
政府は学生料金補助の埋め合わせがどこから出るのかなど知ろうともしない。何人の学生生徒が乗るかなど考えもせずにストラン(訳注=setoran 説明は下に)金額を決める事業者も同じだ。ミクロレッ運転手のひとりは、生徒の群れを乗せると、割引なしの満額を払う乗客が乗れなくなるかもしれないという心配から、生徒の群れを避けている自分が情けない、と告白する。「ところがオレの子供もあれと同じような生徒で、余裕がないから子供に十分な小遣いをやれないんだ。」と声をうるませる。
幸いなことに、都知事は学生料金を100ルピアから200ルピアに引き上げた。実際には、バスを運行させている運転手や車掌は、学生料金撤廃もしくは差額の政府負担を要求しているのだが。
まるで信じがたいことに、バスやミクロレッ運転手たちの収入は、どれだけ学生生徒が乗ったか次第だそうだ。かれらが集団で乗ると、往々にして金を払おうとしない。何人かの運転手は、学生生徒乗客数は全体の20%に達すると言う。そのようにして、運転手の収入は大きく目減りしていくのである。
(訳注 = setoran: 語義は、支払われるもの、納められるもの、のこと。公共輸送バスやアンコッは、運転手と車掌が自動車のオーナーから車両を委ねられてそれを運行させ、一日いくらと決められた金(それをストランと呼ぶ)を毎日オーナーに納めるシステム。一日の総収入からストランを差し引いたものが運転手と車掌の手に入る手取り収入だが、ガソリンをはじめ運行に必要なものの中には運転手と車掌の経費となっているものもある。一日の収入がストラン金額より少なければ、不足分はオーナーに対する債務となる。一見、借りた車両の対価あるいは使用料という理解もできるとはいえ、借り賃・貸し賃を意味するsewaや使用料・手間賃・費用などに使われるongkos、biaya 等の言葉は使われない。
はなはだ資本主義的構図がそこに確立されている。昨今では、運転手と車掌はその日のストランが確保されれば、あとは遊んで過ごしているそうだ。失業者が増えているため、他の者と糧を分かち合うということを理由に、かれらは別の者にストランを定めてその車両を運行させている。資本家行動を取るプロレタリアートの誕生だ。)
ソース : 2000年5月1日付けコンパス
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『SHOWBIZ、ビスの中のショー』
みなさん、おはよう。ショービズつまりビスの中のショーでまたお会いしましたね・・・・。(訳注=バスはインドネシア語でbusともbisとも言う。オランダ語のbus発音ビュスから来たものか。)
くだけたスタイルでそう口上を述べたあと、プロガドン〜グロゴル路線を走るエアコン付きパタスバス11番の中で路上アーティストはこっけいな詩の朗読をはじめた。はずれることなく、乗客も笑いをこらえる。中には顔をそむけたり、新聞を読んで知らぬ顔を決め込んだり、あるいは笑いながらその言葉に耳を傾ける者も。
出しものが終わるとその大学生アーティストは、乗客に募金箱をまわしながらチキニにあるタマンイスマイルマルズキの催し物日程を知らせる。気に入ってくれた乗客は5百ルピア千ルピアを箱に入れるが、興味ない人、邪魔に感じた人は百ルピアコイン1個で十分。
都市バス乗客にとってそんな光景は珍しいものでない。首都の路上アーティストたちは毎日、ジャカルタのあらゆる路線を走るバスに乗り降りし、声を売って小銭を稼ぐ。「百ルピアコインがなければ、微笑を投げてくれりゃいい。」かれらはそう言う。
路上アーティストたちの出しものはいろいろ。歌唱だけでなく、クリエーティブで表現力ある振り付けを添えて詩やパントゥンを朗読する。表現上感極まったか、泣きながらバスの床に額づく者もいる。路上詩人たちが取り上げる一番多いテーマは貧困、汚職高官、低迷する国の経済、そしてストリートチルドレンの苦難。路上歌手の間では恋愛テーマが優勢だ。ジャムルッやクラプロジェクトの持ち歌を唄うもの、西洋曲が得意なもの、サジョジョやポチョポチョなど地方の歌が上手な者。
東ジャカルタ市プロガドンにあるIMI(インドネシア音楽院)の学生でふだんからよくバスに乗るシリルは、路上歌手たちの多くは実際良い声を持ち、ギター演奏テクニックもなかなかのものだ、と言う。ただ、かれらには才能を伸ばすチャンスもなく、そして生計を求める場もない。都市バスが唯一の選択肢なのだ。「かれらが声を買ってもらうことを望んでいるのなら、行儀よくして乗客に無理強いしないことね。」エアコン付きパタス11番バスの中で、かの女は本紙記者にそう語った。
