「独立に貢献した脱走兵」


日本が連合国に無条件降伏して日本の敗戦が明らかになったあと、インドネシアの各地にあった日本軍の軍営から日本軍将兵の姿が消えることが相次いで起こった。軍隊という組織からの脱走・逃亡行為は、どこの国でも極刑にあたいする。脱走兵というのは、その民族にとっての恥辱と考えられていたためだ。

日本軍からの脱走兵が行き着くところは、誕生したばかりのインドネシア共和国人民保安軍しかなかった。経験と人材の層の薄い共和国軍は、前歴がどうであれ外国人義勇兵を歓迎した。


ある公表データによれば、日本敗戦後インドネシアの独立を維持するための戦闘に参加した元日本軍人は903人で、そのうち243人が戦死、288人が戦闘中の消息不明、そして2000年代に入ったころのデータでは45人が帰国し、324人がインドネシア国籍を取得してインドネシアでの居住を続けたとのことだ。

日本の敗戦とインドネシアの独立というあの時期の社会情勢の中で、逃亡兵が人間の海原のような原住民社会に紛れ込むことなど決して容易にできるものではない。ましてや前歴が支配者然としてふるまってきた日本軍人であるなら、海原の中にどれだけの人間が支配者に対する怨恨や憎悪を抱いて暮らしているのか知れたものではないのだから。ドラマ映画に描かれているような生易しいものになるのは、髪の毛一筋の幸運に恵まれた人間だけだっただろう。

脱走兵を歓迎し、保護し、生き延びる場を与えてくれる組織は共和国の軍隊しかなかったのだ。もちろん脱走兵の中に、それを目的にして自己の人生の場を選択した人間もいた。
しかし一説では一千人とも一千五百人にのぼるとも言われている残留日本兵のすべてが、インドネシア共和国の創生を願って脱走兵になったわけでもない。だが脱走の理由が何であったにせよ、共和国軍に加わった者たちにとっては、イギリスやオランダが繰り広げる軍事行動に対抗してインドネシアのプリブミ兵士と肩を組み、一緒になって戦闘の矢面に立ったことだけは事実なのである。かれらの動機はさまざまだったとインドネシア人歴史家は物語る。

連合国が行うに決まっている戦争犯罪者裁判から逃れたい者、敗残兵となって日本に帰国する恥辱に甘んじることがどうしてもできない者、戦火に荒廃して滅亡の淵に追いやられた祖国に戻っても何をして生きて行けばよいのか分からない人間、ましてや進駐軍の支配下に置かれた祖国で敵として戦った人間がどのような仕打ちを受けるか知れたものではないという惧れを抱く者。中にはインドネシアの女を愛して、その愛に自分の一生を捧げようとした男がいなかったわけでもない。

調査結果によれば、数年間のインドネシア暮らしの中で原住民女性との間に愛情が芽生え、その愛を捨て去るのにしのびず、女の祖国の側に立って戦闘の場に臨むことを選んだ男たちのほうがマジョリティを占めたという説もある。

インドネシアの民と山河を愛し、植民地支配者がもたらす悲惨を赦すことのできない正義感から銃を持ち、戦闘の中で散って行った歴史に名を遺す男たちとかれらの間に、決して大きな開きはないだろうとわたしは思う。異国の異性を愛するというのは、相手の民族と文化への親近感と心的傾斜を必ず強めるものであるからだ。


1946年4月中旬、オーストラリア空軍飛行部隊長フレデリック・ジョージ・バーチャルが率いる四人チームの戦争犯罪者捜索分隊がボゴールとスカブミの境界地区で消息を絶った。この分隊は全員が殺されたとオーストラリア側は判断した。

その調査を依頼されたインドネシア共和国側は、元日本兵が率いる人民保安軍の一部隊が四人のオーストラリア兵を殺したようだとの報告を上げている。インドネシア人調査班リーダーは、指揮官の元日本兵はインドネシア東部地方の戦争捕虜キャンプで死刑執行人を務めていた男で、オーストラリア戦争犯罪者捜索隊が追跡ターゲットにしていた人間だったらしい、と語ったそうだ。

