![]() ダンデルスHerman Willem Daendels第37代総督がヴェルテフレーデンWeltevredenを新バタヴィアNiuwe Bataviaの中心地区に変えたとき、ヴァーテルロー広場Waterlooplein(今のバンテン広場)とブッフェルスフェルドBuffelsveld(今のモナス広場)の間にあるチリウン川Kali Ciliwungの両岸地区はただの空き地でしかなかったようだ。 そこには1658年に設けられたノードヴェイク要塞Fort Noordwijkがあり、駐屯兵が要塞の近辺で野菜を植えている程度の利用のされ方でしかなかったが、1669年にはタバーンがそこに一軒できていたらしい。さびれた辺境の地に暮らす守備隊の兵士たちを相手にする商売がそこで営まれていたのだろう。世界中どこへ行こうが、その種の商魂はきっとユニバーサルなものだったのではあるまいか。 VOC将校のひとりが1723年にタバーンを買い取って自分のカントリーハウスにした。バタヴィア城壁内からの脱出の動きがまさに始まらんとしていた時期に当たり、かれはきっと時代を一歩先んじた先見の明を持つ人物だったにちがいあるまい。1743年になってそのカントリーハウス建物は病院として使われるようになり、1820年まで病院は続いていたようだ。 ダンデルスはノードヴェイク要塞を無用のものとして撤去させた。すぐそばのヴェルテフレーデンには軍兵がひしめいており、おまけに敵であるイギリス軍は北方のジャワ海沿岸部から攻め込んでくるのが確実なのだから、その時期にダンデルスが直面していた状況の中では、バタヴィア南東方面の出城であるノードヴェイク要塞の戦略的意義は皆無だったと言って差し支えあるまい。おまけに大昔の軍略を踏まえた構造で建てられている要塞など、現代戦のものの役に立とうはずがない。 ヴェルテフレーデンの中はダンデルスが隅から隅まで都市計画を作って建設が行われたものの、このすぐそばの空き地はそのまま放置されたようだ。そこはダンデルスの軍兵がブッフェルスフェルドで演習を行う際に通過する進軍路でしかなかったのではないだろうか。 新バタヴィアがブッフェルスフェルドを囲みながら南へ南へと発展して行くと、大都市のど真ん中で軍隊が演習を行うことは忌避されるようになり、ブッフェルスフェルドはただの空き地と化してしまう。反対にヴァーテルロー広場のすぐ傍らの空き地が都心部の公園としての機能を持たされることになった。 というのも、そこにはチリウン川が流れており、川の両岸には巨木がうっそうと茂っていて、暑熱がさえぎられて涼しく、川の水音までもが涼しさを運んできてくれるのだから、その場所に手が加えられて整備される以前ですら、オランダ人たちがそこへピクニックや野歩きに訪れていたのも当然の成り行きだった。そんな場所がすぐ隣にある以上、オランダ人がブッフェルスフェルドを公園にしようなどと考えるはずもあるまい。 ファン・デン・ボシュJohannes van den Bosch第44代総督が建設を命じた公園は1834年に完成し、ヴィルヘルミナ女王に敬意を表してヴィルヘルミナパルクWilhelmina Parkと名付けられた。プリブミはこの公園をウィジャヤクスマ公園Taman Wijaya Kusumaと呼んだ。総面積9.32Haのこの公園はオランダ人がバタヴィアに設けた最大の広さと現代性を備えた公園だったそうで、その時代のアジアでも最新コンセプトで最大規模のものだったと言われている。 巨大な樹木が立ち並び、チリウン川を渡る橋が整備され、あちこちの木陰にベンチが置かれて、たくさんのバタヴィア市民が憩いを求めてこの公園にやってきた。オランダ人上流層ばかりか、オランダ人や印欧混血の青年男女たちもやってきて、そこはかれらのデートスポットになっていた。プリブミもそこへやってくるのに障害はなかった。プリブミ上流層の青年たちもオランダ青年たちのようにそこをデートスポットに使い、安らぎと憩いの中に浸っていた。休日にはお弁当持参で、プリブミ中流層が一家そろって遊びに来る光景も見られたそうだ。 ニャイ・ダシマ殺害の計画を立てたバン・サミウンは官憲の捜査から逃れるためにこの公園のうっそうたる森の中に隠れたという話だから、アジア最大と言われたこの公園の規模がその話から推測できるだろう。 プルウィラPerwira通り南のプルタミナビルのあるあたりには噴水が設けられていたという話もある。植民地時代はヴィレムスラーンWillemslaanという名称だったプルウィラ通りは公園の中を通る道路だったのだろうか? ファン・デン・ボシュ総督はこの公園の真ん中に要塞を設けた。1834年に作られた要塞はプリンス・フレデリック・ヘンドリック要塞Citadel Prins Frederik Hendrikと名付けられたが、プリブミは土館Gedung Tanahと呼んだ。そのわけは、要塞の下に地下道が作られていておよそ12キロ離れたバタヴィア港(今のパサルイカンPasar Ikan地区)までつながっていると信じられていたからだ。 植民地時代を体験した古老の中にあたかも見て来たかのような話をするひとがいた。地下道は頑丈なコンクリート造りで部屋がたくさん用意されていたという話をかれが語ってくれるのだが、そのフレデリック・ヘンドリック要塞には常に警備兵がいて原住民も民間人も立入り禁止になっていたから、見て来たような話しに眉唾の思いを抱く者がほとんどだったのは疑いあるまい。 この要塞はイスティクラルモスクMasjid Istiqlal建設の際に取り壊されてしまい、たとえ地下道があったとしても今では既に巨大なモスク建物の下に埋められているから、真偽のほどを調べるすべもない。 近辺の住民は毎日朝5時と夜20時に要塞で撃ち鳴らされる大砲の音を耳にしている。それはヴェルテフレーデンにある全兵営の兵士に対して、30分後に行われる集合整列を知らせるために鳴らされていたものであり、そのあとに信号ラッパの音が続いたようだ。朝の起床時間や、あるいは夕方に外出した兵士たちがその音を聞いて兵舎に戻るべき時間を知った。一般市民には関係のない習慣ではあっても、かれらの生活のリズムの中に号砲の音は思い思いに位置付けられていたにちがいあるまい。要塞の屋根の上にはレイスヴェイクRijswijkの時計商ファン・アルケンVan Arcken & Co.が寄贈した大時計の鐘が休日もなく時を告げていた。 ファン・デン・ボシュがその要塞を作ったのは新バタヴィア中心部の防衛戦略のためだった。ヴィッテハウスと総督用レイスヴェイクホテルは最重要防衛ポイントなのだから、ヴェルテフレーデンからレイスヴェイクにかけての一帯を防衛するための陣地構築はトップクラスの重要事項になる。 ファン・デン・ボシュ防衛線Defensie lijn Van den Boschと呼ばれたこの戦略は、スネン鉄道駅東側のブグルブサールBungur Besar通り沿いに北上してクマヨランKemayoran南で西に折れ、パサルバルPasar Baru商店街地区北側のサワブサールSawah Besar〜クレコッKrekot更にモーレンフリートMolenvlietを横切ってザイヌルアリフィンK.H. Zainul Arifin通りに達してからプトジョPetojoに向けて南下し、タナアバンTanah Abang地区の北でクブンシリKebun Sirih通りに向きを変え、プラパタンPrapatan通り〜クラマッブンドゥルKramat Bunderからブグルブサールに至る囲み線状に塹壕を構築するという構想になっていた。 塹壕として丈の浅い溝が掘られたが、雨が降れば水がたまるだけであり、おまけに新バタヴィアに進攻してくる敵は一度も出現しなかったために、塹壕は結局埋め立てられて道路の一部と化した。 1942年3月に蘭領東インド植民地軍バタヴィア防衛部隊は日本軍到来を前にしてバンドンに移動し、バタヴィアを明け渡したから、つまるところファン・デン・ボシュの心配はまったくの徒労に終わったことになる。 ヴィルヘルミナパルクの入口にモニュメントが建てられた。背に翼を持つギリシャ風の女神像が高さ15メートルの台座の上に立っているものだ。アチェ戦争で没した兵士の慰霊のためのこの碑はアチェモニュメントAtjeh Monumentと呼ばれた。 インドネシア共和国が独立したとき、バタヴィア住民プリブミのマジョリティを占めるムスリム層は、バタヴィアの街に大モスクMesjid Rayaがないことを強く訴えた。地区によって地元住民が集まることのできるモスクはタナアバン、クウィタンKwitang、プコジャンPekojan、マトラマンMatramanなどにあるにはあるが、都市住民があらゆる場所から集まって来ることのできる、その都市を象徴する大規模モスクがないという意味だ。 一方で、新生ジャカルタの都心部には歴史を誇る大型教会が大通り沿いに立ち並んでいる。それもそうだろう。バタヴィアの街はオランダ人が自分たちのために建設した街であり、かれらが街中の大通りに建てる宗教施設はキリスト教のものに限られていたわけで、プリブミのために大モスクを一等地区に建ててやろうなどという考えはさらさら持たなかった。なにしろかれらにとって、プリブミは犬と同じだったのだから。 イスラム大祭に住民がこぞって集まることのできる大モスクが大通りやアルナルンalun-alunに面して作られることはムスリム住民にとっての夢であり、インドネシアが独立した今、夢をかなえるための機は熟したと政府から住民までが思ったのも自然の成り行きだった。独立の意味はそんなところにも出現する。 大モスク建設場所についての議論がなされた。ハッタ副大統領は後にホテルインドネシアが建てられる地区をムスリム住民が多いという理由で提案し、都民の一部はガンビル広場周辺を推奨した。ところがスカルノ大統領はヴィルヘルミナパルクにすると言い出したのだ。 その時期、フレデリック・ヘンドリック要塞はインドネシア国軍の火薬庫に使われており、またその周辺は軍用車両の保管場所としても使われていた。おまけにヴィルヘルミナパルクは歴史的価値を持つ公園なのである。もっと言うなら、オランダ植民地時代にオランダ人のエリート地区だったヴェルテフレーデンからコニングスプレインKoningsplein周辺にかけての一帯はオランダ政庁関係者が多数居住していた場所であり、ムスリムのプリブミ居住者はマイノリティにすぎなかった。 ところがそんな反対論もものかわ、スカルノのオランダ遺産嫌悪がここにも顔を出した。スカルノはオランダの要塞を破壊することを主張し通した。 独立の意味を持つアラブ語イスティクラルと命名された大モスクのデザインが1955年に一般公募されて、31の応募があり、コンテスト資格を満たす者はそのうち22で、そして最終選考は5作品に絞られた。 