「国歌インドネシアラヤの歴史(1)」(2017年06月12日)

国民に愛国精神を涵養するため、全国の小学校から高校までの学生生徒に、学校での一日
を国歌斉唱で開始し、帰りには国民/民族意識を呼び覚ますインドネシアの歌を唄ってか
ら下校するよう、ジョコ・ウィドド大統領が教育文化相に要請した。これは大統領が前か
ら進めている国民の精神革命の一環であるとのこと。

それを受けて教育文化大臣が全国の州県市教育文化局長に対し、2017年4月11日付
けでいくつかの指示を出した中に、その内容が盛り込まれている。この新機軸が2017
年7月の新学期から開始される方向で準備が進められている中で、通常国歌斉唱は一番の
歌詞だけが唄われてきたが、それを三番まで全部唄わせる方針が決まった。教育文化省文
化総局長によれば、二番三番の歌詞は深い愛国精神に触れる内容になっているので、一番
だけで終わらせるよりは本来の主旨にはるかに沿ったものになる、とのこと。


インドネシアラヤという歌はワゲ・ルドルフ・スプラッマン(Wage Rudolf Supratman)が
作り、1928年10月28日にバタヴィアのクラマッラヤ通り106番地にあるインド
ネシスクリュブハイス(今の青年の誓い館)で開催された第二回青年コングレスの場で、
自らバイオリンを奏でてそれを紹介した。更にコングレス閉会日には、ふたたびかれのバ
イオリンに合わせて合唱団がそれを唄った。その歌詞を「新報(Sin Po)」新聞が11月に
掲載したこともあって、しばらくしてからこのオードはインドネシア人の間で大流行する
ようになる。

1903年3月9日にインドネシア植民地軍軍曹の家に生れ、1938年8月17日に世
を去ったスプラッマンはその当時、才能ある若きジャーナリストで著述家として知られて
いたが、作曲の分野でも活躍していた。民族運動に加わった青年層との幅広い交際の中で、
かれはそのオードを作曲することで仲間との連帯をはかったにちがいない。[ 続く ]