「中華イスラム」


東南アジア海洋部にイスラム教が伝わって来たのは13〜14世紀ごろとされている。インド洋西部から海上を移動してくれば、最初に出会う上陸地点はスマトラ島北海岸部だ。サムドラパサイ、プルラッ、ラムリなどの港湾都市王国がヌサンタラで一番最初にイスラム化したというのがインドネシア歴史学界の定説になっている。
あれっ、スマトラ島北西端はアチェだが、どうしてアチェでなかったのだろうか?そんな質問を発するひとはアナクロニズムに陥っているのだ。アチェの歴史を読めばその理由がすぐに判るだろう。歴史の中に起こった流れは歴史を知ることでその合理性を認識できる。歴史の流れを地理の知識で眺めようとするかぎり、歴史の合理性に迫ることはできるまい。歴史の合理性を理解することによって、われわれは人間というものを知悉できるようになる。地理の知識をどれほど深めようとも、人間というものへの理解は容易に得られないだろうとわたしは思う。
15世紀ごろには、バタッ地方山岳部を除くスマトラ島北部からマラカ海峡沿岸部全域、そしてマラヤ半島でも東西の海岸部がイスラム化した。そのころには、ジャワ島中部東部の北海岸部に位置するドゥマッ・グルシッ・スラバヤそしてチルボンでもイスラム化が起こった。
そこまで来れば、あとはイスラム化した王権が既存のヒンドゥ=ブッダ世界を征服する動きに伴われてイスラム布教が進展して行くことになる。カリマンタン沿岸部、スラウェシ沿岸部、マルクの島々へのイスラム教の浸透は時間の問題になった。

マルク地方へのイスラム渡来は少し状況が違い、スパイスのおかげでイスラム商船は早い時期からマルクの島々にやってきていた。ジャワ島にできたイスラム王権にとっても、スパイスは王国?栄のための重要な商業物資だった。マルクの覇権を握って直接支配するのが物理的に困難であっても、イスラム同盟を築けば商戦で有利なポジションに立てるとかれらが考えなかったはずがあるまい。インドやアラブ・ペルシャのイスラム商船では考えもつかなかったイスラム化の戦略がジャワから行われた可能性は否定できないように思われる。
16世紀ごろになってイスラム化したマルクがヌサンタラ東部地方にイスラム化の波を起こした。テルナーテとティドーレの覇権拡大に伴われて周辺諸地域にイスラム化が広がっていったのである。面白い現象は、スラウェシ島東海岸部へのイスラム浸透がマルクからの覇権拡大によってなされたことだろう。スラウェシ島東岸部へのジャワからの布教は二次的なものだったと見られている。


イスラム化という言葉が本論で使われている。この言葉はムスリム民衆の生活共同体としてのウンマー(イスラム社会)の設立を意図している。ヌサンタラへのイスラムの伝来はまずアラブ・ペルシャ・インド西部のイスラム教徒がヌサンタラの諸港にやってきて、新しい思想としてのイスラム教を地元民の有志に教えるパターンで始まった。学習者の中に市井の人間もいれば学者もおり、あるいは王族がその者を師として王宮に迎え、自らその弟子になることも起こった。イスラム教義に詳しい優れたムスリムが住み着いた港市には遠方からもイスラムを深めたいひとびとが集まって来て学窓の態をなした。
市井の人間はほとんどが自分の生き方の改善にそれを応用したのだろう。そのことに自己の精神的救済と呼ぶ言い方を与えてもかまわないかもしれない。学者の中には、その新思想をよりたくさんの同胞に教えようとして布教の行脚の旅に出る者もあった。王族の中には王位を継いだあとで、国王として王宮内から領民にまでイスラムに従って生きろと呼びかけた者もあった。

ともあれ、外国からムスリムがやってきて個人的にイスラム教を広めたその段階をイスラム化と呼ぶことはできない。まだウンマーの形になっていないのだから。
ウンマーができるためには、政治パワーが不可欠だった。思想としてイスラム化した王、または領主は、人間のより良き生き方を自国自領内で実現させようとし、イスラム社会の建設をもくろんだ。そこに生じたドライブがイスラム化、すなわりウンマー設立の駆動力になった。ウンマーを設立するためには、既存のヒンドゥ=ブッダ社会を変容させなければならないのだ。それがイスラム化という言葉の意味する内容だ。


日本の歴史を見るなら、織田信長の時代にはまだ日本に存在していた宗教ベースの民衆生活共同体が封建構造の完成を目指す武士階級によって地上から抹殺され、宗教は個人の精神的救済だけのためのものにされて社会を律する基準としての機能を削り取られてしまった。その価値観が日本文化に深くしみ込んだ結果、その種の新興宗教が連綿と生まれ続けたにも関わらず、それらは日本の社会から排斥される運命をたどったようにわたしは感じている。これほど巧みな洗脳が行われた例がほかにあっただろうか?

現在その種の宗教のひとつが力をつけて、何十年にも渡って日本国内に存立し続けている事実があるにはあるものの、その宗教生活共同体の構成員が一般的な市民共同体に属していないということは社会生活の中であまり顕著に示されず、何かがあって「あの家はその宗派だ」ということが暴露されると周辺社会から感情的な排斥を受けて、社会交際上で浮き上がってしまうような様相になっている印象をわたしは抱いている。
そういう日本文化の心理面における特異な宗教感情、あるいは宗教理解の功罪を語るほどのパースペクティブをわたしは持っていないが、日本文化が宗教離れしていることを明治維新の開国時に知った欧米人がその特異さを取り上げて絶賛した論説はたっぷり残されている。自分たちが目指している姿が日本の社会に既に実現されていることにかれら欧米人は驚ろいたようで、ひょっとしたらその辺りからニッポン先進国説が欧米に根を張りはじめたのかもしれない。