インドネシア共和国軍シリワギSiliwangi師団の戦史録によれば、1948年8月に西ジャワ州ガルッGarutとタシッマラヤTasikmalayaの境界をなすドラDora山麓のパルンタスParentas部落でストコ中佐が率いるチタルム旅団の指揮官秘密会議が行われていた時、敵軍の襲撃を受けて指揮官のひとりが捕らえられた。

捕らえられたアブバカルはハセガワという名の元日本軍人で、オランダ諜報機関NEFISの記録には、ハセガワは日本軍政期にフローレス島に設けられた捕虜収容所で残虐な死刑執行人として知られていた男であると記されている。

脱走したハセガワはジャワに渡り、ガルッで地元民兵組織に捕らえられ、インドネシア側に立って武力闘争に加わることを決意し、アブバカルの名をもらってインドネシア人となった。

その後シリワギ師団に移って正規軍の将校となっていたが、48年8月にかれの命運は尽きた。ハセガワを捕らえた時以来、かれと親しくなっていたガルッの民兵組織の一員は、ハセガワはオランダ側に捕らえられてから数日後に処刑された、と物語った。


インドネシア共和国人民保安軍が歓迎した外国人義勇兵は、人数の上でこそ日本人が最多数を占めたものの、日本人だけだったわけでは決してない。当時台湾と朝鮮半島は日本の領土であり、日本人にとっての異民族にあたるかれらにも日本の兵役義務が課されたから、一律に日本兵と呼ばれてはいても、台湾人もいれば朝鮮半島人も混じっていた。現実に日本軍脱走兵としてインドネシア軍に身を投じたかれらもいたのだが、ここではそれに触れない。

他の外国人義勇兵の中には、フィリピン人、インド人、パキスタン人、ネパール人、南太平洋の島の出身者たちまでが混じっていた。インドネシアの終戦処理のために派遣されてきたAFNEI軍を構成している英国のインド植民地軍兵士の中にいたインド人やパキスタン人が、インドネシア独立に共感して原隊を脱走し、インドネシアのためにアジアの植民地支配者であるヨーロッパ人に銃を向けた実例も存在している。その心根はインドネシア独立を維持するために命を捨てた日本人たちと何も変わらない。

外国人義勇兵とは呼べないまでも、インドネシアを祖国と感じている華人プラナカンや、NICA(蘭印文民政府)を見限ったオランダ領東インド植民地軍のプリブミ将兵たちも、インドネシア独立維持のための武力闘争に加わった。

いや、そればかりではない。本国が降伏したときたまたまインドネシアにいたドイツ海軍軍人の中にインドネシア共和国軍に加わった者がいたのは特殊事情と呼べなくもないが、インドネシアを攻撃の対象にしたオランダやイギリスの国民の中に、インドネシアの側に立って自民族の軍隊に銃を向け、あるいは舌鋒を振るった人間まで出現したのである。

歴史を、いや人間界の諸事象を、当人たちの心とは無関係にその属性だけを見て単純に白か黒かで色分けする傾向を強く持つ観念思考者たちの目を開かせるに足る実例を、われわれはそこにたっぷりと見出すことができるだろう。


1925年にハーグで生まれたオランダ人ヨハネス・コルネリス・プリンセンは通称ポンケ・プリンセンという名で知られている。かれはナチスドイツの占領下に落ちたオランダで、反ナチ活動闘士として名を挙げた。

戦後、かれはインドネシアを旧態復帰させて植民地体制に戻そうとするオランダ政府の現地派遣部隊に加えられて、1947年にはじめてインドネシアの土を踏む。最初は西ジャワのプルワカルタに配置され、その後ジャカルタ〜ボゴールと勤務地が移される間に、かれはオランダ人が、そしてオランダ植民地政治体制が示すインドネシア人への人種差別と侮蔑およびそれに裏打ちされた非人間的残虐行為をいやと言うほど目にして吐き気を催した。

かれは1948年に原隊を脱走してジャワ島をさまよっているとき、共産党系武装組織に捕らえられてパティで投獄された。たまたま共産党武装集団への粛清を行っていたシリワギ師団黒サソリ歩兵大隊がそこを襲撃し、かれは解放されて原隊に戻るよう勧められた。しかし、かれはシリワギ師団に加わることを望んだのである。

1949年にオランダがヨグヤカルタに対する軍事攻勢をかけたとき、かれの名は軍籍番号251121085を持つシリワギ師団第2歩兵大隊プルワカルタグループ参謀部員として軍籍簿に記されていた。かれはチアンジュル〜スカブミ地区でゲリラ活動に従事した。