最終審査に残ったフリードリヒ・シラバンFriedrich Silaban、ウトヨR Oetojo、ハンス・フルネヴェーヘンHans Groenewegen、バンドン工大5人のグループと3人のグループの中で、コンテスト委員会が最終決定を下したのはキリスト教徒の建築家シラバンの作品だった。シラバンはオランダで建築学を学んでいる。 その応募に際してシラバンは、イスラム建築やイスラム教徒の作法や習慣について集中的に勉強したそうだ。1970年のコンパス紙に掲載されたシラバンとのインタビューの中でかれはその設計について、ムスリム層の希望を採り入れた上で建築学上の法則を熱帯の地に適応させたものだ、と語っている。一等賞の賞金は2万5千ルピアと黄金75グラムだった。その時代のルピア対米ドルレートは20〜30ルピアくらいだったようだから、今の貨幣価値と混同してはいけない。 計画された4,440本のパイルの杭打ちが開始されたのは1961年8月24日だったが、既に上部構造が撤去されたフレデリック・ヘンドリック要塞の跡地での杭打ちが進まなくなった。残っていた要塞の土台部分のレンガがたいへん頑丈で、杭がそれを突き破ることができなかったためだ。 フレデリック・ヘンドリック要塞がたいへん頑丈に作られていたことは、ダイナマイトで爆破しながら崩して行く陸軍工兵隊の作業に一年半の歳月がかけられたことが十二分に物語っている。杭打ち工事が中断されて、要塞の土台の掘り起こし作業に日数をかけたあげく、4,440本のパイルがすべて打ち込まれて杭打ちが完了したのは1965年3月だった。 9.32Haの敷地の中央に建てられた5階建て高さ55.8メートルの建物は床面積が3.7Haで、直径45メートルの半球ドームを支える円柱は高さ17メートル直径2.5メートル、そして預言者ムハンマッの誕生日ラビウラワルRabiulawal月12日にちなんで円柱は12本とされた。ドームの頂上に建てられた避雷針にはシンボルの月と星が直径3メートルの透かし彫りで飾られ、ドームの外装にはドイツ製の鋼鉄86トンが使われてその上にタイルが敷き詰められ、日光に輝く華麗なモスクの威容が四方に誇示されている。 5階建ては一日5回の礼拝を象徴し、東側に作られた塔は高さが地上高6,666センチ直径が5メートルになっていて、アルクルアンの章句の数に関連付けられている。建物はすべてが鉄筋コンクリートでその上に東ジャワ州トゥルンガグンTulungagungから切り出された大理石9.34万平米と1.14万平米のタイルが敷き詰められ、扉や窓とその枠はアルミとガラスが使われた。 20万人収容可能なこのインドネシア民族のシンボルとなるべき大モスクが1千年以上保たれることをスカルノは望み、木材や瓦など寿命の短い素材を使わないように求めたのである。独立したインドネシア民族の寿命も一千年以上続くように願ったことは言うまでもあるまい。 このモスクに備えられた太鼓は直径2メートル長さ3メートルで重さは2.3トンあり、東カリマンタンで得られた樹齢3百年の赤ムランティmeranti merahの幹をくりぬいて作られた。太鼓の表は雄牛の皮、裏は雌牛の皮が張られている。この太鼓はチカンペッCikampek地区で15人の太鼓職人が60日かけて作ったそうだ。 イスティクラルモスクの公式オープンは1978年2月22日で、午前9〜11時の間、近くを通る鉄道は臨時運休が命じられ、スハルト第2代大統領がそのインドネシア最大のモスク太鼓を打ち鳴らして開館を宣した。 イスティクラルモスクの土地とモナス広場は高架鉄道線路と道路をはさんで接しているのだが、今その場所へ行ってみれば分かるとおり、接しているという表現がもたらす印象は皆無に近い。両者を切り離している線路と道路を想像の中で取り去ってみれば、両者が接しているという状態が見えて来る。ヴィルヘルミナパルクとコニングスプレインはつながっていたのである。 ヴァーテルロー広場のすぐ西側がヴィルヘルミナパルクであり、その空間がコニングスプレインまでつながっているというのは、きわめて壮大なコンセプトだったようにわたしには思える。もちろんオランダ人が歴代、そこまで意図してそのエリアを扱っていたかどうかは知る由もない。 ただ、ヴァーテルロー広場北側のカテドラル教会とコニングスプレイン東側の国鉄ガンビル駅向かいに1839年に建てられたイマヌエル教会Gereja Immanuel、別名エマヌエルEmanuel教会がバタヴィアの中心地区における宗教風土を象徴していたのは明らかであり、スカルノが固執したイスティクラルモスクの立地場所があそこでなければならなかった理由をそれが物語っているかのようだ。 ダンデルスがシャンドマルChamp de Marsと呼ぶようになる前のブッフェルスフェルドはその名の通り牛の放牧やレンガ作りに使われていた。その場所は当時のバタヴィアの南端に当たり、その東西南は少しずつ開け始めていたようだ。ヴェルテフレーデン南部が東側、プトジョPetojo地区が西側にあって、スネン市場⇔プラパタン通り⇔クブンシリ通り⇔タナアバン市場という線の北側は徐々に開けていたようだが、そこは新バタヴィアの南端であることから、先に北部に充満したエリート層が南部ダウンタウンまで下って来るのに多少の時差が生じたのも無理はあるまい。クブンシリ通りの南側に高級住宅地としてメンテンMenteng地区が開発されるのは20世紀に入ってからだ。 シャンドマルが軍隊演習場にされた事実から、ダンデルスがシャンドマルの東西南エリアをどのように見ていたかは明らかだろう。ダンデルスが東インドから去り、ラフルズがジャワ統治の采配を振るうようになったとき、シャンドマルが軍隊演習場の役割を終えたのではないかとわたしは想像している。 オランダがナポレオンの支配を振り払って独立王国になったとき、国王ヴィレム1世即位を祝して、ラフルズはシャンドマルをコニングスプレインという名称に変えた。しかしプリブミはコニングスプレインと呼ばずにガンビル広場Lapangan Gambirという名前で通した。 実は、ブッフェルスフェルドがコニングスプレインと名を変えるはるか以前に、バタヴィアにコニングスプレインが存在していた。1740年の地図には、バタヴィア城Kasteel Bataviaの東側に運河をはさんで隣接する空き地がコニングスプレインと記されている。今のロダンラヤLodan Raya通りが通っている地区で中小規模の工場が立て込んでいるエリアだ。 多分この広場でVOC軍の演習や閲兵などが行われていたように思われる。総督庁はバタヴィア城内に置かれていたから、総督庁とコニングスプレインの関係はダンデルス→ラフルズのときと酷似していると言えなくもない。つまりレイスヴェイクの総督庁とシャンドマルという関係だ。 おまけに総督庁と儀典プラザの関係についても、VOC時代にはバタヴィア市庁舎前のスタッハウスプレインStadhuisplein(今のファタヒラ公園)が儀典プラザになっていたわけで、ダンデルス→ラフルズ時代のレイスヴェイクとヴァーテルロープレインという関係によく似ていて、まるで歴史がそっくり繰り返されているかのような気になってくる。 で、そのヴィレム1世は東インドでプロテスタントの諸分派を合体させることを強く望み、その受け皿となるべき教会の建設を命じた。1834年にバタヴィアのコニングスプレイン東Koningsplein Oostで建設工事が開始され、1839年8月24日に完成した教会はヴィレムスケルクWillemskerkと呼ばれた。 クラシシズムのユニークな建築様式を持つヴィレムスケルクは1830年に建てられた東インド植民地軍司令官官舎(現在のパンチャシラ館Gedung Pancasila)の南西3百メートルに位置しているが、蛇行するチリウン川がその間を横切っており、教会はヴェルテフレーデンの外にある。 日本軍政期にヴィレムスケルクは忠霊堂Churei-doという名に変えられ、戦没した日本軍人用の納骨堂として使われた。1948年になってインドネシア共和国に変わったプロテスタント教会統一機関の西部インドネシア地域本部 Gereja Protestan di Indonesia bagian Barat (GPIB)がオランダ語名称をインドネシア語に変えるためにGPIB Immanuelを正式名称として登録した。 そのような経緯で、ナポレオンの香りを漂わせるシャンドマルはイギリス人がオランダ王国誕生を祝してコニングスプレインに名称を変えた。そしてラフルズ時代には馬が大好きなイギリス人が、競馬をしたり馬を駆るためにその広場を使っていたそうだから、軍隊の演習に使われる頻度は低下していたのではないかというのがわたしの推測である。 軍隊の演習が行われなくなると、コニングスプレインで牛を放牧する者たちが出現した。かつてのブッフェルスフェルドの復活だ。当然ながらバタヴィア市はそれを禁止した。もはや昔の時代に戻すことはできないのだ。するとあるとき、牛肉販売の商売をしている市民が突然、東インド参議会Raad van Indie/Dewan Hindia議員になりたいと申し出た。その理由が振るっている。社会的名誉が欲しいわけではない。金を容易に手に入れることのできる立場になって、あぶく銭をわしづかみしたいというわけでもない。しっかりと自分の商売に精を出したいのだとかれは言った。 東インド参議会議員になれば、バタヴィア市の規則を破ったところで、だれもなにもできないのが世の実態なのである。国家レベルの役職者になれば、市が禁止していようともコニングスプレインで養牛を行える。町のど真ん中で牛を飼育し、その肉を販売するという最大効率の事業が行えるのだ。 かれがめでたく目論見通りのことを行ったのかどうかはよく分からないが、国家参議会の議員は市の規則より上位にあって、お偉いさんが規則を踏みにじっても誰にもそれを止めることができないという植民地の社会状況がそこに赤裸々に描かれているではないか。現代インドネシア人のビヘイビアを支えている原理には、遠い昔からのお手本があったということにちがいあるまい。 1896年に発表された小説「ニャイ・ダシマ」は19世紀前半のコニングスプレイン東の状況を背景にしている。ラフルズ統治期のジャワにやってきたイギリス人エドワード・ウイリアムスがバンテン地方の農園で管理人として働いているとき、スンダ人美少女をニャイに得る。 イギリス統治期が終わってオランダに統治権が戻されると、エドワードは仕事を失ってニャイと共にバタヴィアに移った。現在イスティクラルモスクの南側はプルタミナビル、そして運輸省海運総局と続いている。その地区には最初、広い敷地に建てられた豪壮なヴィラが並んだ。そこはチリウン川をはさんでヴェルテフレーデンに隣接する当時の民間向け一等地だったようだ。エドワードとダシマはその一軒を借りて住んだ。 ニャイ・ダシマの悲劇はこちらでどうぞ。 