イスラム教徒の個々人にとっては、ウンマーの中で生きることがイスラム教徒の暮らしを確立・完成させることになる。日々の暮らしで禁じられている、たとえば飲酒や豚食などは、ウンマーからそれらの物品が完全に排除されるために個々のムスリムは禁を犯す可能性がゼロになり、良き信徒として生きることができるのだ。
日々の行動規範である礼拝も、「今それを行う時間が来たぞ」と社会に告知される仕組みが作られていて、個々のムスリムはセルフコントロールなどなしに宗教の決まりを実践することができる。人間の一生の中に起こる通過儀礼や宗教上の祝祭、その他もろもろの宗教行為が、たとえ本人が自主的にその内容や意義を正しく詳しく知っていなくとも、周囲の世間がそれを導いてくれるために恥ずかしくないあり方でその形を示すことができるのである。

日本で生活しているイスラム教徒のように、ウンマーから切り離された場で暮らしているムスリムにとって、イスラム法への完全服従、イスラム生活規範の完全遂行がどれほど困難なものになるかは想像にあまりあるだろう。
日本人の多くが勘違いしているのは、日本のコンセプトに従うと宗教は個人救済のためのものになっているがために、特定宗教信徒になるということはその宗教の指導者や宗教師のような深い知識と理解を持って自己を律しているのが当然だと考えている点にあるようにわたしには見える。そうでない宗教信徒を見つけたときにかれらが示す軽蔑視がわたしの見解の根拠だ。
その観点がいかに現実から遠いものであるかは、日本語Q&Aに出てくるさまざまな質問が如実に示している。一日5回の礼拝でムスリムは自己を神と対峙させているのだと日本人は考える。ところが毎日礼拝している篤信のムスリムに言わせれば、そんな高度な精神活動を行うムスリムは十人に一人二人あるかないかであり、たいていのムスリムは習慣として行っているだけで、習慣を破ると気持ち悪いから毎日決められたことをしているだけだと答える。神に対峙するのでなく、自分がムスリムであることをリマインドさせるのが日々の礼拝の機能のようだ。


イスラムは人間ひとりひとりの精神的救済を究極的な目標に置いてはいても、個人生活の中でそれを個別に行うのでなく、社会生活を営む人間としてそれを行うことが原理にされていた。個人主義が利己主義と同義語になっていた時代のコンセプトだ。
だからイスラム者はウンマーという形の生活共同体の中で円滑で調和のとれた社会生活を営むことが第一優先項目にされ、イスラムはその社会生活における枠組みとして機能した。ウンマーは1千数百年にわたって連綿と維持されて今日に至っている。
個人の精神的救済のために神と対峙する局面はウンマーにおける普通の人間としての社会生活のずっと先にあるものなのだ。ウンマーが構成員に与えている生活様式はその先の局面に向かう足場でしかなく、その先に向かうか向かわないかは個々人の資質と能力の問題であって、向かわないウンマー構成員が圧倒的に多いという人間の本性をわれわれはそこで再認識することになる。

世界中のどの文化であれ、その社会構成員の全員が博士・教授や哲学者のような人間ばかりになっているはずがない。そんなしかつめらしい頭脳と精神の活動を行わない、太平楽で能天気な人間が圧倒的な多数を占めているのが社会というものではないのだろうか?
社会の基盤は家庭であり、夫婦と子供が核をなす家庭が寄り集まって社会を作る。そのために社会構成員=家庭構成員という図式ができあがる。これは世界中どこの社会でも同じ原理になっている。
ウンマーの構成員は全員がムスリムだ。社会構成員の全員がムスリムであるためには家庭構成員の全員がムスリムでなければならない。必然的に生まれた子供はムスリムとして育てられる。イスラム教は選択されるものではないという本質がそこから見えてくるだろう。異教徒にとっては選択肢になるが、それは本質論ではないのである。
ただし、ムスリムの家庭に生まれなかった大多数の日本人にとっては、選択されるものであり続ける。その非普遍的な立場から世界のイスラムを眺めて、かれら世界中のムスリムはどうしてイスラム教を選択したのかという疑問を発するほど無知な思考法はないだろうとわたしはかねがね思っている。


イスラム化とはウンマーの設立であると上に書いた。異教徒だった王国の支配者、つまり王家や王宮のひとびとがイスラムに入信することがイスラム化なのではない。王家や王宮のひとびとがムスリムになると、その領土の民衆は放っておいてもムスリムになるのだろうか?たとえどこかの地方でそんなことが起こったとしても、世界中の人間がそこまで服従心旺盛に生きているとは思えない。このケースでも、日本人の思考方法が特異なものである気配をわたしは感じるのである。お上への服従と横並び同調社会という大衆の精神性がそれだ。
少なくともインドネシアでは、たとえ支配者がどんなライフスタイルを実践しようが、その下にいる民衆が自分からそれに見倣おうとするケースは、支配者に取り入ろうとする連中を別にして、稀なように思われる。だから支配者は民衆に「ああしろ、こうしろ」と働きかけることになる。暴力の威嚇も当然使われるだろうが、領民を殺したり逃散させては領地の繁栄が困難になる。労働力が多いほど領地が富むのだから。

ムスリムになった領主なら、領民をイスラム化させるはずだ。というのも、イスラムは人間のより良い生き方を教える、その時代の新思想だったのである。領主が指導して領民の間にウンマーを作らせ、領民社会にウンマーが拡大してそのウンマーが領民のすべてを呑みこんだとき、イスラム化が完成するのである。
そのためには利をちらつかせ、ムスリムへの減税、ムスリムの役人登用、生活上の利便等々のムスリム優遇政策を施し、反対にヒンドゥ=ブッダ信徒には苦難をたくさん与えるようにする。たとえ父親が頑ななヒンドゥ教徒であっても、その息子に代替わりすれば息子は自分の家庭がより良い暮らしを営めるようにしようと考えるだろう。王宮がそんな政策を領民に出すことによって、ニ〜三世代が経過すれば領地のイスラム化は完成するはずだ。「剣かコーランか」などという勇ましくても破滅的な観念とは無縁なのである。