NICAにとって裏切者となったプリンセンが目の敵にされるのは当然だ。オランダ諜報部隊はかれを捕らえようとやっきになったが、かれは何度も危機を潜り抜けた。1949年8月10日にチアンジュルのチルトゥンギランCilutung Girangでオランダ陸軍特殊部隊が展開した特別作戦も、かれを捕らえることができなかった。

その年、スカルノ大統領はかれにゲリラ勲章を与えている。かれはオランダ国籍を捨ててインドネシア人になった。


ナチスドイツ海軍がアジアに派遣したグルッペモンズン潜水艦部隊は、ドイツ本国が連合国に降伏したとき、ジャワ島で最後の日々を送っていた。司令部は作戦行動中の全軍に対して連合軍への投降を命じたが、同盟国日本の支配下にあるジャワ島から抜け出してのこのこと投降しに行けるわけがない。かれらは艦を捨てて上陸し、ボゴールに近いチコポ農園にこもった。

ナチスドイツUボート部隊とチコポ農園の関係については、「南の島のUボート」
http://indojoho.ciao.jp/koreg/libuboat.html
がご参照いただけます。

終戦処理のためにジャカルタに派遣されてきたAFNEI軍はチコポ農園にいる西洋人がドイツ軍人であることを嗅ぎつけ、かれらを全員逮捕して捕虜収容所に入れた。
蘭印支配を復活させるために戻って来たNICAに1946年1月半ば、AFNEI軍は260人にのぼるドイツ兵捕虜を引き渡した。NICAはドイツ兵捕虜をプラウスリブ諸島のひとつ、オンルスト(Onrust)島に抑留した。

きわめて劣悪なオンルスト島の生活環境のため、デング熱・マラリア・飢餓などで抑留兵はばたばたと死亡していった。かれらは生を求めてオンルスト島からの逃亡を企て、大勢が警備兵の銃弾で生を奪われた。しかしそれに成功した者がふたりあった。潜水艦U−219乗組員だったヴェルナーWernerとロシェLoscheだ。

ふたりはジャカルタの海岸に潜入した後、インドネシア共和国人民保安軍にコンタクトして共和国軍に加わった。インドネシア共和国諜報機関生みの親ズルキフリ・ルビスZulkifli Lubis大佐がふたりをアンバラワに設けられた軍人学校に置いて諜報訓練教官にした。


銃を手にすることだけが戦争ではない。敵軍兵士の戦意を崩すことも戦場に効果をもたらす重要な戦略だ。スコットランド出身で米国籍のミュリエル・スチュアート・ウォーカーがスラバヤ・スーとしてインドネシア共和国死守のためにラジオ放送のマイクに向かって熱弁を振るった姿がその一例だ。

スラバヤ・スーについては、
http://indojoho.ciao.jp/koreg/hsubsue.html
でそのストーリーをお読みいただけます。

似たようなことは、他のいくつかの場所でも起こった。メダンで、マディウンで、タシッマラヤで、ヨーロッパ人がヨーロッパ人に対し、インドネシア共和国に対する非道な攻撃をやめろとの呼びかけをラジオの電波に乗せたのだ。

ジョン・エドワードはイギリス軍サウスウエールズボーダー第4旅団第6大隊所属の士官だった。1946年、かれは原隊を脱走してニップ・サリムNip Xarim大尉指揮下の共和国軍B大隊に加わった。

かれはアチェに移されて、イギリス軍、更にNICA軍向けの大ジャングルラジオ放送による宣伝工作を行うようになる。また第十師団司令官フセイン・ユスフ大佐の副官を務めることもあった。しばらくしてから、かれは大尉の階級を与えられ、スマトラ島でゲリラ活動を行っている共和国軍兵士たちにアブドゥラ・イングリス大尉と呼ばれて親しまれた。
プマタンシアンタルPematang Siantarの女性を妻にしたかれはイスラムに入信し、アブドゥラ・シレガルという名の一市民としてプマタンシアンタルに暮らし、1956年に世を去った。

オランダ人ピート・ファン・スタフェレンPiet van Staverenは蘭領東インドの旧態復帰を促進させるために本国から派遣されてきたオランダ軍人だ。1947年7月、スムダンSumedangに配置されていたかれは、原隊を脱走して西ジャワの地を徘徊していた時、共和国軍の一部隊に捕まった。

