「パレオツナミ」(2017年08月09日)

ライター: コンパス紙記者、文筆家、アフマッ・アリフ
ソース: 2017年7月26日付けコンパス紙 "Paleotsunami"

2004年12月26日が来るまでアチェの民衆の大半は、パレオ津波と呼ばれる過去の
津波によってもたらされた堆積物の上にかれらの町が作られていることを認識していなか
った。それどころか、地震の後に海水が退いていったことで、大勢のひとが浜までやって
きた。その海水が退いていく現象は、続いてそのあと津波が襲ってくることの兆候のひと
つであるということを知っている者がいなかったのである。

海水が突然、20メートルを超える高さで陸地に乗り上げてきたとき、わが身を護るため
にできることはほとんどなかった。その朝、およそ20万人もの住民が命を落とした。犠
牲者が多かったのは、無知であったためだ。そのときのアチェ人の知識の中に、津波現象
はゼロだったのだから。

それから一年後、「地震縁起」(Takbir Gempa)などの古文書の中にアチェにおける地震の
記録がやっと見つかった。その中には、地震の後に激しい波が陸地を襲う可能性があるこ
とを説いている文章がある。残念なことにその書物は卜占の書と理解されており、出来事
の記録と見られていなかった。

2006年7月に西ジャワ州パガンダラン(Pangandaran)を津波が襲ったときも、類似の
現象が起こった。災害後ほどなくして行われた技術応用研究庁津波研究員ウィジョ・コン
コ氏のサーベイは、パガンダラン住民のほとんどが居住地の津波のリスクを理解していな
いことを明らかにしている。


2004年までのアチェ住民や2006年までのパガンダラン住民と現在のバリ島南部地
域住民は大差ない。インドネシア米国合同調査チームがインタビューしたバリ島南部地域
住民は平均して、かれらの土地を過去に巨大津波が襲った事実を信じようとしない。巨大
地震や津波が繰り返された期間は数百年、いや数千年に達するというのに、出来事を文書
化して記録する習慣がわが国ではまだ新しいために、ヌサンタラの地質災害に関する史的
記録はきわめて乏しいのである。

民衆社会での言い伝えの中に自然災害のストーリーはたくさん見つかっているものの、た
いていは暗喩の形がとられている。そのひとつは、ジャワ島南海岸部住民たちが信仰して
いるラトゥ・キドゥルだ。

インドネシア科学院のエコ・ユリアント地質工学部長はラトゥ・キドゥル神話を、過去の
地質現象を踏まえた神話である地学神話だと信じている。かれが行っているパレオ津波研
究では、ジャワ島南沿岸部全域に古い津波の痕跡が見出されている。

パレオ津波堆積物はバンテン州ルバッ(Lebak)から西ジャワ州パガンダラン、中部ジャワ
州チラチャップ(Cilacap)、東ジャワ州パチタン(Pacitan)まで発見され、最近はヨグヤカ
ルタ州クロンプロゴ(Kulon progo)でも見つかっている。それらの一部の層はおよそ3百
年前という年代の一致を見ており、また年代のもっと古い層がそこに重なっていて、過去
に津波が繰り返し襲来していたことを示している。

一方、米国地質学者ロン・ハリス氏率いるパレオ津波調査チームはバリ島南部でふたつの
津波堆積物の層を発見した。理論的に、ジャワ島南海岸部での津波がバリ島南部をも同時
に襲ったことはあり得るようだ。バリ島南部で発見された堆積物の層の年代を測定するた
めに、今サンプルの分析が行われている。

アチェでは、シンガポール地球観測チームがシアクアラ大学と共同で西海岸部に7千4百
年前から2千9百年前までの間に発生したパレオ津波堆積物の層を11発見した。加えて
1千年前までのものが3層発見されている。アチェは2004年のものを含めて、過去に
14回以上の巨大津波に襲われているのだ。


最近ますます活発化しているパレオ津波研究はインドネシア沿岸部のリスクに関して反論
しようのないさまざまな証拠の帳を開いている。インドネシアの大都市の多くは、過去の
津波堆積物の上に作られているのである。

とはいえ、リスクの認識というのは、知っているかどうかが重要なのではない。2004
年の巨大津波に襲われたアチェ海岸部は災害から10年を経た今、新たな居住地区に再び
占拠されている。同じことはパガンダランやフローレス、あるいはバニュワギ(Banyuwa-
ngi)など他の津波に襲われた土地でも起こっている。

日々の生活のための必要性が一部民衆に津波のリスクとの妥協を強いている。ましてや世
界最多の127火山を持ち、世界の大型テクトニクスプレート三つが衝突しあっている地
帯に横たわっているこの国で、地質災害から本当に安全な場所を見つけ出すのは、容易な
ことでない。

そんな状況下だからこそ、われわれはシムルエ(Simeulue)島民の適応方法に学ばなければ
ならないのだ。2004年の地震の震源地により近かったシムルエ島民は自分たちの生命
を護ることができた。地震が起こったあと、かれらは急いで高所に避難したのだ。それは
かれらが代々言い伝えられてきたスモン(smong 地元の言葉で津波を意味する)に関する
知識を持っていたことに負っている。何千軒もの家屋が粉砕されたものの、死者は7人し
か出なかった。

ますます増加しているパレオ津波のデータは認識への糸口である。しかしそこから先はわ
れわれ次第なのだ。災害の被害軽減を支えるものとなるか、それとも無視されるか、果た
してどちらなのだろうか?