イスラム化=地方領主のイスラム化という的外れなイメージでそれを捉えるひとたちは、イスラモフォビアで頭の中を洗われることになるかもしれない。次のステップが領主から領民への「剣かコーランか」という形になることを想像してしまうからだ。
イスラム伝来初期にヌサンタラ各地の王国で、ある王の代にイスラムが奉じられたが、次の王はふたたびヒンドゥ教に戻ったという例がいくつも見られるのである。イスラム化というものがあくまでも社会を対象にしていて、個人の信仰を意味しているのではないということがそこに示されているではないか。
ウンマー設立は領主からの行政統治という上からの牽引と、民衆の中に出現したイスラム布教者による内部からの駆動力が相和して実現させたものだ。そのふたつのベクトルが協調的に作用しなければ、地域全体を覆うウンマーの設立という現在の姿の実現は困難になったにちがいあるまい。
だからこそ、一般的なインドネシア人ムスリムのイスラム教に関するイメージは平和で寛容な、ひとに優しい宗教になっているのである。言うまでもなくインドネシアでイスラモフォビア宣伝など行われ得ないのだから、非イスラム国で行われているイスラモフォビア宣伝のために「イスラム」という言葉を耳にするだけで背筋に悪寒が走る人間がインドネシアに存在しないのも当たり前と言えば当たり前のことではあるのだが。

ヌサンタラのイスラム史で宗教拡大に顕著な役割を果たしたのがスマトラのアチェとジャワのドゥマッを中心とするイスラム同盟国家群だった。ジャワ島に最初のウンマーがひとつの地域を覆う形で成立したのがドゥマッではなかったかと思われる。その意味で、ドゥマッという国の成立がジャワ人にとってイスラムの開祖と見なされてもおかしくないのではあるまいか。ドゥマッの大モスクというのは、ジャワ人ムスリムにとって特別の意味を持っているはずだ。
16世紀初期のドゥマッの様子をわれわれはトメ・ピレスの著作スマオリエンタルから窺い知ることができる。1512年から1515年にかけて書かれたその著作によれば、海岸の町ドゥマッにはおよそ1万の戸数があり、住民が生産した米がマラカに輸出されていた。ドゥマッの町が政治・経済・宗教のセンターになっていて、その当時は在位1504〜1546年のスルタン トレンゴノが統治していた。イスラムの威勢を誇示しようとして、ジャワ島のイスラム社会の発祥地となったドゥマッの大モスクをスルタンが拡張した。
沿岸部の湿地帯の崩れやすい土地にできたドゥマッの町に15世紀はじめごろ、ラデン パタが領主として任じられた。ドゥマッ地方はモジョパヒッ王国の領地のひとつであり、王族を各領地の領主に任じるのがモジョパヒッの統治方針だった。だからモジョパヒッの大王になった者はたいていいくつかの地方領主を経験している。ラデン パタはムスリムだった。ラデン パタという人物についても諸説ある。

父親は1447〜1451年にモジョパヒッの大王を務めたブラウィジャヤ5世、別名スリ プラブ クルタジャヤであり、ラデンパタはその王子だと言う。しかしトメ・ピレスはドゥマッ王国の開祖をグルシッの賎民階層出自のパテ・ロディンだとスマオリエンタルに書いている。
その賎民階層ということの内容をアグス・スニョトは「アトラスワリソ~ゴ」の中でこう解説している。16世紀初期のジャワ島の社会構造の中で、プリブミは高貴な出自とされていた。一方、外の土地から流れてきた非プリブミは召使のような賎民階層と位置付けられた。モジョパヒッ王国の民衆社会構造はヒンドゥ教に従ったカースト制度で成り立っていたが、外から流れてきた非ヒンドゥ教徒はスードラより下のCandalaにも入らないMlecchaとされていた。
ラデン パタは同じ父アルヤ ダマルの異母兄に育てられた。アルヤ ダマルはパレンバンの支配者で、そのころはジャワヒンドゥ教徒だった。成人してからパタはジャワに渡り、スラバヤのプサントレン「アンペルデンタ」でラデン ラッマッ通称スナン アンペルに師事した。スナン アンペルはジャワ島でイスラム布教に大きく貢献した9人の聖者ワリソ~ゴのひとりだ。
ワリソ~ゴはスナン アンペルのほかにスナン グルシッ、スナン ボナン、スナン ドラジャッ、スナン クドゥス、スナン ギリ、スナン カリジャガ、スナン ムリア、スナン グヌンジャティがその栄誉ある聖者たちとしてイスラム社会で尊敬されている。
ラデン パタはスナン アンペルからイスラムの奥義を授けられ、さらに娘のデウィ・ムルトシマを妻に得た。ドゥマッにイスラム王国を築くことはスナン アンペルの指示だったと言われている。ドゥマッのスルタン位に就いたとき、ラデン パタはセノパティ ジンブン ニンラッ ~ガブドゥラッマン パヌンバハン パレンバン サイディン パナタガマという称号を名乗った。

ジャワ島にはじめてウンマーができたとき、ムスリムたちは宗教シンボルとしての壮大なモスクの建設を望んだ。現存するドゥマッの大モスクがそれだ。そのモスクの建設にあたって、ワリソ~ゴが中心的役割を果たしたと言われている。