スムダンの共和国軍はこの敵兵をヨグヤカルタの軍総司令部に引き渡した。アミル・シャリフディン首相が捕虜を活かして使うように勧め、かれはマディウンの民兵組織が行っているラジオグローラRadio Geloraで宣伝工作の手伝いをすることになる。

かれのオランダ批判がはなはだ辛辣であったことから、ヨグヤカルタのカリウランKaliurangで行われていた政治交渉の場でオランダ側が、かれのラジオ放送を黙らせなければこの交渉はご破算にするとインドネシア側を威嚇したことすらあった。

オランダ諜報機関が裏切者たちを放置するはずがないのは当然のことであり、ピートも上位ランキングのターゲットにされていた。1949年末のインドネシア共和国主権承認が間近に迫ったある日、かれはソロでオランダ憲兵隊に逮捕されたのである。

ポンケ・プリンセンはそのときの状況を、一緒にいた共和国軍将校ふたりはヤギを一匹ずつもらって、ピートが連行されて行くのを何もせずに見送っていただけだった、と語っている。

1950年にかれはオランダ本国に移されて取調べが行われ、そこで行われた拷問にオランダ市民が抗議の声をあげて社会問題に発展した。かれは1954年に釈放され、インドネシアに戻ることなくオランダで生涯を送っている。

もうひとりの白人反オランダ闘士は女性だ。エリサベツ・ファン・フォーツハンセンElisabeth van Voorthangsen愛称ベティはドイツ国籍を持ち、1944〜45年に日本軍に協力したことから、敵軍協力者としてイギリスとオランダの諜報機関がかの女の身柄を追いかけていた。

共和国独立後の1945年にふたりの娘と共にバンドンで暮らしていたベティは、タシッマラヤ赤熊大隊指揮官アブドゥラ・サレ・ハシブアン中佐と出会い、その後ふたりは結婚してベティはタシッマラヤに移る。

ベティの声がラジオタシッマラヤの電波に載るようになったのはそれからだ。ベティはその活動を1947年まで続けた。


戦場におけるゲリラ戦で華々しく活躍した日本軍脱走兵部隊がある。28人から成るこの部隊は全員が元日本軍人だった。シリワギ師団ティルタヤサ連隊に籍を置いたウマル・ハルトノ中尉(退役・旧名はエイジ・ミヤハラ)が2013年10月15日に没してカリバタKalibata英雄墓地に葬られた結果、ラッマッ・オノRahmat Ono少佐が最期のインドネシア在留日本兵になってしまった。かれはその栄光ある特別ゲリラ隊の一員だったのである。そしてラッマッも2014年8月25日に永眠し、東ジャワ州バトゥBatuの英雄墓地に葬られた。インドネシアの独立を維持するための戦争は今や歴史のかなたに沈みつつある。

ラッマッが1945年12月に日本の軍籍を捨てたのは、国が果たさなかった約束に自分ひとりででも尽力したいという心意気で行ったことだったそうだ。敗戦の報の下で、たくさんの戦友が茫然自失となり、絶望して腹を切った者も少なくないし、中には気が狂った者もあった。現実にかれ自身が自決しかけた、とラッマッは述懐している。

ラッマッの著述によれば、最初旧日本軍人の8割がバンドンに集まったそうだ。1946年初め、全土の共和国軍にバラバラに入った旧日本軍人がヨグヤカルタに全員集められた。ラッマッはそこでトメゴロ・ヨシズミ大佐やタツオ・イチキ大佐と知り合うことになる。ヨシズミはタン・マラカTan MalakaからもらったアリフArifの名、イチキはアグッ・サリムAgus SalimからもらったアブドゥラッマンAbdul Rachmanの名を名乗っていた。

ヨシズミは左翼系民族運動の闘士タン・マラカとの親交を深め、その影響を受けて右翼から左翼へと信条が変化して行ったらしい。ヨシズミはインドネシアに残るため日本軍人の社会から身を隠してインドネシア社会に移ったが、そのとき海軍武官府の武器をかき集めてタン・マラカのもとに運んだそうだ。タン・マラカはかれに賢明で頭脳明晰という意味を持つアリフというインドネシア名を与えている。