路上アーティストたちの持っている倫理がある。かれらが同意し、一貫性をもって実行している共通の価値観とは、もしバスの中に同業者が既にいたなら、その者の取り分に割り込まないこと。選択肢はふたつ。自分の順番が来るまでそのバスの中で待つか、それとも別のバスに移るか。
9月12日、タナアバン〜カンプンランブタン・ルートを走っている間、路上アーティストと物売りが入れ替わり立ち代り売り込みに来た。かれらはバスの隅に立って順番を待つ。同じ物売りが熱心に商売しているとき、かれらは忍耐強く忠実に、嫌悪も怒りも持たずに待っていた。
プロガドン〜グロゴル線のエアコン付きパタスバス内でも同じ光景が見られた。バスがスディルマン通りを通行中、おかしくも哀しい出来事に遭遇した。そのとき、ひとりの路上アーティストがバスに乗った。しかし多くの乗客が乗降するので扉付近が混み合っていたため、かれは唄い出すタイミングを待ってギターを足元に置いた。ところが、プラザBIIからおよそ20メートル走ったところで路上詩人がひとり乗り込んでくると、前置きなしによくとおる声で朗読をはじめたではないか。しかし詩人は突然口をつぐんだ。唄い始めるタイミングを待っている同業者が自分のうしろにいることに気付いたのだ。慌てて朗読を終わらせると、詩人は歌手に詫びた。「悪かったな。だから、ギターは使えよ。他の者がわかるように。」そう言いながら詩人はバスから飛び降りた。
不潔、色あせてしわくちゃ、長髪で乱れた格好。それが路上アーティストたちの一般的なイメージだ。ぜんぜん外れているとは言えないものの、まったくそうとも思えない。
雨が南ジャカルタ市クバヨランバル地区を洗ったとある昼下がり、マエスティッ地区にあるワルテルの前に、18歳から25歳くらいの若者が十人ほど座っていた。あるがままという格好だが、かれらの服装は清潔で整っている。長髪の者、Tシャツの者、ゴムぞうりの者。激しい雨の中にギターと打楽器の伴奏が流れる。かれらはいろいろな曲を唄う練習をしているのだ。今はやっているインドネシアや西洋のポップス曲からなつメロまで。「ポケッとしているよりは、雨がやむのを待ちながら・・・・」ウクレレを抱いているアントン22歳の言葉。
いまジャカルタにいるおよそ7千人の路上アーティストのひとりがかれらだ。バックグラウンドはそれぞれさまざま。学生、路上活動だけを行っている者、ジャカルタ生まれ、中部ジャワや東部ジャワあるいは北スマトラからの上京者。路上アーティストになるのがかれらの夢だったわけではない。しかしだいたいかれらは路上の活動をエンジョイしている。なぜなら、かれらの生活レベルから見れば、毎日の稼ぎは相当なものになるからだ。朝8時から夜9時まで稼げば、5万ルピア前後がひとりひとりの手に入る。夕方3時から夜9時まで半日やっても、2万から3万の収入になる。
マエスティッにいた若者たちはGSJ(ジャカルタアーティストジェネレーション)に所属している。GSJはマエスティッのほか、チルドゥッ、ブロッMターミナル、IKPNなどいくつかの場所に散らばっている。マエスティッ地区GSJの広報担当エディによれば、メンバーは50人くらいおり、全ジャカルタだと3百人にのぼるそうだ。
通称エビ−で通っているアンディ・シャプトラGSJ会長は、2000年8月16日に結成されたGSJは路上アーティストの組織化を目的にしている、と語る。「路上アーティストのようなストリートチルドレンの世界はハードな世界だ。かれらを動員するのは簡単だ。そのため、もし秩序付けがなされていないと、全ジャカルタ7千人の路上アーティストは特定利害の道具にされかねない。」
GSJは路上アーティストをプロにしたり、別の仕事へのチャンスを与えたりできるよう期待されており、そのため演劇トレーニング、写真や電気の教育、宗教指導などの活動を行っている。GSJは既に3百枚の会員証を発行した。その会員証は、交通事故のような災害に遭遇した会員に援助を与えることにも使われる。路上アーティストの多くは首都ジャカルタの住民証明書を持っていないのだ。
GSJ会員になるには選抜がある。通常は、地区の広報担当が会員受入を推薦する。「会員証が欲しい者はアルコールを飲んではならず、また聴衆に無理強いしてはならない。違反すれば会員証は取り消しだ。」とアンディ会長。既にふたりの会員に対して取り消しが行われている。