建物のデザインはアラブの模倣でなく、ジャワ風建築様式で作られた。三層の屋根はムスリムの宗教心の深化を表すiman-islam-ihsanを象徴している。モスク内部の4本の大黒柱は建物の枠組み全体を支えるために丸太が使われた。そして表ベランダの屋根を6本の柱が支えている。
礼拝指揮者であるイマムが立つミフラブの上にはSurya Majapahitのアイコンが掲げられている。スルヨモジョパヒッというのは中央の円を囲んで周囲に8角星が芒を伸ばしている図柄だ。ヒンドゥ教のコンセプトでは、スルヨモジョパヒッは9神を示すものとされている。北のウィスヌ、北東のイスワラ、東のサンブ、南東のマヘスワラ、南のブラッマ、南西のルドラ、西のマハデワ、北西のチャンカラ、そして中心部のシワである。

ジャワの民衆がイスラム聖者をどうして9人にしたのかということについて、スルヨモジョパヒッとの関連性を物語る説がある。かつてナフダトゥルウラマ中央執行部副事務局長が興味深い話をコンパス紙記者に語った。ヌサンタラにおけるイスラム布教とイスラム化は、既存の社会制度や文化的仕組みを破壊する形で行われたのではなかったのだ、と言うのである。
ワリソ~ゴは民衆社会に根を下ろしていた9神への畏敬が形を変えたものだと副事務局長は解説した。ヒンドゥ=ブッダ文化で組み立てられていた大衆生活共同体を解体するのでなく、過去から培われていた社会生活の基盤に連続性を持たせてイスラムへの形にそれを移行させたのだ。ヒンドゥ=ブッダ王朝だったモジョパヒッ王国のさまざまなエレメントがイスラム化以降もたくさんジャワに残された事実がフランス人歴史家デニス・ロンバール教授に疑問を抱かせたことと、それは軌を一つにしている。
ロンバール教授はジャワ島に興ったイスラム教育機関が最初、行者の瞑想を指導するダルマやマンダラの形態を踏襲していたことを指摘した。グルと弟子のつながりはキアイとサントリのつながりとそっくりであり、各ダルマのグルが相互につながっていたありさまも各プサントレンを指導しているキアイ間の横の連絡の緻密さに引き継がれている。
ジャワのプサントレンにおける教育システムは昔のヒンドゥ=ブッダ社会で行われていた教育制度とスタイルに瓜二つだったという、そのような事実がジャワ島のイスラム化がどのような内容で行われたのかという疑問の答えを垣間見せてくれるのである。


ワリソ~ゴが始めたプサントレン教育制度はヒンドゥ=ブッダ文化を枠組みにしている大衆社会をイスラムの形に変容させるための重要な戦略だった。イスラムという新思想を師であるキアイと寝食を共にしながら自分の生活の中に反映させ、イスラム者としての生き方を師の説明を聞きながら身体で実践するのがプサントレンという宗教塾だ。プサントレンは既存宗教文化で育った個人をイスラム者に変容させる仕組みを担ったのである。
既にヒンドゥ=ブッダ文化の価値観を多少なりとも持たされた個人に対して、本人が善であると信じているものを否定するようなことは少なければ少ないほどよいはずだ。しょせん宗教というものは形こそさまざまに違っていても、人間が持っている本質部分を突き詰めていけばどの宗教も似たような見解を語っているのである。
人間というものは大筋でたいてい似たようなユニバーサルな性格を持っているということをそれは示しているように見える。文化によって人間は違う動物なのであるというモノの見方は人間の本質に目の届かないクセノフォビアがもたらすものだろう。外国人に恐怖感を抱くのは、世界知らずが原因になっているのではあるまいか。

プサントレンの塾生であるサントリのほとんどは、在塾中も卒業してからも、地元社会の中で生きるのである。まだウンマーになっていない地元社会で生きることになるサントリに地元社会と対立的な内容を教えると、かれが在塾中に得たイスラムの知識や教えの実践が困難になるのはワリソゴにとって明白なことがらだった。ましてやその者が反社会的で対立的なムスリムになってしまえば、プサントレンは社会の敵にされてしまう。
プサントレンにおけるイスラム教育が既存社会の価値観を尊重してそれを維持させながらイスラムの形の実践からサントリ教育を開始していったのは、実にポジティブで建設的な方法論だったように解釈できる。

現代のインドネシアに2万3千3百ヵ所のプサントレンがある、とナフダトゥルウラマプサントレン協会会長は言う。それはナフダトゥルウラマ系プサントレンの数だ。ナフダトゥルウラマ系プサントレンは、地元社会に開かれた温厚平和で寛容なイスラム教育の伝統を現代のインドネシアで実践している。
どのナフダトゥルウラマ系プサントレンも、その歴史をさかのぼっていくとワリソ~ゴに到達するそうだ。プサントレンの主幹者が系図上でワリソゴにつながっているというケースだけでなく、Aプサントレンの主幹者がBプサントレンの卒業者であり、Bプサントレンの主幹者がCプサントレン卒業者で、Cプサントレンの主幹者がワリソゴの子孫であるというようなケースもたくさんある。
一方、インドネシアのイスラムがアラブのイスラムに純粋に従っていない面を批判し、本家ホンモノのイスラムを教えていると自認する、周辺社会と一線を画して閉鎖的なイスラム塾になっているプサントレンもたくさんインドネシアに存在している。