http://indojoho.ciao.jp/archives/library010.html だが20世紀に入るとその地区には大型オフィスビルが建てられはじめて、豪奢な暮らしを謳歌した時代は終わりを告げる。1916年に海運会社KPM Koninklijke Paketvaart Maatschappijがそこにオフィスを設けた。KPMは植民地時代にインドネシア内国航路を運航していたが、インドネシア主権承認以後もインドネシア化されることを拒否してオランダ国旗の下に内国航路での運航を続けた。だが最終的に1957年の西イリアン解放戦争の時にオランダ資産が国有化され、KPMもインドネシアから撤退した。その結果、運輸省海運総局がその建物を使うようになった。 もうひとつのプルタミナビルはバタヴィア石油会社Bataafsche Petroleum Maatschappijが1938年に建てたもので、インドネシア主権承認後共和国陸軍がそこに入り、ナスティオン将軍がイブヌ・ストウォ大佐に命じて作らせた石油会社PT Pertaminaが1957年12月から業務を開始している。 東西南方向への開拓がゆるゆると進んでいた当時のシャンドマル北側、つまりレイスヴェイク地区は既に新バタヴィアNiuwe Batavia中心部と呼ぶにふさわしい発展を見せていた。 モーレンフリート南端に接するレイスヴェイク地区西端は1814年に完成したハルモニー社交場が壮麗な威容を示し、その東隣にはファン・ブラアムJacob Andries van Braamのカントリーハウスがあって、そこは1821年に総督専用のレイスヴェイクホテルに変身した。 ファン・ブラアムの邸宅は2階建てで、裏には豪華な庭園が作られてブッフェルスフェルドまでつながっていた。1848年に2階が崩れかかったために改装工事が行われて現在のような姿に変わっている。庭園に出るテラスも後に大きく拡張されてレセプションパーティなどができる規模に作り変えられた。 その東隣の現在ビナグラハBina Grahaがある土地は1794年にピーテル・テンシーPieter Tencyが手に入れて、そこに豪華な建物を建てた。1811年にラフルズがその建物を2万7千レイクスダルダーで買い取って改造し、しばらくそこで暮らしてから、バイテンゾルフ宮殿に移るときに部下の高官の住居にしたという話になっている。 1840年、その建物はホテルロワイヤルHotel Royaleとなり、しばらく経った1846年にホテルネーデルランデンHotel der Nederlandenに変わった。このホテルネーデルランデンはホテルデザンドHotel Des Indesと並んでバタヴィアの最高級ホテルのひとつに数えられた。共和国時代になってダルマニルマラDharma Nirmalaにホテル名が変えられてから1969年に建物は撤去されて、ビナグラハビルがその跡地に建てられた。 スカルノ大統領が独立宮殿の主だった時期には、大統領親衛部隊チャクラビラワTjakrabirawaが司令部をそこに置いていた。スハルト大統領がG30S事件の処理を完了させた後、チャクラビラワは解散させられ、同時にホテル建物も撤去されたという流れだったようだ。 それらの建物はすべて表玄関が運河南沿いの道(今のヴェテラン通り)に面していた。コニングスプレインは建物の裏側にあり、そちらには背が向けられていたのである。その状況に変化が起こったのは、19世紀後半だ。 レイスヴェイクホテルが手狭になったため、裏庭に新しい建物が建設されることになり、この新館は表門をコニングスプレインに向けて1873年に建設が開始され、1879年にオープンした。それが現在の大統領宮殿Istana Merdekaである。植民地時代にはコニングスプレイン宮殿Koningsplein Paleisと呼ばれた。 この建物を使ったのは植民地時代に15人の総督、日本軍政期に3人の最高指揮官、そして共和国独立後のスカルノ大統領と続くのだが、そこをフルタイムの居所および執務所として使ったのは日本軍人とスカルノ大統領、そしてアブドゥラッマン・ワヒッ第4代大統領だけで、共和国時代になってもたいていの大統領は宮殿の外にある自宅に住んだ。 独立宮殿にならって、その更に東側に建てられた最高裁判所や内務省が南に向けて表門を構えており、南の大広場がコニングスプレインからモナス広場へ格上げされたことの帰結をわれわれはそこに見出すことになる。 ホテルネーデルランデンの東側の道(今のヴェテラン?通り)は植民地時代にガンセクレタリーGang Secretarieという名称だった。ホテルネーデルランデンになる前、その建物に総督官房が入っていたからだ。 この通りの東側にある広い土地に貴金属加工・時計製作・宝石販売のファン・アルケンが店を開いたのは1860年代だったようだ。アムステルダムのファン・アルケンがバタヴィアに進出してきたのは1851年で、最初はジュアンダJuanda通り側のノードヴェイクで開店した。1854年にオランダ王家の御用達を認められた同社は、ジャワでも1861年にヨグヤとソロの王家から王宮御用達の指名を受けている。 ファン・アルケンはバタヴィアで大いに稼いだらしく、レイスヴェイクの地所を8千平米まで増やした。バタヴィアの一等地の地主としてそれほど広大な面積を所有すれば、一大分限者としてだれしもが一目置くにちがいあるまい。だが1942年に悲劇がかれらを襲ったことは間違いないようだ。 共和国時代に入ってガンセクレタリーがヴェテラン?通りに変わったあとの1960年ごろまで、この通りには商店や会社のオフィスが並んでいた。ファン・アルケンの店があった場所は米国映画輸入者協会が入ってハリウッド映画を国内の映画館に配給していた。左翼グループが米国をはじめとする西洋映画のボイコットを叫んでいた時期に、その建物は暴徒の襲撃を受けて炎上したこともある。 レイスヴェイクの東端からおよそ百メートル手前の土地に1834年、ヤファホテルGrand Hotel Javaが建った。この地所もヴェテラン通りからコニングスプレインに至る縦長の土地になっており、たっぷりとスペースの余裕を取ったパビリオンの配置は風がよく通って涼しいことから、宿泊客の評判はたいへん良かったそうだ。地面から4フィートの高さに床が作られている部屋もあり、そこはまた格別の涼しさだったらしい。直接コニングスプレインに出られる便宜を生かすべく馬と馬車が用意されていて、客はコニングスプレインで馬を駆ることもできた。 このホテルは部屋数が70室だったと1909年の記録に記されている。いかに空間を贅沢に使っていたかをそれが物語っているようだ。確かに長期滞在家族客にとって、そこは素晴らしいホテルだったにちがいあるまい。 ヤファホテルは共和国独立後もしばらく存続していたが、結局閉業した。その後土地の北半分は共和国軍陸軍が総司令部を置き、南半分は共和国政府内務省が庁舎を置いている。 コニングスプレイン北側のレイスヴェイクと呼ばれたエリアの東端はヴィルヘルミナパルクとレイスヴェイクを隔てるシタデルヴェフCitadelweg(今のヴェテランI通り)で、東端北側角地には一世紀半の歳月を経たホテルスリウィジャヤHotel Sriwijayaが建っている。 ファン・デン・ボシュ総督の時代に、ヴィレム・カヴァディノConrad Alexander Willem Cavadinoがその土地を買った。コンコルディア軍社交場で宿泊施設部門を担当していたカヴァディノは1863年、そこにレストランとケーキ店を開いて事業を行った。西のレイスヴェイク通りと同様、シタデルヴェフもバタヴィア第一級の商店街になっていたようだ。 カヴァディノは1872年にレストランをやめてホテル業に転向し、ケーキ店はキャンディ・チョコレート・葉巻・ビールやワインなどのアルコール飲料を販売するトコカヴァディノToko Cavadinoという名の小売店に変身した。ホテルカヴァディノは1898年まで存続し、1899年にホテルデュリオンドルHotel du Lion d'Orに変わった後、1941年にパルクホテルPark Hotelになって日本軍政を迎える。それがホテルスリウィジャヤになったのは1950年代半ばごろらしい。独立直後は共和国空軍がそこを寮に使っていた。 このスリウィジャヤホテルこそが、ジャカルタで最古の建物をいまだに保っているホテルとされている。もちろん古くなれば木材が傷むのは当然で、1999年に改修工事が行われているが、レイスヴェイク地区内のホテルが軒並み政府機関に変身した中にあって、東端に位置するこの三星級ホテルだけが19世紀の香りを今に残してくれている。 シタデルヴェフ沿いにホテルスリウィジャヤから下って行くと、植民地時代に栄えた商店街が出現する。1932年開店の、イタリアンアイスクリームで一世を風靡したラグサRagusaは、ルイジとヴィチェンツォ・ラグサの兄弟が始めたアイスクリームサロンdie Italliaanse ijssalonだった。 続いて、植民地時代の雰囲気を満喫させてくれる食事処ダプルババDapur Babah Elite & Tao Barがある。1920年代の建物を買い取ってレストラン兼バーに改装したこの店は、植民地時代の華人プラナカンの生活を彷彿とさせる雰囲気を売り物にしているようだ。ダプルババが2004年12月にオープンする前、そこはハップティオンHap Tiongテイラーだった。 更に下ると、昔イタリアレストランのドムスDomusが営業していた建物がある。いつの間にか知らないうちに営業をやめてしまっていて、わたしは実に残念な思いを体験した。ロマンとエキゾチシズムを求めてわたしが何度か訪れたころ既に客の入りがあまり良いとは思えなかったから、仕方のない結末だったのかもしれない。 この商店街の端で今営業しているニュージアムカフェNewseum Cafeはかつて、黒猫Le Chat Noir/Black Cat Clubの名前で世に知られていた。黒猫がいつから営業していたのか、はっきりしたことは分からない。二十世紀前半は、バタヴィア中流層がナイトライフの一部として集まって来る場所になっていた。 バタヴィアのルシャノワールの名が語られるとき、ひとびとの脳裏にはそこを頻繁に訪れた著名人の名が電光のごとくよぎったにちがいあるまい。ヨーロッパでダンサー・娼婦・二重スパイの三位一体を働き、汚名の中で銃殺刑による生涯を終えた女性マタハリもそのひとりだろう。マルハレータ・ヘールトリュイダ・ゼレMargaretha Geertruida Zelleを本名にするかの女はオランダ人を父、ジャワ人を母とする欧亜混血者で、自分の通称を太陽Matahariとせず、eye of the dayを意味するMata Hariとした。 あるいは南スラウェシで残虐な大量虐殺者として名を轟かせたオランダ人レイモン・ヴェステルリンRaymond Pierre Paul Westerling大尉も頻繁にそこにやってきたそうだ。 