GSJ会員はバス乗客の安全と快適さを維持する義務を負っている。もしバス内で強盗やスリを見つけたら、警告を発しなければならない。「たいていは外へ引き摺り下ろしてから殴る。そのあと警察に引き渡す。GSJはバス内における犯罪対処の許可を警察から得ている。警察にも限界があることをわれわれは理解しているし、それゆえわれわれは警察を助けたい。警察もわれわれが誰なのかを知っている。」GSJアドバイザーのヌルディン・アンワルはそう語る。しばらく前、ある地方で発生した自然災害被害者救済のために寄付を募っている大学生をバスの中で捕まえたそうだ。その地方では災害など発生していないから。
GSJ会員は生計をバス乗客に依存しているという認識が、会員がバス内の安全と快適さを守る第一の理由となっている。路上アーティストのひとりは「乗客は、たとえて言えば、われわれが守らなければならない王様のようなもの。乗客がバスに乗るのをこわがるようになれば、われわれも損するのだから。」と語っている。
いまやGSJの存在は認知されはじめており、路上アーティストの中には、カフェやバー、あるいはTV出演をはたしてプロの道を歩みはじめている者もある。たとえばSCTVの番組『Terserah』に出演しているトロトアル・グループ。番組のテーマBGMはトロトアルのボーカリストであるエビ−の作品だ。ラテン音楽を唄うジプシーも何度かナイトスポットに出演したし、バラードを唄うグループ、パデイッもそうだ。
「われわれは路上アーティストがプロになるのを期待している。かれらはポテンシャルマーケットなのだ。」アンディはそう言う。かれによれば、路上アーティストには三種類ある。経済的な理由で活動する者。就職するまでの片手間にやっている者。自分の可能性をバスの中で鍛えながら伸びて行こうとしている者。その最後のグループのためにGSJはショービズを勝ち取ることに努めている。ショービズ、つまりバスの中でのショー。
ソース : 2001年9月24日付けコンパス
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『縫製ビジネス、政党からの注文にドキドキ』
総選挙とはつまりキャンペーンのことだ。それがゆえに多くの政党は、キャンペーン展開準備におさおさ怠りない。各政党は支持者やシンパに対し、政党の名前やロゴマークをつけたTシャツ、旗、帽子などさまざまなものをシンボルとして、言うまでもなく、無料で配る。無料で配られるそれらの小物は、数十万個あるいは数百万個にのぼる。それらのキャンペーン小物は早い時期から準備され、多くの政党はそのロゴマークをプリントするTシャツ製造者を探す。縫製ビジネス業者にとってキャンペーン小物は独特の稼ぎ種であるはずだが、現実には、燃え盛るようなキャンペーンを行う政党からの注文を受けたがらない業者が多い。
アバディ縫製会社のダフィッによれば、数量はものすごいが被るリスクもでかい、とのこと。縫製事業者が常に直面する最大のリスクは不払い。政党用シャツの注文で痛い目にあわされた体験をダフィッは物語る。
オルデバル盛んなりしころの政党キャンペーン用シャツの注文は、目もくらむような数量だった。そのときダフィッは20万枚を超える数の注文をもらった。結構な利益が期待できる。1ダース当たり2千5百ルピアの利益になるから、総額4千万ルピアを超える金が手元に残る。
「シャツは全数完納した。ところがいつまで待っても支払いがなされない。挙句の果てに、総選挙に協力したことをうたった感謝状が送られてきただけ。」夢に見た利益は雲散霧消。そんな体験のおかげで、かれは政党用の注文を取りたがらない。前回の総選挙でさえ、かれの会社はシャツ2百ダースの注文を受けただけだ。
西ジャカルタ市ジュンバタンリマ地区で縫製業を営むアピンも類似の体験を持つ。かれもかつては、政党用シャツの注文を取りたいと望んだ。当時手に入る利益は大きく、1ダース当たり5千4百ルピアになった。今は1ダース当たりせいぜい1千ルピア。「こりゃあ勤労奉仕と言った方が当たってる。そんな利益じゃ配達料やらもろもろの経費をカバーするのは無理だ。」
政党キャンペーン用シャツのオーダーは、大勢の連中が金儲けのネタにしているために利益は薄くなる一方だ、とアピンは言う。政党の人間から直接縫製業者に注文が入ることなどめったになく、注文は第三者が持ってくるのが普通なのだ。アピンはもう政党用シャツの注文などあてにしていない。サッカーTシャツのオーダーを受けるようになって以来、かれのビジネスは発展を続けている。サッカーTシャツは都内の諸マーケットに配送されるが、ジャカルタの外にも送り出されている。利益についてアピンは口を閉ざしたが、売値はシャツの素材次第という要因があるものの、1ダース4万ルピア前後だそうだ。