宗教団体ナフダトゥルウラマを創設したキアイ ハジ ハシム・アシュアリは東ジャワ州ジョンバンにトゥブイレンという名のプサントレンを開いた。場所はチュキル製糖工場の近くで、地元社会にオープンなプサントレンとして親しまれた。
1884年から活動の歴史を開始した中部ジャワのバレカンバンプサントレンはかつて、民衆が営んでいたお祓いの慣習をイスラムの祝賀の祈りに衣替えさせた実績を持っている。その地方では昔から子供が結婚するとき、婚礼がつつがなく行われるように願って生贄のニワトリを川に投げ込んでいた。
プサントレンはその迷信を変えさせることを計画した。今では、ニワトリが川に投げ込まれるのは同じだが、ニワトリの脚は紐で縛られている。川の向こう側ではそれを拾う役の者が待っており、川から拾い上げたニワトリをすぐに捌いて料理し、その料理を神に捧げて新郎新婦の幸福を祈ってからみんなでそれを食べるというイスラムの祝賀行事に中身が変容したのだ。悪霊を祓う生贄の儀式ではなくなったのである。
このプサントレンは昔から地元社会に開かれたプサントレンとして運営されてきた。たくさんのサントリが寝泊まりしているのだから、サントリの制服や他の衣食住の需要が発生する。プサントレンはその供給をすべて地元民に求めた。地元経済にひとつの市場を開いたということが言える。その一方で、プサントレンは地元行政にそれなりの発言力を持っており、地元民の種々の苦情や要望をプサントレンが汲み上げて行政に伝える動きもひとつの習慣になっている。

西ジャワ州チルボンのババカンプサントレンはチルボンのバティッセンターのひとつであるチワリギンから1キロくらいの距離にある。1907年ごろ、ババカンプサントレンの師のひとり、ムハンマッ・アミンがババカン部落南部の住民にバティッの作り方を教えた。それがチワリギンバティッセンターの誕生につながったと言われている。かれはプカロガン出身の父親からその技術を受け継いだ。
しかしかれのその功績は妻のウンミ・クルツムのおかげだったという話もある。ウンミはチルボンのプレレッ出身で、バティッ制作をよく行った。アミンは妻がバティッの図柄を構想するための部屋をひとつ用意した。妻はその部屋でバティッ生地に使うモリ布を作ることもした。バティッ制作を学びたいサントリにこの夫婦は喜んで制作技術を教えた。その当時、この地方では子供がアルクルアンを読誦できるようになると、その子を指導したイスラム師にバティッ布を贈る習慣があったので、市場にはバティッ布の大きな需要があったのである。
こうしてチワリギンの住民の多くがバティッ布生産に携わるようになり、チルボンスタイルのバティッとしてチワリギンはトゥルスミと名声を二分する存在になった。


ワリソ~ゴは宥和友好の原理を基盤に据えて、既存社会のイスラム化に着手した。イスラムの善行を民衆に教えて実践させ、あくまでもイッサンを最優先し、形から入って信念に到達するプロセスを民衆に歩ませたのだ、とナフダトゥルウラマ副事務局長は結論付けた。
アラブのイスラムをまったく異なる土壌に丸ごと移植してそれを模倣するようなことを、インドネシアのイスラムはしなかったのだ。ヌサンタラにイスラムが花開いたとき、そこに近視眼的で戦闘的な精神が権威を振るう場が設けられていなかったことをその歴史が物語っている。ナフダトゥルウラマはそれを「イスラムヌサンタラ」という固有名称にしてインドネシアのイスラム社会に告知した。
権威に対する服従精神の旺盛な人間はその種の折衷を「不純・まがい物・真理の核への到達を心得ない単なる物真似」と見なす傾向が強いようだが、そのようなモノの見方自体が本人の権威絶対主義を示していることに気付かないだろうか?権威絶対主義は理想主義のようにも見えるが、自分自身が生きるための理想であるならまだしも、赤の他人を権威絶対主義者にすることが自分の理想になるのでは困りものになるばかりだろう。そこにも同調主義精神が顔を覗かせている。
イスラムヌサンタラがイスラム宗教テロリズム時代に入った中で生み出されたインドネシアの国家戦略であるかのように物語る論説を語るひとがいる。しかしイスラムヌサンタラはもっとはるかに古い時代からあった基本的な定義なのであり、宗教テロ対策としてそれを大きく取り上げて謳うようになったことと、そのコンセプト自体の誕生は別のものとして捉えられるべきではあるまいか。


かつてナフダトゥルウラマの会長を長期間務め、インドネシア共和国第四代大統領にも就任したアブドゥラッマン・ワヒッの「伝統を動かす」と題する著作には、ワリソ~ゴが執ったイスラム化のスタイルが既存の民衆社会に大きな変動を起こさないような配慮でなされた結果、ジャワヒンドゥと原始信仰の混じり合った既存宗教に一刀両断で捨て去られることが起こらず、当時のヌサンタラの状況に最適にフィットしたあり方でジャワのイスラム化が完成したと説かれている。
ヌサンタラに伝えられたイスラムはアラブからペルシャ〜インドに伝わって一度異文化の洗礼を受けたものだったとワヒッは見ている。「13世紀にインドネシアに伝来したイスラムは、その前にペルシャそしてインド亜大陸で発展を加えられたものであり、スーフィズムへの傾向を濃く持っていた。」とかれは書いている。

インドネシア科学院歴史学者のアスヴィ・ワルマン・アダム博士はインドネシアへのイスラム教の伝来について、いくつかの理論があると説明している。最初のひとつはアラブ半島南部のハドラマウトに由来しているというもの。ふたつ目はインド、そして三つ目が中国だ。
ヌルホリス・マジッによれば、インドのグジャラート起源説はグルシッに建てられたマウラナ・マリッ・イブラヒムの墓碑がグジャラートにあるものと同じモチーフになっていることを根拠にしているそうだ。加えてアラブ語から入った宗教用語が同一のものになっていることもそのコンセプトをサポートしている。shalatやzakatなどの借用語の発音が同じなのである。それらのアラブ語源用語がペルシャやアジア大陸部でまず摂取され、それらの土地からイスラム布教者がヌサンタラへやってきたことをそれらの要素が示していると推測されるのである。
ところがアジア大陸部で盛んな宗派はスンニ=ハナフィであってヌサンタラで一般的なスンニ=シャフィイではない。その点に焦点を当てているのがハドラマウト由来説だ。イエーメンやハドラマウトはスンニ=シャフィイ派であり、ヌサンタラのものと一致する。おまけにアラブ半島南部地方は遠距離海上交易を盛んに行った歴史を持っている。
しかし、その説では上述の宗教用語の発音に関して解けない矛盾が起こる。それらの検討が加えられた結果、中国のイスラムがヌサンタラにイスラム教を媒介した可能性がひとつの理論として形成されることになった。宗教用語の問題、スンニ=シャフィイ派の問題が中華イスラムを介在させることで矛盾の解決をもたらす推論を可能にするのだ。少なくとも、東南アジアのイスラム発展史のある局面で中国が関りを持ったことはだれにも否定できないと考えられている。