ヴェステルリンは最初、イギリス軍で特殊部隊員の訓練を受け、AFNEI軍と共にインドネシアにやってきた。イギリス領インド軍が主体を攻勢するAFNEI軍は、インドネシアでのヨーロッパ人捕虜収容所の解放と日本軍の武装解除および本国送還を主要任務として進駐してきた。その任務が終われば、インドネシアをオランダ植民地政府に引き渡して日本軍進攻前の状態に復帰させることを最終目的にしていたのだから、オランダ王国軍人であるヴェステルリンがAFNEI軍に混じっていたのも当然のことだったのだろう。そのときかれは軍曹だったようだ。 AFNEI軍の話はこちらでどうぞ。 http://indojoho.ciao.jp/koreg/hbatosur.html NICA(蘭領東インド文民政府)軍治安維持部隊として特殊部隊DSTが1946年7月に不穏な南スラウェシに派遣されたとき、少尉になっていたかれが特殊部隊を指揮した。 47年3月、南スラウェシの不穏な状況が解消されてDSTがバタヴィア本部に戻ったとき、軍内部における特殊部隊とその指揮官の評価は絶大なものになっていた。48年1月にはDSTの規模が拡大されてKSTとなり、ヴェステルリンは大尉に昇進して新特殊部隊司令官の地位に就く。 ところが南スラウェシを平穏化させるためにDSTが行っていたことが薄皮をはぐようにして世の中に知られるようになっていった。おまけにKSTが西ジャワでの治安維持行動に加わると、特殊部隊員はスラウェシで行ったことを当然であるかのように繰り返し始めたのである。 スラウェシではかれらの実際行動を見聞したオランダ人がいなかったために、プリブミの噂話としてしか伝わってこなかった情報が、オランダ人があふれている西ジャワでは世間周知のことになってしまったのだ。KSTは殺人狂の集団であるということが。 そのような歴史を持つミステリアスな雰囲気に満ちたルシャノワールは今や、明るく健全なカフェ&バーになっている。建物は往時のものが維持されているので、わたしと同病の方々は一度立ち寄ってみるのも一興だろう。 コニングスプレイン西Koningsplein Westに目を向けてみよう。 ハルモニー社交場がオープンし、レイスヴェイク通りRijswijkstraatをはさんでオジ・フレールOger Freresを筆頭にするバタヴィア最高級商店街が南に連なったころから、レイスヴェイク通り両側の南詰めエリアは高級住宅地になっていった。その流れから見るなら、マジャパヒッ通り(昔のレイスヴェイク通り)からタナアバン市場に向かってまっすぐ南西に下っていくアブドゥルムイスAbdul Muis通り(昔のタナアバンヴェストTanah Abang West)とモナス広場に沿った西ムルデカ通り(昔のコニングスプレインヴェスト)が作り出す三角地帯に邸宅が建てられていくのは時間の問題であったように思える。ただ、わたしの憶測を証明するデータをわたしはまだ見つけていない。 1858年にバタヴィアを訪れた旅行者はこのような内容を手紙に書いた。 コニングスプレインはキングの名を冠するにふさわしい場所だ。この広大な場所でときどき軍隊が軽砲の試射を行っているものの、その広さゆえに近隣の住居に住むひとびとに不安や不快を与えることはない。バタヴィア競馬クラブの競馬場がフェンスの中に設けられているが、その大きさがほとんど実感されない。コニングスプレインは少し歪んだ四方形で、疲労をいとわないときに歩いて一周しようとすると、ほぼ一時間かかる。周囲四方はよく整備された道路が境界をなしていて、タマリンドの木が連なり、道路の向こう側には美しいビラが並んでいる。この地区に住むバタヴィア住民は表の道路を散歩することをとても好んでいるから、毎日夕方5時半から6時半までの間、歩行者、騎馬、馬車で路上を徘徊するひとびとに必ず出会うことになる。そのころ、日中の暑熱は顕著に薄れて涼しさを増し、西の地平線は沈みかかる太陽が鮮やかな残光を投げかけ、生きる歓びの妙味が全身を満たす。しかしながら、闇のとばりが降りて来る速さに、われわれは無念の思いを抱くのである。 もちろん、あらゆる人間が賛辞を与えたわけでもなく、中にはバタヴィアの空間感覚が広すぎて無駄が多すぎ、そのシンボルがコニングスプレインで、もっと経済性のある用途に有効活用されるべきだ、と狭いオランダの街を擁護する弁を述べたひともいる。人間の価値感覚は決して一律になるものではない。 コニングスプレイン西の区画で最初に誕生した大型建築物は、1864年に建てられたバタヴィア芸術科学ソサエティBataviaasch Genootschap van Kunsten en Wetenschappen本部館だった。それが今の国立博物館Museum Nasionalだ。地所は区画のちょうど中央あたりで、この大型建物が建てられる前、その場所にはバタヴィア競馬クラブBataviaasche Raceclubの厩舎があった。コニングスプレインの一部で競馬が盛んに行われていたことをそれが証明している。 その頃その地区にはまばらに民家も建てられていたようだが、具体的な状況はよく分からない。20世紀初にはソサエティ本部の北側にモダンな建築様式の家屋がふたつあった。住居として建てられたその家屋は他の地区の住居に比べて土地が狭く、そのために二階建ての構造になっていて、邸宅という雰囲気は薄い。その家屋は1994年に開始された国立博物館拡張工事のために取り壊された。 最初からあった国立博物館本館の北側に接して建てられた現代的ビル構造の新館ユニットBは2007年6月20日に当時のSBY大統領がオープニング式典を行った。それからほどなくわたしも見学に訪れたが、展示技術が格段の進歩を示していたことに驚かされたことを覚えている。 バタヴィア芸術科学ソサエティは1778年にレイニア・デ・クラーク第30代総督(臨時)が発足させたアジア最初の学術機関であり、その母体となった私的活動グループの中心人物だったラデルマッハーJCM Radermacherは最初、バタヴィア城市内のカリブサールKali Besar沿いにある自宅をその活動の本部にした。 かれは多数の蔵書や標本をソサエティに寄贈し、その後も有用な書籍や標本資料などが増加したために本部は半ば図書館兼博物館と化して、本部の拡張が重要問題になってしまう。ラフルズ総督はその対策として本部をハルモニー社交場に移すことを決め、しばらくはハルモニーの敷地内にある別棟がソサエティの本部になっていた。 しかし数十年経てば、また同じことが繰り返される。植民地政庁は結局コニングスプレイン西に大型の専用建物を作ることを1862年に決定し、そこをソサエティの本部にした。この本部に移された大量の蔵書と標本資料は図書館並びに博物館として1868年から一般公開された。その後、図書館部門は国立図書館となって別の場所に移り、この建物は博物館だけが残されて、現在の国立博物館になっている。 国立博物館の表正面に立っている銅製の象は、1871年にバタヴィアと周辺地域を訪れたタイ国王チュラロンコン・ラマ5世が寄贈したものだ。国王はこの博物館を見学して標本資料の豊かさに感動し、記念に像を贈ることにしたと言われている。その像のおかげでこの博物館をプリブミは象館Gedung Gajahあるいは象博物館Museum Gajahと今でも呼んでいる。 1923年、植民地政庁の一機関だったソサエティはオランダ本国に認められて、王国名を名乗ることを許された。こうして名称はオランダ王国バタヴィア芸術科学ソサエティKoninklijk Bataviaasch Genootschap van Kunsten en Wetenschappenと格上げされた。しかし1950年1月、インドネシア共和国主権承認に伴って、この学術機関はインドネシア文化院Lembaga Kebudayaan Indonesiaと名が変わった。 植民地政庁がコニングスプレイン西に用意したバタヴィア芸術科学ソサエティの地所は、その南側の土地も含んでいた。今、国立博物館の北にはムセウムMuseum通りがあり、博物館〜国防省と並んだ南側にも道路がある。多分その区画がソサエティ本部館を建てる際に用意された土地だったのだろう。 1924年に政庁は博物館の南側に空いていた土地に法科上級学校Rechst Hogeschoolを作った。倫理政策に従って、プリブミに対する高等教育の一環として設けられたこの学校は、後に独立運動の志士を大勢輩出している。共和国独立後誕生したインドネシア大学法学部の前身がこの学校だった。日本軍政期にはこの建物に憲兵隊司令部が置かれ、現在はインドネシア共和国国防省になっている。 コニングスプレイン西の区画の最南端には現在インドサッIndosat本社があり、その北側が観光省のサプタプソナSapta Pesonaビルだ。サプタプソナビルの建っている場所には1897年に蘭領東インドスポーツカンパニーThe Netherlands Indies Sports Companyが本社館を建てて、サイクリング・ゴルフ・クリケット・テニスそして競馬に至るまでスポーツビジネスを幅広く取り扱っていた。1890年代にはバタヴィアで自転車熱が沸騰したそうで、自転車販売や修理サービスは大いにこの会社の利益に貢献したことだろう。 スポーツカンパニーの後、その場所に小型ドームを持つ四角いビルが建てられた。フリーメーソンのロッジだったそうだ。そこも同様に悪魔館と呼ばれたかどうかは判然としないが、いずれにせよ1962年にスカルノがフリーメーソンを非合法化したために、このロッジは維持できなくなったにちがいあるまい。 コニングスプレイン西のこの区画の最北端はいま、人間開発文化統括省の本庁になっていて、敷地内の高層ビルの手前に植民地時代に建てられたコロニアル様式の建物が残されている。それは海運会社の事務所として使われていたものだ。 その南隣には国営ラジオ局RRIRadio Republik Indonesiaの本社とスタジオがある。1970年代のジャカルタにはまだ音響効果の優れたホールがあまりなかったため、RRIの大ホールがさまざまな演奏会によく使われていた。政府機関であるRRIの公式発足は1945年9月11日であり、日本軍政期に日本軍が6都市に置いたラジオ放送局を引き継ぐ形で放送事業を開始した。 インドネシアにおけるラジオ放送の歴史は、バタヴィアラジオ協会Bataviaasche Radio Verenigingを嚆矢とする。この民間ラジオ局は1925年6月16日からバタヴィアのモーレンフリート西にあるホテルデザンドの一室で放送を開始した。 次いで1934年に元々は民間資本の蘭領東インドラジオ放送会社Nederlandsch Indische Radio Omroep Maatschappij(NIROM)がバタヴィア・バンドン・メダンで放送を開始した。