イチキは有能な外交官だったハジ・アグッ・サリムと知り合って大層気に入られ、猶子として息子扱いされた。「父がかれを気に入ったのは、かれが誠心誠意インドネシア民族のことを思っていたからで、そのためアブドゥラッマンというインドネシア名をかれに与えたのです。」とアグッ・サリム師の娘のひとりは物語っている。


日本語の歩兵操典や軍事教本などの書物のインドネシア語への翻訳が進められて共和国人民保安軍の質的充実が図られている間に、全国各地でAFNEI軍そしてオランダ軍の攻勢を目の当たりにし、元日本軍人は続々と戦場に赴いて行った。

1946年9月、ラッマッとアブドゥラッマンはインドネシアとオランダの政治交渉が行われているリンガルジャティLinggarjatiに出撃した。1947年6月には、マグタンMagetanの共和国軍人学校で教鞭を取りながらも、ラッマッはモジョクルトMojokertoのオランダ植民地軍地区司令部への攻撃を行っている。その年10月にマランMalangに移されたラッマッは、それまでの共和国軍階級である軍曹から少尉に昇進した。

ところがレンヴィルRenville協定が結ばれ、オランダ側が脱走日本兵をすべて引き渡すよう共和国側に要求し、共和国側がそれを呑んだために元日本軍人側の情勢に変化が起こった。元日本軍人は共和国軍の中に混じらないようにして共和国が条約を守っているように見せ、日本軍人だけが集まって特別ゲリラ隊を編成する方がよいという案をアリフとアブドゥラッマンはスンコノ大佐に諮ったのである。

こうして1948年6月にアリフを隊長、アブドゥラッマンを副隊長にする隊員28人の特別ゲリラ隊がブリタルBlitar県ウリギWlingi村に誕生した。ラッマッはその中のひとりだった。スラッマッSurachmad旅団所属とされたこの部隊の担当戦域はダンピッDampit、南マラン、ウリギで、マラン〜ルマジャンのラインを守備してオランダ軍を内陸部まで入らせないことを使命としていた。

レンヴィル協定下の停戦状況にある中で、特別ゲリラ隊はウリギの本拠地周辺での戦闘訓練と原住民への戦闘教育及び訓練、そして食糧調達などに精を出した。渓谷の奥深くに設けられた本営は、生活用水が確保でき、洞窟があり、森の中に設けられた家屋が巧みに隠されて、知らない人間には容易に発見されないようになっていた。

肺を冒されていたアリフ大佐が1948年8月10日に没すると、アブドゥラッマン副隊長がその後を継いだ。新隊長となったアブドゥラッマンは攻勢準備を整えた特別ゲリラ隊をダンピッ地区とクディリ地区の守備隊に二分した。前者はアブドゥラッマンが直接指揮する17人、後者はハルソノを指揮官とする11人だ。

ところがアブドゥラッマンを指揮官に仰ぐことを拒む隊員が出た。ラッマッ・オノの回想によれば、優秀な隊員のひとりだった憲兵隊出身のハサン某が指揮官の資格を問題にしてその部下になるのを拒んだとのことだ。結局ハサンを含む9人が中部ジャワに移され、ダンピッ地区守備隊は戦力が半減した。

吉住は海軍武官府の諜報部門責任者で将校の階級をもらっていたが、元々は一民間人であり軍隊経験を持っていない。海軍は民間人であるかれを嘱託に採用する際に将校にした。 一方の市来も民間人であり、陸軍第16軍がジャワ島進攻のしばらく前にかれを宣伝部嘱託に採用し、軍政期間中には日本語からインドネシア語への翻訳作業に当たらせた。だからもちろん市来も軍人でなく、おまけに吉住のように軍階級を与えられることもなかった。

ハサン某はそれを問題にしたようだが、ラッマッに言わせれば、アリフもアブドゥラッマンも並みの軍人をはるかにしのぐ戦意を持ち、統率力と戦略眼に秀でた人物であり、その種のクオリティがもっとも必要とされる戦場でリーダーとするにふさわしい人間だったとのことだ。人間の実力よりも肩書を重視する者たちが行った戦争の結末は事実が示している通りだろう。