ヌサンタラへのイスラム伝来の初期の時代、当時の通商の流れは国境・民族・宗教の境界線を持っていなかった。ヌサンタラへのイスラム伝来のどの理論にせよ、それだけが正しくて他は誤説であるなどと言うことはできない。すべてが正しく、それらが共存した可能性すら否定することができない。
それぞれの異なる地域と時期にヌサンタラという広大なエリアにさまざまな場所からイスラムが伝来し、それぞれの地元でイスラム化が起こり、それらがヌサンタラのイスラムに融合発展していった可能性を誰が否定できるだろうか?
アダム博士のその議論は、インドネシアのイスラムが持つ中華イスラムという特異性を存分に示唆していると言えるだろう。ヌサンタラのイスラムに中華イスラムがひとつの役割を果たしたことを認めるインドネシア人学者も少なくない。


ジャカルタのシャリフヒダヤトゥライスラム大学非常勤講師で、パラマディナ大学イスラム研究センター調査員のアヤン・ウトリザ・ンワイ氏は次のように書いている。
イスラム教が西暦紀元7世紀中葉に誕生したとき、中国は既に強大な勢力を築き上げていた。政治・文化・通商においてアジアで比肩する者のいない存在になっていた。イスラムがアジア西端の有力な勢力に育ったとき、その両雄の間で交わりが起きるのは当然の成り行きだったにちがいあるまい。イスラム信徒になったアラブ人商人であってさえ中国との取引を望むようになって当然だ。アジアの内陸部にできたシルクロードはイスラム教の通過路でもあったのだ。
アラブ世界には661〜750年にウマイヤ朝が?栄するイスラム世界を実現させ、さらに750〜1258年のアッバス朝に引き継がれた。中国では618〜907年の唐王朝、そして960〜1280年の宋王朝がそのクロノロジーの中にあった。
シルクロードは戦争が起きると通れなくなる。アラブ世界で、あるいはチベット族と中国の戦争が通商路を不通にする事態が発生した。しかし通商路は海にもあるのだ。ムスリム商船が東アジアへ向かうとき、スマトラ島北岸とマラカ海峡が寄港地を提供した。ムスリム商人はイスラム思想をまだ知らない未開人にイスラムを教えた。それを布教と呼んでもかまわないだろう。

中国とヌサンタラの間にはイスラム渡来前から交通があった。1275年の項目として中国の史書に、三佛齊の朝貢がなくなって須文答刺の朝貢使節が来航したことが記されている。三佛齊はスリウィジャヤ、須文答刺はサムドラ(パサイ)のことだ。
マルコ・ポーロは1292年にサムドラパサイの土を踏んだ。かれはこう書いている。 「サムドラパサイの王は中国皇帝に服しているが、あまりにも遠方であるために朝貢できないでいる。」

イスラム布教に関してヌサンタラと中国の間に起こった関係は、中国在住アラブ人と中国人ムスリムのヌサンタラへの布教だった。それがヌサンタラのイスラム化に「華人の大きい貢献」というひとつの説を促す根拠になった。
中国航路は14世紀のトレンガヌのイスラム化プロセスにたいへん大きな役割を果たした。15世紀のジャワにとっても同じだった。それらの地方へのイスラム伝来は中国から発してチャンパがリレーステーションになったと考えられている。

明の皇帝が鄭和を提督、馬歓を通辞とする大船団を派遣したことで、ヌサンタラのイスラム化が促進された。鄭和も馬歓もムスリムだったのだから。中国との政治経済面での繋がりを活発化させるための鄭和の航海は14世紀に何度も繰り返された。
スラマッ・ムリヤナ教授はジャワ島のイスラム化に鄭和が果たした役割の大きさを評価している。鄭和はジャワ島のあちこちにモスクを建設させた。ジャワ島に中国建築様式のモスクが目に付くのは当然の話なのだ。ところがムリヤナは1970年代に世間を震撼させる新説を発表した。ワリソゴが華人と華人混血子孫だったという説だ。この説には更に深い研究が待たれている。
ともあれ、少なくとも歴史記録の中に、スナンアンペルの妻はチャンパの王女であり、ラデンパタの母であるブラウィジャヤ5世の妻と姉妹だったという記述がある。スナングヌンジャティの妻のひとりは華人女性であり、チルボンにあるその墓は今でも華人系民衆の参詣の対象になっている。
バンテン大モスクの本館とミナレットは華人建築家の作になるものだとダニエル・ペレが2005年に発表した。ヌサンタラのイスラム化プロセスにいかにたくさんの華人が関りを持ったかについては、議論の余地がないだろう。

インドネシアのイスラムと華人はイスラム化の初期から密接な関係にあった。昨今、折りにふれて現れる、レーシズムに彩られたプリブミムスリムと華人プラナカンの間の疑惑と不信に満ちた対立感情はインドネシアのイスラム発展史を正しく認識していない、伝統から外れたものと言うことができる。

