「名前の記号論」(2017年05月17日)

ライター: 宗教者、スマラン市ランプルサリ小教区勤務、トゥルス・スダルト
ソース: 2007年11月9日付けコンパス紙 "Semiotika Nama"

かつてシェイクスピアが「名前に何の意味があろうか?」と問うたとするなら、現代にお
いてその問いはたいへん密度の異なったものになりそうだ。ライフスタイルを刃先に持つ
クローバリゼーションのために、今や名前を気にすることはあまりなくなっている。

向かいの村の住民が長子に「アンドレアス・スルヤ・サプトラ」と名付けたとき、わたし
はびっくりした。かれは篤信のムスリムだったのだから。それどころか、スマランで勤務
する牧師の名前が「イブン・ファジャル・ムハンマッ」であることを知ったとき、わたし
のビックリ仰天は天に昇った。


こんなことが一体いつから起こるようになったのだろうか?今や、とある名前について、
その名前がある陣営を象徴しているというような白黒の区別などなくなっているのだ。そ
の一方で、プライモーディアルな集団アイデンティティの中に、従来とは異なる名前が続
々と持ち込まれている。典型的な名前がいずれかの陣営に所属していることを保証する時
代ではもうないのである。

「romo」の呼称が牧師だけに使われることはなくなったし、同じように「kiai」という言
葉も類似の道を歩んだ。叙階で使われる位階の用語も、ヒエラルキーの位置を示すもので
はなくなっている。メシアスという言葉は、ある特定個人だけを指す聖なる呼称でなくな
ってしまった。サッカー雑誌「Bola」を見てみるがいい。サッカーチームのアタッカーは
たいへん容易に「メシアス」の称号を得ているではないか。

個々の宗教界における伝統の中で、称号はユニークで特別な限られた時代を反映していた。
ひとは一大コミュニティの中で称号を与えられてきた。それが独特な種々の装飾で個人を
規定するコミュニティ生活というものだったのである。

そのようなプロセスに基づくなら、「アンドレアス」という名前は、カソリックの世界で
個人が認定されて聖者になったもののひとつを指しているのである。見倣うべき聖なる人
物として特定個人を認定した歴史的背景が存在していたのだ。聖守護者の名前を好き勝手
に使うことは、まだ認められていない。

ただ、それらの聖守護者の名前の大部分は、たまたまヨーロッパ人だった。一体だれが最
初にヨーロッパ人の名前を個人の名に使うことを始めたのかは明らかでないものの、今で
はインドネシア社会の中で、それが伝染病のように広がっている。


グローバリゼーションは劣位のインドネシア社会をアイデンティティ面で同等に押し上げ
ただけだったようだ。文化劣等者の地位に落とされたことへの嫌悪を打ち払うために、西
洋風の名前は実存症候群を押し上げることができると考えたのだろう。

ひとびとが自分の子供の名前を決めるときの世の中の陳腐さにあまり驚かないことをわた
しは学んだ。言葉の洪水に掉さして発言を操ることの難しさのゆえに、われわれはきっと
慢性的不安に蝕まれているにちがいない。ある言葉が流行語になるのはきわめて容易なこ
とであり、表現法が記号論におけるウエイトと同時に消滅してしまうのも同じように容易
なのである。われわれの非文字文化は言葉のクーデター活動に満ち満ちており、われらの
社会における名前の欧風化が進歩・後退のいずれの印なのかをはっきりと見分けることが
できない現状そのものを映し出している。

われわれはヨーロッパの支流なのだとコメントする友人がいた。フランチャイズ文化は確
かにわれわれの文化のイラストとしてオーバーではないように思われる。真のインドネシ
ア風の名前を持つことへの誇りはもうほとんど残されていない。それとも「インドネシア
風の名前」は単なる幻想だったのだろうか?

だとするなら、これまでわたしは誤解していたことになる。