特別ゲリラ隊の中核をなすダンピッ守備隊はクルトドルの農園事務所を司令部に使い、ゲリラ活動の作戦を練った。当面の目標はダンピッに隣接するワジャッWajak地区に設けられたオランダ軍の軍事ポストに対する襲撃だった。

南マラン地区のオランダ軍ポストを襲撃して敵を動揺させること、進入が困難な隔離地区に共和国軍が入るための進入路を開くこと、隔離地区の住民に反オランダ闘争を宣伝し、共和国側に就かせてオランダに対するサボタージュや武装攻撃の予備軍にすること、また情報伝達網を整備することなどがゲリラ隊の活動目的だった。

1948年8月30日、特別ゲリラ隊の初出撃となったパジャランPajaranのオランダ軍ポスト襲撃は、オランダ兵20人を倒してポストを破壊し、ゲリラ隊員はまったく無傷で戻って来るという赫赫たる戦果を挙げ、共和国軍の中に賞賛と憧憬を巻き起こした。

その後も続々とつづいた素晴らしい戦果によって、特別ゲリラ隊の評判はいや増しに高まり、オランダ軍兵を恐れさせる一方、オランダ軍上層部をして総力をあげてこの特別ゲリラ隊を壊滅させるべく躍起にさせた。オランダ軍パトロール隊は村々を巡回して日本人を血眼になって探したが、捕まった隊員はひとりもいない。

しかしオランダ軍が総力をあげて追跡した日本人特別ゲリラ隊に、ついに災厄の日が訪れた。1949年1月9日未明、マラン市南東にあるアルジョサリArjosari村で重厚なオランダ軍の包囲攻撃を受けたゲリラ隊は進退に窮してしまう。

委縮した隊員の戦意を高めようとして、隊長アブドゥラッマンはオランダ軍の前に銃を撃ちながら飛び出して行った。部下の元日本軍人ウマル、スカルディ、アブドゥル・マジッらも積極攻撃に移ったものの、隊長は敵の集中射撃を浴びて倒れてしまう。弾薬の乏しくなったゲリラ隊員は血路を開いて戦場から離脱した。しかし特別ゲリラ隊を成り立たせてきた二人目の男、アブドゥラッマンは戻って来なかった。

1949年1月16日、特別ゲリラ隊はアブドゥラッマン隊長の葬儀を営み、これからの方針を相談した。戦況は共和国軍側にきわめて不利になっており、スムルSemeru山南部地区に十分な戦力を持つ部隊がいなくなってしまったことから、マランのウントゥンスロパティ師団は特別ゲリラ隊を再編してスムル山南部地区を担当させることにし、スカルディ大尉を指揮官としてプリブミ部隊を加えたウントゥンスロパティ第18部隊に変容させたのである。こうして日本人特別ゲリラ隊は伝説と化した。

ダンピッの町を占領するためにオランダ軍は態勢を整え始めた。周辺地域一帯へのパトロール隊の出動が頻度を増し、諜報特務部隊が作られてスパイ活動が盛んに行われた。共和国側ゲリラがオランダ軍の動きを妨害するために破壊した橋や道路の修復にも力が入れられ、最終的にオランダ軍はダンピッの町に進出した。オランダに反抗的な原住民に対する抑圧とテロ行動が活発化した。

1949年2月、三小隊から成るウントゥンスロパティ第18部隊はウォノキトリWonikitriを発して前進基地を置く予定のクロップKelop山に向かった。防御砦を築いて布陣すると、スンブルクンバルSumber Kembar方面に一分隊が斥候に出た。そして敵影なしとの報告にもとづいて、第1小隊軽機関銃分隊と第2小隊小銃分隊が下山してスンブルクンバルを抜け、ダンピッの町に侵入した。

市場近くの大通りにある三叉路で警備に就いていたオランダ兵ふたりに銃撃を浴びせると、市場から多数のオランダ兵が出てきて応戦した。しかもパモタンPamotanからオランダ側の援軍がやってきたのだ。重装備の敵の応戦に苦慮したゲリラ部隊は仕方なく後退する。オランダ軍が執拗に追ってきたが、いきなりクロップ山の友軍が重機関銃と擲弾筒の攻撃を浴びせかけたため、オランダ軍は引き上げた。その40分間の戦闘でゲリラ側は死者がふたり出た。オランダ側は25人が死んだ。