それと前後して1933年のソロを皮切りに、1936年までの間にバタヴィア・バンドン・スラバヤ・マディウン・ヨグヤカルタ・スマランでプリブミのラジオ局が続々と放送を開始する。 NIROMは植民地政庁の支援を受けて蘭領東インドの公式ラジオ局の役割をたどることになる。NIROMのバタヴィア本社はコニングスプレイン西の、現在RRI本社がある場所だった。NIROM時代の建物は日本軍政期と共和国時代の数十年を経た1977年4月に現在のRRI建物に大改装されている。 コニングスプレインを囲むエリアの開発が南へ伸びていく中で、クブンシリ通りとコニングスプレイン南Koningsplein Zuid通りにはさまれた地区もバタヴィアの住宅地区に変わって行った。そこが当時のバタヴィアという都市の最南端であり、レイスヴェイクのような華やかさを望みようもない末端住宅地と位置付けられたのは疑いようもない。 特にこの地区の西部はレイスヴェイク通りから下って来るステータスのどん底に位置しており、南のクブンシリ通りへ出るには、細い小路を通らなければならない地理的条件になっていた。今の西ムルデカ通りに南からつながってくるタムリン通りは、植民地時代にまだ存在していなかったのである。 インドネシア共和国独立後、政府はジャカルタ南部のクバヨラン地区にニュータウン建設を計画した。具体的な内容を企画したのはトーマス・カーステンThomas Karstenの弟子モッ・スシロMoh. Soesiloで、1949年3月8日から建設工事が始まり、1955年に完了した。このニュータウンはクバヨランバルKebayoran Baruと名付けられた。 モーレンフリート両岸からムルデカ広場に至るジャカルタ中心部とこのニュータウンを結ぶ全長7キロの幹線道路が必要になった。道路建設は南側4キロ区間と残りの北側という二段階に分けて行われ、南側はスディルマン将軍通り、北側はMHタムリン通りという名称が与えられた。 幹線道路建設は初め1950年完成予定の日程が組まれたものの、居住民を建設予定地から退去させるのに政府は疲労困憊してしまった。居住民は不法居住者なのだが、素直に追い払われてはくれない。交渉があり、デモがあり、官憲との衝突があり、といったよくあるプロセスを経て、政府側がかれらの代替居所としてブンドゥガンヒリルBendungan Hilir地区に移転先を用意することでやっといざこざが収まった。その幹線道路の開通は1952年だった。 コニングスプレイン南通りは更に西進して中規模道路のガンスコットGang Scott(今のブディクムリアアンBudi Kemuliaan通り)につながり、かろうじてタナアバンとの連絡を容易にしていたが、南のクブンシリに向かう際の中級道路はずっと東にあるガンホレGang Holle(後のサバンSabang通り、今のハジアグッサリムHaji Agus Salim通り)まで回らなければならなかった。 18世紀前半にユスティヌス・フィンクJustinus Vinckが作ったスネン市場とタナアバン市場を結ぶ小道(今のクブンシリ通り)は、1830年代にファン・デン・ボシュ防衛線構築のために整備されて立派な道路になり、コニングスプレイン裏の新道という別称で呼ばれるようになる。その新道の道路沿いが開発されて行くのも時間の問題だったと言えよう。 一方のガンスコット沿いの地区は1860年代以降の数十年間、バタヴィア庶民層に人気のある住宅地区だった。 スマラン港で港湾管理の要職を務めたイギリス人ロバート・スコットは1820年にバタヴィアに移り、コニングスプレイン南通りの突き当たり地区を住宅地に開発して、中央にガンスコットを通した。その住宅地区はスコット村Kampong Scottと呼ばれて人口に膾炙した。スコットの自宅はコニングスプレイン西通りとガンスコットの角地だったようだから、きっと現在のインドサット本社がある場所だったのだろう。 さすがにカンプンという名称が言い表す通り、ガンスコットの両側に並ぶ住宅は当時の他の住宅エリアに比べて狭い地所に建てられており、南側のクブンシリ通りに面して並んでいる建物群よりもごみごみした印象は避けられない。 だがこのガンスコット南エリアは1963年にインドネシア銀行の敷地にされて、そのブロックにあった建物は一掃された。その東端に1831年に建てられてあったアルメニア教会も取り壊された。 アルメニア人の東インドでの歴史は古い。17世紀半ばごろ、アルメニア商人はスパイス貿易を行うためにマルクに渡来して住んだ。バタヴィアが東インドの中心になっていけば、バタヴィアに移る者が出て当然だ。1747年3月、東インドVOCはアルメニア人コミュニティにヨーロッパ人と同等の権利を認める決定を下している。 1831年、アルメニア人有力者がコニングスプレイン南のその場所に自費で木造のチャペルを建てた。ところが十数年後、火事のためにそのギリシャ正教のチャペルは焼け落ちてしまう。 1852年、アルメニア人コミュニティはちゃんとした教会を建てることを決めて、資金を募り始めた。建設工事は1854年5月に開始されて、1857年に完成した。だがその寿命は百年そこそこでしかなかったのである。その背景には、第二次大戦後、インドネシアに住んでいた大勢のアルメニア人が米国へ移住したことが関わっているのかもしれない。1976年のインドネシアの統計によれば、全国にいるアルメニア人は3百人ほどでしかなかったとのことだ。 インドネシア銀行の前身は植民地時代の1828年に現在のジャカルタコタ駅向かいに建てられたジャワ銀行De Javasche Bankだった。ジャワ銀行は造幣と貨幣流通のための銀行として発足した。1953年に共和国政府はジャワ銀行を国家中央銀行に変える。 タムリン通り西側にインドネシア銀行ビルが完成して、1963年7月にコタ駅前の旧ジャワ銀行から移転が行われた。9階建て新ビルの設計はイスティクラルモスクをものしたFシラバンだった。それからかなり後になって、その両側に30階建ての新たなツインビルが増築され、インドネシア銀行の地所が満たされることになる。新ビルのオープニングは2005年に行われた。それまで残されていたガンスコット南の民家や建物はすべて消滅し、古いモスクと病院だけが残されて今日に至っている。 アルメニア教会跡地から更に東へ5百メートルほど離れた場所が現在のジャカルタ首都特別州庁舎だ。1919年にコニングスプレイン南8番地に建てられたのは西ジャワ州レシデンResidenの邸宅兼執務所で、9番地にバタヴィア市長Burgemeesterの邸宅兼市庁舎Gemeentehuis Bataviaが建てられた。 VOC時代のバタヴィア市Stad Batavia行政を統括する市庁舎Stadhuisは城壁内の、現在のファタヒラ公園Taman Fatahillahを前にするジャカルタ歴史博物館Museum Sejarah Jakartaだった。 城壁が撤去されて行政センターがヴェルテフレーデンに移されたときも、市庁舎は城壁が撤去された旧城市内に置かれたままだった。ヴェルテフレーデンが国家行政と軍隊のセンターを意図されていたことが多分その理由だったのだろう。市庁舎がバタヴィア中心部に移動したのは1913年のことで、最初はタナアバンヴェスト35番地に移り、1919年にやっとコニングスプレイン南9番地に腰を据えることになった。 1920年代にメンテン地区の開発が進められた時、ビスホッププレインBisschoppleinに市長官舎が設けられた。市長の職住分離が行われた結果、コニングスプレイン南9番地は百パーセント市庁舎Gemeentehuis Bataviaとなった。1926年10月1日から中規模市に格上げされたバタヴィア市庁舎はStad Gemeentehuis Bataviaと名が変わった。 日本軍政期を経て共和国が発足すると、初代ジャカルタ市長スウィルヨSoewirjoのもとにジャカルタの建設が開始されたものの、AFNEI軍の進駐と手を携えて戻って来たNICAがジャカルタを占領して旧統治体制にもどした。プリブミによる市行政機構は市庁舎から追い払われたのである。1948年3月9日、NICAは市庁舎をStad Gemeente Djakartaと改称した。 1949年12月27日のインドネシア共和国主権承認で市行政は再度プリブミの手に委ねられ、1950年3月31日にスウィルヨ市長が自分の机に戻ることになった。1954年にムルデカ通り8番地が市庁舎に合併され、今日の都庁Balai Kota Jakartaの基盤ができあがった。 1871年、バタヴィアでの鉄道運行の開始に合わせて、コニングスプレイン東のイマヌエル教会の対面に当たる場所にヴェルテフレーデン鉄道駅Stasiun Weltevredenができた。今のガンビルGambir駅だ。 できた当初はこの駅がバタヴィアの南ターミナルになっていたが、1873年にメステルコルネリス経由バイテンゾルフまで線路が延長されたために、バタヴィアの都心駅の立場に躍り出た。 その駅舎は1884年に改築され、新装なった駅舎は1917年に拡張されて1928年まで使用されてから、アールデコ調の新デザインに改築されて共和国時代を迎えることになる。しかしインドネシア国鉄が都心部の鉄道高架化を行った関係で1992年に駅舎はまた改築されて現在のものになった。 ジャカルタで最初に作られた鉄道線路はバタヴィア港とコニングスプレインを結ぶ9.3キロのものだった。ハーフェンカナールHavenkanaal東岸(現在のスンダクラパ港)の港税関事務所クレイネボームKleine Boomから現在の国鉄コタ駅のおよそ3百メートル北側を通ってマンガドゥアMangga Duaに達したあと、一路コニングスプレインへ南下する路線を民間の蘭領東インド鉄道会社Nederlandsch Indische Spoorweg Maatschappij (NIS)が設けて運行した。 NIS社は現在のBNI銀行駐車場のある辺りにバタヴィア中央駅Batavia Hoofdstationを設けた。現在の国鉄コタ駅ではない。クレイネボーム駅とヴェルテフレーデン駅間の列車運行開始は1871年9月15日だった。 NIS社は更にヴェルテフレーデン駅からメステルコルネリスまで線路を延長させて1872年6月16日から運行を開始する。そして最終目的地であるバイテンゾルフまで線路をつなげる工事が完成したのは1873年1月で、クレイネボームからバイテンゾルフまでの一貫運行は73年1月31日からスタートした。 NIS社の線路はコニングスプレイン東側を通ってマンガライManggaraiに達してから、トゥブッTebet〜チャワンCawang〜パサルミングPasar Minggu〜デポッDepokそしてバイテンゾルフに向かうものだった。 クレイネボームで乗降したのは貨物が圧倒的に多かった。