政党キャンペーン用Tシャツにまつわる悪体験のために、縫製事業者の多くはキャンペーン小物の注文を言下に断っている。受けようとする者も、前払いを要求するのがふつうだ。
同じジュンバタンリマの縫製事業者アドリアンは、三割の前金がもらえるなら、政党用の注文を受けたい、と言う。注文品を生産している間、その前金には手を触れない。ダフィッも同じ考えだ。政党用小物の注文を受けているわけではないが、状況次第とはいえ前金三割を条件にするつもりだ、とかれは言う。注文主の政党が信用面でよい評判を取っていないなら、それが五割になることも大いにありうる。
支払いは商品の納入時になされなければならない。「こんど払う。」はノー。『金があって、物がある』が原則で、金がなければ物は持ち帰る。物が届いたら現金払い。残金がいつまでも支払われないようなら、前金を取り崩す。業者の抱えるリスクはそのようなやり方でミニマイズできる。Tシャツ注文主は注文品が完納されるまで支払いたがらないのがふつうだが、もしそうなら出来上がったTシャツはまた工場へ持ち帰る。「かれらは口先ばかりで、金は持ってない。」と言うダフィッ。
不払い行為は有名な政党用の注文を持ってくる者に多い。キャンペーン小物の発注に付けられる予算は巨額だが、予算執行が行われない。だから縫製業者の多くはこの2004年総選挙で、小規模政党の注文を受けるようにしている。
西ジャカルタ市ジュランバルの縫製事業者コ・アメンのやり方はまた違う。リスクが高いのは承知の上で、かれは政党Tシャツやキャンペーン用小物の注文を受けようとする。利益は1ダース当たりで1千ルピアしかないことをかれは認めている。
どれほど薄利であっても、落ち込んでいるビジネスが政党からのTシャツ注文で息を吹き返すことをかれは期待しているのだ。従業員に給料を払わなければならず、事業所の経費もカバーしなければならない。
プロポル党幹部のひとりは、党のキャンペーン小物に付けられた予算は約40億ルピアだ、と語る。その予算はジャカルタの全265町に配布されるTシャツと小旗をそれぞれ26,500枚注文するため。Tシャツと小旗それぞれ1枚で1万ルピアの予算。
政党のキャンペーン用小物予算はもちろん巨額だ、とかれは言う。プロボル党のような新生政党でも、ジャカルタでのキャンペーン小物調達だけに40億もの予算を計上する。地方用はまた別だ。そして大型政党ともなれば、キャンペーン小物用予算の数字はさらにファンタスティック。巨額予算はなにも悪くないのだが、有名大型政党の多くはキャンペーンのための経費を使うのに比較的ルーズなのが現実だ。たとえばキャンペーン用小物調達費用だ。その金は一部悪徳者が、いまや日々の暮らしにあえいでいる小規模業者を欺くために悪用している。
とある地方都市の知り合いのひとりは、政党キャンペーン用Tシャツのブローカーになった。かれは、渡された金の半分以上が自分の金になった、と物語る。安い業者を探すからというだけでなく、政党ロゴマークをプリントしたTシャツのクオリティは主要関心事になっていないのだ。かれは、自分は政党の人間じゃない、と言う。その注文は、ある大型政党に所属している知り合いからもらったものだった。チェーンメカニズムも機能する。三番手の者ですら資金の半分を自分のものにできるのだ。最初の段階で注文に関わった者はもっと巨額の金を自分のものにしている。
キャンペーン小物の注文は、正直に物事が行われるなら、いまや崩壊の過程にある縫製ビジネスを本当はよみがえらせることができる、と業界者たちは言う。インドネシアの縫製ビジネスは昨年、国内で超廉価販売される古着が外国から侵入してきたために大打撃を受けた。国内産繊維素材の値上がりも、縫製業者には嘆息の的だった。
総選挙は政党シンパたちが身に着けるキャンペーン小物で盛り上がることだろう。だがその裏側に政党の名前を利用して個人の利益をかき集めようとする悪徳者がいるなら、縫製業者たちを悲哀が包むことになる。もしもみんなが正直であるなら、政党からのキャンペーン用小物注文をもらっても、縫製事業者はドキドキする必要などなくなるのだが・・・・。
ソース : 2004年1月19日付けコンパス
ライター: Lusiana Indriasari