数日後、第18部隊はスダユSedayuとバンジャルパトマンBanjarpatomanを占拠した。早朝にオランダ軍がグラッNgelakからアマダノムAmadanomに向けて移動中との報告を得た第18部隊はすぐにパンダンアスリPandan Asri山に登って布陣し、敵の接近を待ち伏せる。

敵の待伏せを予想したオランダ軍は動きを止めて銃撃してきたが、ゲリラ部隊は沈黙を守る。工兵隊と通信隊を従えて重機関銃と携帯機関銃を装備した一個中隊半のオランダ軍は反応がないため動きを再開した。

午前8時ごろ、射程内に入ったオランダ軍に向けて第18部隊の攻撃の火ぶたが切って落とされた。銃撃戦はおよそ3時間続き、弾薬が尽きかけたゲリラ側は攻撃を中止した。オランダ軍も銃撃をやめて死傷者を収容し終えると、アマダノムへの移動を再開し、そのあと渓谷を超えてダンピッに入った。

翌日、オランダ軍はゲリラ部隊殲滅をはかって、バンジャルパトマンに対する総攻撃を行った。戦闘機が動員され、パンダンアスリ山一円は荒野と化したが、その報復攻撃を予知していた第18部隊は前夜のうちにバンジャルパトマン地区を脱出していた。


スムル山南部地区で行われたもっとも激しい戦闘はウォノコヨWonokoyoの戦いだった。戦闘の初期段階で指揮官と3人の将校を失ったオランダ軍は効果的な戦闘が行えなくなっていた。結局オランダ軍部隊は崩壊して逃げ去り、ゲリラ側は残された戦利品を手に入れた。携帯機関銃、騎銃と銃弾3百個、迫撃砲3基と十分な砲弾などだ。

第3ゲリラ司令部はダンピッ奪還作戦を1949年7月27日に決行した。午前5時45分の擲弾筒発射を合図に、全軍がダンピッの町に向けて攻撃を開始した。しかしオランダ軍の防御態勢も固く、敵司令部に2百メートルまで接近したものの、オランダ側の反撃が強まったために結局後退を余儀なくされ、8時半に攻撃部隊は戦場を離脱してガドゥンサリGadung Sariに集結し、そこからアンプルガディンAmpel Gadingに向けて移動した。

オランダ軍はスダユから援軍を呼んでゲリラ部隊を追撃しようとしたが、スダユからの援軍が共和国側のタロッ白虎部隊に前進を阻まれてなかなかダンピッに到着できず、追撃の機会は失われてしまった。


ダンピッの町中に侵入したゲリラ側攻撃部隊は、オランダ側のスパイになっていた地元民を捕らえて処刑した。NICAがインドネシアに戻って来たとき、インドネシア民衆の中にオランダの支配が復活するのを望む者がいたことは当然の事実である。特に華人系住民の中にその傾向が強かったのは、植民地時代の経済メカニズムの中に華人社会が深く関わっていたことと無関係ではあるまい。アラブ人やインド人社会との大きな違いがそこにあった。

だからと言って、華人という属性を持つ人間がすべて同じような考えを持ち、同じように行動したなどと考えるのは、人間というものを知らなさすぎる観念思考だろう。共和国軍に入ったプラナカン華人があったように、オランダの復活を望んでオランダ側にプリブミの情報を流した華人もいたというだけのことなのだ。だからスパイであるという証拠の挙がった人間だけが処刑され、処刑された者の多くが華人系だったということが事実なのである。

ただしもちろん、スパイの冤罪がまったくなかったと言い切れる人間もいないはずだ。まったく別の理由から他人を陥れようとする者が冤罪を利用することは大いにありえたのだから。この種のできごとは、930事件後の共産主義者粛清の中で、数えきれないほど起こっている。

スパイたちは強い同情と共感を漂わせて共和国側への支持を示しながらもその一方で、知りえた情報を密かにオランダ側に流した。そのために共和国ゲリラ部隊が罠にかかったり、隠れ基地を襲撃されたり、情報を求めて町に入った隊員が捕らえられたりといった損害がさまざまに発生している。華人を憎むプリブミにとって、その憎しみの中の一項目にこのようなことがらもきっと含まれているにちがいあるまい。そこにも、属性だけを見て個人を見ようとしない観念思考の弊害が出現している。

2020年1月24日〜2月4日