輸出向け国内物産や他地方から船で運ばれてくる巨木の丸太などの建築資材が鉄道を使ってバタヴィア⇔バイテンゾルフ間にある駅や貨物集積場で積み込まれたり下ろされた。 1885年にタンジュンプリオッTanjung Priok港が開かれるとバタヴィア港は瞬く間に寂れて行った。バタヴィア港の歴史はこちらでどうぞ。 http://indojoho.ciao.jp/koreg/hlabuvia.html 政府系鉄道会社Staatsspoorwegen(SS)が1877年にクレイネボームからプリオッ港埠頭までの線路敷設工事を受注し、1885年11月3日には工事を完了させて埠頭の脇にタンジュンプリオッ駅をオープンさせ、列車運行の権利をもNIS社から入手した。そのときの埠頭脇の駅舎は現在のタンジュンプリオッ駅舎ではない。タンジュンプリオッとバタヴィア中央駅がつながると、バタヴィア中央⇔クレイネボーム間の線路とクレイネボーム駅は廃止された。 一方、別の民間会社であるバタヴィア東部鉄道会社Bataviasche Ooster Spoorweg Maatschappij(BOS)が現在の国鉄コタ駅の場所に駅舎を建てて南バタヴィアBatavia Zuid駅と命名した。そのためにNIS社のバタヴィア中央駅は北バタヴィアBatavia Noord駅と呼ばれるようになる。世間一般は南バタヴィア駅を、会社名のBOSにちなんでBベーOSオス、つまりBEOSと呼んだ。今でも国鉄コタ駅は通称べオスBeos駅と呼ばれている。 BOS社は南バタヴィア駅とブカシ〜カラワン方面を結ぶ路線を運行した。南バタヴィア駅から東向きにカンプンバンダンKampung Bandanまで出てからクマヨランKemayoranに向けて南下し、NIS社の線路を西に見ながら並行してパサルスネン経由ジャティヌガラ(当時はメステルコルネリス)に達すると、そこから東に向きを変えてブカシ〜カラワンを目指すルートだ。 1897年、SS社はBOS社から南バタヴィア駅とブカシ〜カラワン方面の列車運行権利を買い取った。更に1913年、SS社はNIS社のビジネスをも買い取ってしまう。鉄道事業が国有化に向かって動き出したことを象徴しているような出来事だ。 1915年、SS社は北バタヴィア駅と南バタヴィア駅の統合を決意する。南バタヴィア駅が取り壊され、1929年10月8日、現在の国鉄コタ駅建物が完成して北バタヴィア駅は廃止された。タンジュンプリオッ⇔べオスの路線は現在の姿になった。 このバタヴィア近郊域内鉄道路線はジャワ島内各地を結ぶ長距離鉄道網とのネットワークを密なものに練り上げていく一方で、バタヴィア近郊路線そのものは電化の方向へと進められていった。 SS社の鉄道電化方針は避けようのないものだった。というのも、民間会社バタヴィア電気軌道Batavia Electrische Tramwegが1899年以来、バタヴィアの路面電車を運行していたのだから。まるでアムステルダムのようにバタヴィアの街中を路面電車が走っていたことを知っている現代ジャカルタ都民は少ない。バタヴィア時代に街中をまず鉄道馬車が走り、蒸気機関が馬を駆逐した後、電車が走るようになった。この話は別の機会に譲りたい。 タンジュンプリオッ⇔メステルコルネリス区間の電化工事が完了して電車がバタヴィアを初めて走ったのは1924年12月24日。メステルコルネリスからバイテンゾルフまでの区間を電車が初めて走ったのは1930年だった。 ところが共和国成立後、電車の車両を新規に入手することができなくなり、オランダ時代の老朽車両を騙し騙し使っていたが、結局動かなくなるものが続出した。おかげで一時期はジャカルタ近郊路線を走る電車がなくなり、蒸気機関やジーゼル機関に頼るようになってしまう。 その状況を打開したのが日本製の電車だった。1976年9月1日、電車運行再開式典が催され、一般乗客向けサービスは9月2日から開始された。そのときのダイヤは、ボゴール発05.43、06,30、10.45で、ガンビル着06.47、07.30、11.49、ジャカルタコタ着07.04、07.45、12.04。逆向きのジャカルタコタ発は09.06、13.00、15.00、16.00、ボゴール着10.25、14.24、16.21、17.25となっていて、各便は4両編成で収容人数566人、途中の停車駅は全便がデポッ・マンガライ・ガンビルに停車するようになっていた。電車運行は他の蒸気やジーゼル列車の運行と入り混じって行われた。 その後、鉄道車両製造国有会社PT INKAが電車を作るようになり、しばらくの間は同社製電車がジャカルタ近郊コミュータラインを走った。それが老朽化したとき、国鉄は国産車と日本製中古車を比較検討して日本製中古車の購入に踏み切り、今現在国鉄ジャボデタベッコミュータラインは稼働全車両が日本製中古車になっているそうだ。 しかし現政権は国外への外貨流出抑制のために輸入はやめるよう国鉄を説得し、国鉄はそれを呑んだ形になっているため、現在使われている日本製中古車が使えなくなった時に何が起こるかはその時になってみなければ分からない。 コニングスプレイン東にもうひとつクラシックな建物がある。東インドフリーメーソンが1900年にYayasan Kristen Carpentier Alting Stitching (CAS)の名義で設けた全寮制の女子教育施設であり、フリーメーソンの行った社会福祉活動のひとつだったようだ。1955年にインドネシア共和国政府がフリーメーソンの活動を禁止する方針を下したためにこの施設はラデンサレ財団に移管されたが、1962年にスカルノ大統領が出した禁令によって完全廃校になった。 絵画造形美術品の展示場を求めていた教育文化省が1987年にこの建物を使い始め、1998年に中央政府がそれをナショナルギャラリーGaleri Nasional Indonesiaとして公認した。こうしてインドネシアでも百年を超えた建物が国立の美術ギャラリーとして一般に公開されている。 さて、コニングスプレインそのものは時代と共にどのように変遷して行っただろうか?何しろ1キロ四方の巨大な広場だ。さすがに牛飼いもレンガ作りも復活することはなかったが、その広大なスペースをどうしようかと植民地政庁上層部は頭をひねったにちがいあるまい。1860年ごろには、四角形の広場を対角線状に交わる近道ができていた。そのころ、この広大な草地は馬を駆ったり競馬を楽しむような使い方しかなされなかったのではあるまいか。 1861年に政府系の東インド工業農業会社Nederlandsch-Indische Maatschappij van Nijverheid en Landbouwがバタヴィアで家畜市場祭典を開催した。翌年、プリブミ教育監視官ファン・デル・チェイスvan der Chijsがその祭りにさまざまな文化的アトラクションを加えることを提案した。それに従って、観覧車を置き、ワヤン劇の上演やトペンロンゲンの歌舞、ピエロや奇術などのショーで観客を楽しませ、あるいはピナンの木登りやサックレースなどの娯楽競技で来場客を遊ばせるプログラムが用意された。 おかげで1862年9月の第二回フェスティバルは大勢のプリブミが娯楽を求めて会場を賑わした。言うまでもなく、コニングスプレイン南部の一角がその会場に使われたのである。プリブミはガンビル広場の市Pasar Gambirとその催しを呼んだ。 このパサルガンビルは年次の催し物となって毎年行われた。1887年にはオランダ国王70歳の誕生日を祝してヨーロッパ人階層は軍社交場コンコルディアで、プリブミはパサルガンビルで、盛大な祝賀式典が催された。 1904年のパサルガンビルは、従来のものから少し趣向が変わって来た。かつての家畜市から脱皮して、プリブミ産業で作られる工産品の見本市へと変化し始める。それが完全な形を取ったのは1906年だった。タングランのパナマ帽、バンテンの焼き物、バイテンゾルフの金銀細工、スカブミの木製品や木彫、インディヒヤンやシガパルナの籐や竹の編み物、チプルスのバティック、スムダンの銅加工品、タナアバンのバティック。いやバタヴィアとスンダ地方ばかりではない。ジュパラの木彫や家具からスラバヤの金属加工品、パレンバンやアチェの黄金細工に至るまで、全国規模の国産品見本市へと性質が変わって行った。 1903年にバタヴィア市Stad Bataviaはヴェルテフレーデンを併せてバタヴィア中規模市Gemeente Bataviaに昇格した。1904年にパサルガンビルの内容が変化しはじめたのは、へメンテとしての産業振興の使命感がなせるわざだったのかもしれない。 毎年パサルガンビルは百から二百の展示スタンドが作られ、メインゲートのデザインも年ごとに入れ替わって地方の建築物を模して建てられ、年を追って新たな趣向で飾られた。プリブミ社会の人気も上々で、夕方から夜にかけての涼風の中を散歩がてらコニングスプレインに集まって来ては、世の中の変化を感じ取り、また種々のアトラクションを楽しんだ。 1933年9月5日の新聞記事は1日から4日までの入場者数を報道していた。それを見るとヨーロッパ人ほぼ2万人、非プリブミ東洋人2万3千人、プリブミは約8万人で圧倒的なマジョリティを占めている。この年のパサルガンビル入場者総数は302,718人で、前年とほぼ同程度だったそうだ。 開催日数は最初一週間だったが、人気が高まるにつれて期間が長くなっていった。入場料はヨーロッパ人25セン、プリブミ10センだった。非プリブミ東洋人はまた別だったに違いない。開会日と閉会日、そして女王の誕生日には美しい花火が夜空を飾った。 会場の中ではヨーロッパ人向けにレストランが開かれたし、会場内や入口ゲートの外ではプリブミが飲食ワルンを開店して飲食品を販売した。ある年にはアイスクリームサロン「ラグサ」も会場内に出店を設けたことがある。ローカル食はブタウィ名物タンジュンドゥレンやワルンブンチッのクラットゥロールkerak telor、プタンブランのラクサlaksa、マンガライのバンドレッbandrekなどがパサルガンビルで楽しめた。 規模が大きくなったパサルガンビルは、コニングスプレイン南部の中央から西側部分で毎年行われた。東側にはスポーツ施設が作られていたため、西側を使うしかなかったわけだ。1930年の写真を見ると、パサルガンビルの北端は国立博物館の位置にあり、またクブンシリ通りからガンホレを通ってコニングスプレイン南通りに作られたメインゲートに入って行く形になっている。 日本軍の進攻でパサルガンビルは開かれなくなり、共和国完全独立後もなかなかそんな余裕がないまま、歳月が流れた。ところが面白いことに、戦後オランダ本国で東インド体験を持つ純血オランダ人や印欧混血者らが往時のパサルガンビルを懐かしみ、パサルマラムの名で小規模なフェスティバルを開いて、インドネシアの物産や食品をここぞとばかり満喫していたそうだ。 