スラマッ・ムリヤナ教授のワリソゴに関する仰天説は1968年に出版されたRuntuhnya Kerajaan Hindu-Jawa dan Timbulnya Negara-Negara Islam di Nusantaraと題する著作の中に述べられたものであり、1971年に最高裁がこの書籍を発禁処分にした。
インドネシア国民の大部分がムスリムであり、ムスリムが聖者と仰いでいるワリソゴに華人が何人も含まれているという説が国民生活に不穏と混乱をもたらすものと判断されたからだ。オルバ政権の基本方針がどのようなものであったかを思い出せば、この発禁処分が執られるべき政治判断になって当然だったことが理解できるだろう。

スラマッ・ムリヤナの提示した説はアスヴィ・ワルマン・アダムによれば、Serat Kanda, Babad Tanah Jawi, スマランのレシデンだったポーツマンが三宝公寺院所蔵記録を基にして作った報告書から引用したパルリンドゥガンの著作という三つの文献の内容を総合して引き出したひとつの仮説なのである。
オランダ東インド政庁は1928年、スマランのレシデンであるポーツマンにラデン パタが華人だったかどうかについての調査を命じた。ラデン パタはスラッカンダにパヌンバハン ジンブン、ババッタナジャウィにセノパティ ジンブンという称号で登場する。ジンブンという言葉は、ある中国の地方語で「実力者」を意味している。
1926・1927年のインドネシア共産党蜂起が鎮圧されて間もない時期とあって、行政の振舞いが多少逸脱しても世間がそれを受け入れる状況になっていた。おかげでレシデン閣下はスマランの三宝公寺院所蔵記録を牛車に三台分ごっそりと持ち出すことに成功した。すべてが漢文で書かれている記録であり、古いものは4百年の歳月を超えるものが含まれていた。マガラジャ・オンガン・パルリンドゥガンは自著「トアンク ラオ」の中にポーツマンの報告書の内容から抜粋したものを織り込んだ。スラマッ・ムリヤナはトアンク ラオを参照文献として使った。

ムリヤナの引き出した結論では、1445年にジャワ島に来航した華人Bong Swi Hooがスナンアンペルと同一人物なのである。ボン・スウィホーはGan Eng Cuの娘Ni Gede Manilaを妻にした。ガン・エンチューはマニラのカピタンチナだった人物で、1423年にトゥバンに移住した。
ボン・スウィホーと二 グデ マニラの夫婦の間に生まれた子供がBonangで、後にスナンボナンの名前でワリソゴのひとりに奉られる。ボナンはスナンアンペルとスナンギリが養育した。
ガン・エンチューの別の子供がGan Si Cangで、シーチャンはスマランのカピタンチナを務めた。1481年、シーチャンはドゥマッ大モスクの建設を指揮した。かれはスマランの造船場で働く木工職人を集めてモスクの建設工事を行い、その大黒柱に大型船の帆柱と同じ構造を用いるよう命じた。それは大量の木片を細かく整然と組み合わせて柱にしたものであり、丸太よりも大きい耐久力を持っていると考えられていた。
もうひとりの華人スナンは若いころラデンサイッと呼ばれていたスナンカリジャガだ。ガン・シーチャンこそがそのスナンカリジャガだとムリヤナは言うのである。
ワリソゴの別のスナンのひとりにスナングヌンジャティ別名シャリフ・ヒダヤトゥラがいる。この人物の正体はムリヤナによれば、ドゥマッの第4代スルタンとして1521〜1546年の間玉座に着いたトレンゴノの王子Toh A Boであり、更にスナンクドゥスはジャファル・シディッ、華人名Ja Tik Suなのだそうだ。

アダム博士は言う。ワリソゴの中に華人がいようが華人プラナカンがいようが、そんな学説を発表してならない理由などない。ただ、スラマッ・ムリヤナ説の弱点は、その骨子の多くがパルリンドゥガンの著作から引用されたものであり、スマランの三宝公寺院所蔵文献である第一次資料を直接踏まえていないことだ。漢文で書かれたその原資料、そしてインドネシアあるいは中国本土にある15〜16世紀に(多分漢文で)書かれた文献の調査なくしては、その仮説の審議を行うことはできるまい。
その時代、15世紀初期に鄭和の大船隊が行った記録がたくさん書かれている。鄭和の船団はヨーロッパ人が行った航海よりはるかに大規模なものだった。鄭和は同じムスリムである馬歓を通辞として伴い、馬歓は瀛涯勝覧を著して船団の航海と各地の様子を中国社会に告知した。
その著作によれば、ジャワ島に住む華人は広東・?州・泉州の出身者で、かれらは中国を去ってジャワ島東沿岸部の港市に定住した。トゥバンの町には一千人と少々の華人が居住していた。グルシッは広東人が入植するまで、ただの海岸線があるだけだった。スラバヤも住民の多くが華人だった。それら華人の大多数がムスリムになり、イスラム教の定めに従って生活していた。


世紀が交代すると、ヨーロッパ人が書き残した華人ムスリムの話が登場するようになる。バンテンが17世紀に大きい繁栄を達成したとき、大型事業家Tan Tse Koの名前が記録の中に出現した。この華人はバンテン社会に受け入れられ、地元の民衆生活に溶けこんで闊達な暮らしを営んだ。というのも、かれは自らをムスリムであると表明し、チャクラダナという名前で社会生活を営んだからだ。
かれは世界的な視野を持つビジネスマンだった。歴史記録には、かれが1670年、1671年、1672年、1676年と何度もインドシナに交易船を送り出したことが記されている。タン・ツェコがヨーロッパ人商人と取引していたことも、スカンジナビアのさる国の博物館に収納されている支払い督促状が示している。その書状は当時のリンガフランカだったムラユ語で書かれていた。

わたしはここで信心の話をしているのではない、とアダム博士は念を押している。それは本人の心の中でしか測ることのできないものであり、どれほどイスラム教義の実践をその人物が行ったのかということを歴史資料の中で探すのは無理な仕事なのである。