ジャカルタでのパサルガンビル再開は1968年になる。その年の6月5日から7月20日まで、アリ・サディキン都知事がムルデカ広場と名の変わった昔の場所で昔の催しを再開した。名称は英語でDjakarta Fairと名付けられた。 英語の名称は追々インドネシア語Pekan Raya Jakartaに変わっていくのだが、開催場所は1991年まで毎年ムルデカ広場で行われた。1970年代のわたしの体験では、ムルデカ広場南部にはジャカルタフェア用の施設建物が常設されていて、開催期間のおよそ一カ月間を除けばそこはひっそりして人間の姿はほとんどなく、警備員や駐車番がちらほらいるだけの場所だった。しかし会場内の映画館やレストランの中には年中営業している店もあったから、営業している場所をオフシーズンに訪れるのは、まるでゴーストタウン内の店を訪れている雰囲気だったことを記憶している。 1992年から会場はクマヨラン空港の跡地に設けられたジャカルタインターナショナルエクスポに移転したため、いきなり交通の便が悪化して来場者が激減した。わたしも新会場を何度か訪れているが、初めて行ったときの印象では、規模が数倍に膨れ上がり、その一方で来場者が大幅に減っていたために、人混みを免れ得る状況をむしろ喜んだものだ。 クマヨランでもカキリマ商人のブタウィ名物クラットゥロールは人気の食品で、最近では数十人が同じブロックで店開きしているという話を聞いている。パサルガンビル時代にコニングスプレインまで商売に来たワルンブンチッのカキリマ商人たちの子孫が最近のクマヨランでのフェアに店を開いているという話であり、パサルガンビルは一家代々相続される商権になってしまったようだ。 1892年にボゴール植物園長メルヒオル・トロイブMelchior Treubはコニングスプレインの公園構想を表明した。対角線状に交わる道の交差点にモニュメントを建て、その周辺を噴水や花壇で飾り、音楽堂やダンスホールそして店舗などを設けて市民(プリブミは市民の概念の外だった)の憩いの場にするというアイデアだったが、行政の取り上げるところにはならなかった。 1905年にはガンビル駅近くにバタヴィアバイテンゾルフ競馬ソサエティBatavia Buitenzorg Wedloop Societeitが競馬場raceveldを設けた。 19世紀終わりごろにコニングスプレイン宮殿と道路をはさんで対面の場所に電信電話局が移って来た。電信電話局は規模が拡大して何度か建て直され、場所もその都度移動したような印象がある。最終的に電信電話局建物はスカルノが独立記念塔を建てたとき解体されて、ムルデカ広場南側の南ムルデカ通り12番地に移された。現在そこは国有会社テルコムインドネシアのガンビル地区電話自動交換センターになっている。 1913年にデカパルクDecaparkの建設が開始されて、1915年にオープンした。ヤファホテルと道路をはさんで対面する位置だ。この公園はデ・カロネJules Francois de Calonneが興した民間会社Deca NVが経営する商業パークであり、バタヴィア市庁の認可を得て運営された。デカパルクのデカDecaとはデ・カロネの名前から取られたものである。 6千平米の広さを構えた一種のレクリエーションパークであるこの公園内には音楽・演劇・スポーツ・レストラン・カフェなどの施設が設けられた。映画館、オープンシアター、楽隊演奏スタンド、テニスコート、サッカー場、ローラースケートサーキット、自転車サーキット、子供の遊び場、噴水付きの池、集会所などがその内容だ。プリブミも障害を与えられることなく利用できた。 サッカー場はバタヴィアのオランダ人サッカーチーム「ヘルクレス」Herculesのホームグランドであり、各地の代表チームとの対戦が行われた。またボクシングやレスリングの競技が世界各地のプレーヤーを招いて行われ、格闘技好きの観客を熱中させていた。 最初は劇場が作られたが、後に映画館に変えられた。この映画館はオランダ人エリート層向けのもので、オランダ語字幕のハリウッド映画が上映された。公園内では毎週音楽隊が演奏を行い、ヴィルヘルミナパルクで軍楽隊が月一回行う演奏会の向こうを張った。 デ・カロネはメステルコルネリスで生まれ、実業家時代にはバタヴィアとオランダをまたにかけて手広いビジネスを行った。だが1920年代半ばに破産宣告を受けて滞納税金の重圧にひしがれた時期もある。 デカパルクからデ・カロネが手を引いても、デカパルクは別の民間経営者がそのままの名前で事業を引き継いだようだ。この公園は共和国独立後もスプラッマン公園Taman R.W. Supratmanと名前を変えただけで生き残り、スカルノ大統領の独立記念塔建設プロジェクトによってついにその姿を消した。 デ・カロネは1930年9月にその生涯を閉じた。47歳だったかれはそのとき、かれと妻、そして弟と友人の四人でブバンBoebangに向かって車を走らせていた。そして、チカンペッの8キロ手前で自動車事故にあい、プルワカルタの病院に運ばれたが、手当の甲斐なく死去した。その車に乗っていた三人の男性はブバンで開かれるクリケットの試合にバタヴィアスポーツクラブBataviasche Sports Clubのメンバーとして出場するためだったそうだ。 コニングスプレインに作られた公園はそれだけではない。 1920年代にヴェルテフレーデン鉄道駅寄りの場所にフロンベーフパルクFrombergparkが作られた。フロンベーフパルクの南側には1905年に作られた競馬場に加えて、1936年にバタヴィアスポーツクラブがサッカーコートやテニスコートを何面も作って運営し、同じ時期に自転車レース場も設けられた。 コニングスプレインのもっと中央寄りの位置にはフォンデルパルク Vondelparkが作られた。オランダの著名文学者ヨース・ファン・デン・フォンデルJoost van den Vondelの名前にちなんで命名されている。フォンデルパルクの西側には1930年にヘルバッパルクHelbachparkが作られた。 1921年になって、国立博物館の北側にあるムセウム通りが突き当たって来るコニングスプレイン西通りの広場側に、ホテルコニングスプレインHotel Koningspleinがオープンした。鉄道会社SSが設けたこのホテルは木造で非恒久性の構造になっており、バタヴィア市庁が恒久的建造物の建設を承認しなかったことを推測させている。 ヴェルテフレーデン駅までやって来るひとびとの中にいる、経済的な宿泊を求める階層のためにSSはこのホテルを設けたようだ。駅の周辺は公園やスポーツ施設で埋まっていたのだから、距離の離れたコニングスプレインの西の端に建てるしかなかったのだろう。 1936年に発足したバタヴィア警察本部は最初レイスヴェイクに拠点を置いたが、後にホテルコニングスプレイン跡地に移転した。共和国が独立した後もプリブミの組織になったジャカルタ警察がその本部を使い続け、スカルノの独立記念塔建設プロジェクトのためにスナヤン東側角地に移転して現在に至っている。 ジャカルタ首都警察の歴史はこちらでどうぞ。 「ジャカルタ首都警察(全5回)」(2020年03月30日〜4月3日) http://indojoho.ciao.jp/2020/0330_1.htm http://indojoho.ciao.jp/2020/0331_1.htm http://indojoho.ciao.jp/2020/0401_1.htm http://indojoho.ciao.jp/2020/0402_1.htm http://indojoho.ciao.jp/2020/0403_1.htm 1934年にバタヴィア市庁はコニングスプレインの中央に市庁舎を設けることを計画した。市庁舎と総督宮殿を結んで儀典道路を作り、その両側に政府機関を並べるというアイデアだ。1937年にはその計画が変更され、儀典道路両側に政府機関を並べる案は取り下げられて、代わって鉄道駅を北に移動させて広場の東南部にスポーツスタジアムを作る案が登場した。 1937年にトーマス・カーステンはコニングスプレインの新しい区画割りを提案した。これは広場をいくつかのゾーンに分けて住民の都市生活のための諸機能を効率的且つ審美的に分配するコンセプトに基づいたもので、広場の中心点は存在せず、種々の施設建物が広場を満たす形になっていた。 しかし戦雲急を告げる時代の状況がカーステンの構想をバタヴィア市庁に着手させる暇を与えなかった。カーステンの構想は永遠にその実現の機会が失われたのである。だが現実に、そうでなくともコニングスプレインの姿は統制のないままに種々の施設建物で満たされてはいたのだが。 1942年に日本軍政はオランダ語全廃方針に従ってコニングスプレインの名称をイカダ広場Lapangan IKADAに変えた。イカダとはジャカルタ運動競技同盟Ikatan Atletik Djakartaの短縮語で、コニングスプレインに運動競技施設が満ち溢れていたことからその名が選ばれたようだ。 十数個のサッカーコートやテニスコートがあり、毎週土日にはサッカートーナメントが行われ、ホッケー場も二カ所あってインド系のジャカルタ市民がプレイしていた。競馬場で馬を駆ることも依然として行われていたから、軍国調の空気の下で庶民が身体を鍛えたり馬を扱うことは日本軍政にとってお誂え向きの行動であったために軍政部はその機能を尊重したし、またこの広場を軍事教練の場にも使った。日本軍政が多数の住民を集めて大集会を開くとき、イカダ広場は何度も使用されている。 インドネシア共和国独立宣言が1945年8月17日にスカルノの私邸で行われた。最初それはイカダ広場で行われることになっていたのだが、日本軍が治安維持を名目にイカダ広場を包囲したため急遽、場所が変更された。情報が徹底しなかったために多くのプリブミ政界要人のスカルノ私邸到着が遅れ、歴史的な場面に立ち会えなかったことを悔やんだという話になっている。だが一般民衆はスカルノ私邸の周辺一帯を人間の海で埋めた。 ところが、インドネシア共和国大統領は独立を宣言したにもかかわらず、いつまでも居座っている日本軍人を追い払って行政センターである旧蘭印総督官邸に乗り込もうとしない。他の諸政府機関も同様で、敗軍の日本人を追い出してそれに変わろうという気配を示さない。血気に燃える独立派青年層のイライラが募って行く。 独立を宣言したのだから、今やインドネシア共和国領土となったこの地をインドネシア民族が思いのままに取り扱うのが本筋である。日本軍を武装解除し、インドネシアの主要施設から追い払い、プリブミがそのすべてをわが手に握るのだ。抵抗する日本人は皆殺しだ。これは革命なのだ。 青年層はスカルノ、ハッタ、その他の共和国政府重鎮たちを立ち上がらそうと策をめぐらした。そのためには民衆を煽って政府中枢に国民の希望を知ろ示し、スカルノとハッタをその気にさせて国民に革命行動を命じさせるのがよい。