タン・ツェコはオフィシャルに自分がムスリムであると自認した。当時のバンテン社会のほとんどの住民が信仰している宗教に帰依したと自ら述べたのだ。その結果がかれのバンテン地元民社会への融合であり、チャクラダナが地元社会構成員のひとりとしてそこで暮らすことを可能にした。
王と近い関係にあることが富裕商人をしばしば公職者の地位に就かせた。統治支配者がその種の人事を行うことは現代までひとつの慣習として続いている。1677年にチャクラダナはバンテン港のシャバンダル(港務長官)の職を与えられた。残念なことに1682年4月、VOCはバンテンの支配権を握り、国際開港だったバンテンを閉鎖して港湾機能を独占した。

ワリソゴの身元の詳細ばかりか、ヌサンタラのイスラム化の歴史に関しても中国語資料が大きな意味を持っていることは明らかであり、ヌサンタラの一般的な歴史だけでなく、イスラム発展史の研究においても中国語資料のより深く広範な調査がなされることが期待されているという示唆でアダム博士のこの論説は閉じられている。

何世紀も前にヌサンタラに移住した華人の多くがムスリムになったことはあまり認識されていないように見える。東南アジアに移住した華僑やその子孫である華人プラナカンを中国の国際政治における在外一勢力と見なす見解は依然として強い。だが、いま東南アジアの国籍者になっている華人子孫たちが、本当に祖先の故国の危機に身を投げ出す意志を持ち続けているのだろうか?
昔、インドネシアの国勢調査に面白い項目が含まれていた。回答者が答えを求められている項目の中に、自分の所属する種族名を答えさせる一項がある。純血統者であれば選択の余地はないが、現代インドネシアのようにさまざまな種族が入り乱れて何世代にもわたって混血を続けてきたひとびとがその答えを書くとき、何が選択されるのだろうか?
素人頭でわたしが考えるのは、多分本人が自分のアイデンティティとして持っている感覚的なものになるように思われる。つまり自分の血統の中のどの種族を自分のアイデンティティとして有力視しているのかということだ。ということはもはやそれは血統を離れて、文化の領域に入り込んでいることを意味していないだろうか。

2010年の国勢調査で種族別人口統計が公表された。その中に華人という項目があった。インドネシア国民中の華人は283万人という数字がそこに示されていた。総人口比で1.2%だ。
ところが2010年ごろの世界の常識としてインドネシア在住華人は5百万人とか8百万人などといった数字がインターネット内で躍っていた。どうしてこんなとんでもない違いが出現したのか?
インドネシアの国勢調査が示している華人人口は自分のアイデンティティを華人と感じている人間の数だ。だからかれらは多分、祖先の祖国に危急が起これば立ち上がる可能性を持っているだろう。

一方のネット内で躍っている数字は、専門的な学識を持っただれかが推定で算出した数字でしかない。父が華人であれば子供はすべて華人であるという父系主義の残滓だろう。華人の血が混じっている人間はこれくらいいるはずだ、というのがきっとその数字なのではあるまいか。たとえ華人系の血が体内に流れていても本人自身が自分をジャワ人やスンダ人と思っている人間が問答無用でその数字に中に含まれている可能性が感じられる。
その結果、インドネシアには8百万人の親中国派戦力がいるのだという何の根拠もない影を、何かその種の判断を行いたい人に提供しているのではないだろうか。本当は5百万を超える華人子孫が自分のアイデンティティを違う文化にしているというのに。


インドネシア在住華人はどんな暮らしをしているのか、という質問を発するひとがいる。純血華人がインドネシアに来て住み着いているケースから、遠い祖先に華人の血が混入しただけの、ほとんどジャワ人あるいはスンダ人のひとりというケースまで、千差万別になっている人間の暮らしの様子をどうやって説明できると思っているのだろうか?おまけに華人なのだから中華文化の中で暮らしているというイメージを質問者は既に頭の中に描いているようで、この種のひとびとに「インドネシア在住華人の多くはムスリムですよ」といくら説明しても、まるで頭の中に入って行かない。
2006年のレプブリカ紙に華人ムスリムに関する記事が掲載されていたのをご紹介しようと思う。これは南スラウェシ州在住の華人系プラナカンムスリムが抱えている悩みという内容の報道記事だった。
ジャカルタのクウィタンやラウツェのモスクのような、中華風建築様式のモスクを持ちたいとかれらは願っているのである。決して華人色を押し出したいという尊大さがその原因なのでなく、普通のモスクへ行くのが女性にとってつらいということが最大の理由になっている。一見して華人系と判る女性が礼拝装束でモスクへ行くと、プリブミの男たちが奇異の目で、と言うよりむしろ不審の目でにらみつけるのだそうだ。特にイスラムに入って間もない女性たちはその視線に耐えられず、モスクへ行くのをやめるようになる。
インドネシア中華イスラムユニオン(PITI)のマカッサル支部はこの問題の解決策を検討し、ジャカルタにあるような中華風建築様式のモスクを華人ムスリムが使うことで、現在あちこちで直面しているその種の問題が緩和されるようになるのではないかという結論を出した。
PITIのマカッサル支部に会員はまだ百人くらいしかいないものの、南スラウェシ州に華人ムスリムは5千人くらいいることが分かっており、その多くはスングミナサ、ゴワ、ガレソン、タカラル、マカッサルに集中しているそうだ。
PITIは地元の諸機構にそのアイデアを諮り、州庁からは物心両面でのサポートを約束してもらった。州知事との会見も近々行われる予定になっていて、知事とはより具体的な建設計画についての話し合いになるものと見られている。また州議会も副議長が好意的な見解をPITIマカッサル支部長に表明している。

(2024年11〜12月)