共和国政府は国民の希望を踏まえて動くのが筋道ではないか。 青年層は1945年9月19日にイカダ広場で政府中枢に民族の希望をデモンストレートし、「国民よ、武器を取れ。」の言葉をスカルノに言わせようと画策した。これがインドネシア史に名高いイカダ広場大会議Rapat Raksasa Lapangan IKADAの背景だ。 その日未明に、ジャカルタ近郊のジャボデタベッやらもっと離れたカラワン・チアミス・タシッマラヤ・チバルサ・スカブミ・バンドンなど西ジャワの各地に至るまで、町や村の住民が続々とイカダ広場目指して動き始めた。各地の独立守護の使命に燃える集団は隊伍を組み、あるいは個人個人が自分の意志で、ジャカルタ中心部を目指したのである。鉄道はひとでいっぱいになり、あるいは乗り物が総動員され、また徒歩でジャカルタへ向かう人間の波が街道に満ちた。 日本軍政はこのときも治安維持を名目にして、イカダ広場を重武装の部隊で包囲していた。これを放置すれば、インドネシア占領日本軍が連合国から命じられているインドネシアの治安維持と現状凍結に対する違反行為になるのだから。 既に夕方になったイカダ広場東通りに3台の乗用車が到着した。時計は16時15分を指している。スカルノ、ハッタ、そして上級大臣たちが車から降り、徒歩で広場に設けられた演説台に向かう。広場を埋め尽くしている群衆の間から、歓呼の声が上がる。「Hidup Bung Karno! Hidup Bung Hatta! Merdeka!!」 革命を目指す青年層は既に各地の同志にその意を通じさせていたものの、動員された群衆の間から取り立てて闘志や戦意は匂って来ない。群衆は穏やかにスカルノの命令を待っているのだ。 スカルノは25万から30万人が集まったと言われているこの大集会で史上最短のスピーチを行った。「みなさん、落ち着いて帰路に着きなさい。秩序と整然さを維持して、今すぐこの場を立ち去りなさい。各自は自分の持ち場に帰って、リーダーからの指示を待つのです。今は解散するのです。皆さん、静粛に帰路に着きましょう。」 そして自分も演説台から降りると、徒歩で自動車に向かった。大勢の群衆がスカルノを取り巻いて、一緒に徒歩でかれを送って行った。 インドネシアの独立を確定させるのは、戻って来たオランダ植民地主義者たちとの血みどろの戦いを通して実現させるしかないのだ。それ以前に日本軍と血で血を洗う闘争を行えば、オランダとの戦いに振り向けられなければならない民族の戦力が低下してしまう。その本質を見抜いてあくまでも日本軍との戦いを避けようとしたスカルノの意志は、実に見事と言うしかないだろう。 戦後処理のために進駐してきたAFNEI軍並びに、日本軍進攻前の状態に戻った蘭領東インドをAFNEI軍から引き継いで植民地を維持しようとするNICAとの間の血みどろの闘争がおよそ4年間継続し、その間にジャカルタは名称こそ維持されたものの旧オランダ植民地体制に戻された。オランダ人はコニングスプレインの名前を復活させただろうが、プリブミはかつてのガンビル広場の名前をイカダ広場に変えて使い続けた。 1949年のインドネシア共和国主権承認を経て、イカダ広場はプリブミの手に戻された。だがイカダ広場のスポーツ施設にはまだまだオランダ人を含むヨーロッパ人の姿が見られた。競馬場は依然として残されていたから、そこにイカダスタジアムが建設されるまで、白人の乗馬姿は普通のものだったそうだ。 1951年、共和国政府はPON(国民体育週間)の催しを開始した。これは日本の国民体育大会のようなもので、全国各州の代表選手がジャカルタに集まって競技した。その第2回大会が1951年に開かれるとき、国鉄ガンビル駅の南側で広場の東南部の区画にスタジアムが建設され、イカダスタジアムStadion IKADAと呼ばれた。このスタジアム建設は93日間で完了したそうだ。1963年にアジア大会のためスナヤンにスポーツコンプレックスができるまで、イカダスタジアムはジャカルタの運動競技のメッカになっていた。 インドネシア共和国主権承認の効果が徐々に民衆の間に浸透していき、イカダ広場はムルデカ広場Medan Merdekaの名前で呼ばれるようになっていく。 1954年、スカルノは独立国家のための記念碑建設構想をまとめ始めた。建設場所はもちろんインドネシア最大の都市公園、1キロ四方のムルデカ広場の中央だ。そこを独立インドネシアのシンボルとするために、ムルデカ広場を埋めているデカパルクなどの公園と諸施設、ジャカルタ市警本部、電信電話局、DKI情報局、プレスクラブ、郵便局分局、IKADAスタジアム、屋内体育館、サッカーコート、テニスコートなどを一掃しなければならない。ムルデカ広場は民衆のための公園にし、また同時に大統領宮殿表の儀典プラザの役割を持たせるのである。 儀典プラザの中央に、共和国独立を象徴する巨大なモニュメントを屹立させるのだ。ジャカルタのどの建物よりも高く、またチャンデイボロブドゥルよりも高いもの、パリのエッフェル塔よりも巨大なものを。 1956年にデザインが一般公募されたが、スカルノの気に入るものはなかった。1960年に公募が繰り返されたものの、スカルノの首を縦に振らせるものはない。結局、建築工学技士であるスカルノが描いたスケッチを精鋭建築家に手直しさせる方法で、最終的に建築家スダルソノの作品が最優秀賞を得た。 それは高さ132メートルの塔の頂上に高さ14メートル、径5メートル、重さ14.5トンの銅製の炎を戴くシンプルなデザインのものだった。炎のオブジェは黄金35キログラムでメッキされた。 1940年代後半のNICAとの独立闘争期に、共和国政府は身の危険を感じてヨグヤカルタに移っていた。ジャカルタがNICAに奪われたのだから、ヨグヤを首都にせざるを得ない。そして共和国主権承認のあと、政府はヨグヤからジャカルタに戻って来た。 高官から一般公務員に至るたくさんの政府関係者がジャカルタに戻り、住居が必要になった。加えて地方部で反乱や不穏な情勢が続いたことから、地方部住民が治安のよいジャカルタへ移住する傾向が高まり、ジャカルタに人間があふれるようになる。コタ地区の運河が埋め立てられて住居が建てられたり、更にはムルデカ広場にまで不法居住者が増加した。ジャカルタの人口推移を見てみると、1948年180万人、1962年310万人、1970年420万人となっている。 独立記念塔(最初はTugu Nasional、後にMonumen Nasional 通称モナスMONASと呼ばれる)の建設工事を前にして、アリ・サディキン都知事がムルデカ広場のすべての施設と不法居住者を鋼鉄の腕で一掃した。もちろん鉄道駅と線路だけは残して。独立記念塔の杭打ち工事は1961年8月17日に開始され、1964年8月16日に竣工式典が行われた。一般公開は1975年7月12日から開始された。 スカルノのムルデカ広場整備構想はメルヒオル・トロイブのコンセプトと同じものだった。1キロ四方の四隅に対角線を引き、中央の交点にモニュメントを建てる計画はそっくりそのままだ。トロイブのコンセプトでは小さいモニュメントだったが、スカルノはそれを一変させた。確かに歴史の過去において、ムルデカ広場に垂直方向に長い建造物はいまだかつて存在したことがなかったのだ。 X字形の広場内道路はJl Silang Monasと呼ばれた。広場内はその道路によって三角形をなす東西南北の四区画に分けられた。各区画の公園化が開始される。ただし、南区画だけは完全な公園にされず、ジャカルタフェアのための建築物や商業施設、オフィスなどが建てられた。ジャカルタフェアはその場所で1968年から1992年まで毎年開催された。 また南西角はアミューズメントパークTaman Ria Jakartaが設けられて、その中には遊戯施設はもちろんのこと、展示会場やレストラン、またナイトクラブも置かれた。 他の三区画の公園化は1973年1月に植樹からスタートした。最初に西区画が完成して、1974年6月10日に1.9万平米のプラザと池や噴水、花壇脇の緑陰にベンチという公園が市民に開放された。追々、他の区画も公園化が完了して市民に開放されて行った。 残された南区画も、1992年にジャカルタフェアがクマヨラン会場に移され、一部の建造物と駐車場以外は撤去されて公園になる。残されたIRTI(Ikatan Restoran dan Taman Indonesia)駐車場だけが、一般来園者が利用できる駐車場だ。 現在このモナス公園Taman Monasの北区画は大統領宮殿に直接対面する場所であるため、もっとも格調高い雰囲気を醸し出している。イタリア人彫刻家の制作した馬上のディポヌゴロDiponegoro像、近代インドネシア文学を象徴する奇才の詩人ハイリル・アンワルの胸像などが置かれ、モナスの塔に入って行く地下道の入口もこのエリアにある。 西側区画は音楽に合わせて踊る噴水が作られ、豊かな緑陰の中に憩いを求めるひとびとに愛好される場所になっている。このエリアには、共和国の儀典道路にその名を残した植民地時代末期のプリブミ政治家タムリンMohammad Husni Thamrinの胸像が置かれている。 南側区画には、イカダ広場大会議の会場となったことを記念する碑が建てられ、全国33州をそれぞれ代表する樹が植えられ、IRTI駐車場があり、土産物店や飲食店が設けられている。 東側区画は国鉄ガンビル駅を擁するエリアであり、繁華な交通の流れを間近にひかえて喧噪の中に一幅の安らぎをもたらす場所になっている。かつてディポヌゴロ通りのスロパティ公園前に置かれていた日本政府寄贈のカルティニ像が、ディポヌゴロ像に場を譲ってこちらに移されている。 スカルノ大統領の時代、国家儀典プラザの役割を与えられたムルデカ広場では、毎年行われる独立記念式典でスカルノが行う大統領スピーチを聞くために無数の大衆が集まって来てスカルノの熱弁に一喜一憂し、湧き立った。 スカルノをはじめとする建国の父たちが作った共和国の表看板であるジャカルタのグランドデザインが、いまだにその基本構造をなしていると言えるに違いあるまい。巨大なイスティクラルモスクの丸屋根と稠密な都市の中央に残された広大なスペースの真ん中で天に向かってそびえ立っている独立記念塔が、上空から鳥瞰したときの目立つランドマークとなったはずだ。 ジャカルタを空路出入りするひとびとが航空機内から地上を眺めた時、ジャカルタという街の印象をそこに凝縮して体験することになる可能性は想像に余りある。建国の父たちの時代に空路ジャカルタを出入りするひとびとはクマヨラン空港を、そして後にはハリムプルダナクスマ空港を通っていた。かれらが設けたランドマークは十分にその効果を発揮したにちがいあるまい。スカルノハッタ空港を出入りしている現在のわれわれには、その天上的な体験を持てないのが残念なことである。 2020年5〜6月 |