「路上の群衆に在る正義」(2017年09月05日)

西ジャワ州ブカシ県バブラン郡フリップジャヤ村ムアラバクティ部落にあるムソラ
(musholaはsolat/shalat/sholat[=神に祈りを捧げること]を行う場所を意味し、一方の
モスクmasjidはsujud[=神に額づいて礼拝すること]を行う場所を意味している)で、拡声
用アンプが盗まれた。アンプと拡声器をつなぐコードが切断され、アンプは普段置かれて
いる場所から姿を消していた。

ムソラ管理者はその事態に気付くと、すぐに表に走り出た。そしてムソラの表に止めてあ
るオートバイの後部座席に括りつけられているアンプを見つけた管理者は、そのオートバ
イに乗ろうとしていた男に向かって叫んだ。「おい、ムソラのアンプを返せ!」

するとその男はオートバイに乗るのをやめてその場から走って逃げた。ムソラ管理者がそ
の男を犯人と見て追いかけるのは当たり前だ。だが、そのオートバイに括り付けられてい
るアンプをよく観察したなら、それはムソラのアンプよりもひと回り小さい別の品物であ
ることが見て取れただろう。そうなれば、オートバイの男は自分が泥棒でないことを立証
できたはずだが、かれはそうしなかった。そこにインドネシア社会が持っている特殊事情
がある。


怒りに駆られると理性が働かなくなり、インドネシア社会が持つ価値観が定めている悪事
を犯した者への憎しみと下卑する感情が力を用いて勝利する優越感を起動させて、悪人を
処刑する路上リンチへと発展するのがその特殊事情だ。「正義は我にある」という正義感
に抱かれて、悪人を力で倒し滅ぼすというストリートジャスティスの原理がそれなのであ
る。

「泥棒!」あるいは「レイピスト!」と叫ばれて、路上にいる衆人の打倒と滅亡の対象と
なった暁には何がどうなるか、インドネシア人はみんなそのことを十分に心得ている。人
間の理性はその場から掻き消えて、衆人のリンチに対抗できる警察という力が抑止力とし
て働かないかぎり、悪人という疑惑を持たれた人間の生命は風前の灯となるのである。


走って逃げた男M30歳は、普段から拡声システム機器の修理業を稼業としている電気職
人だったのだ。かれはそのとき、たまたま修理依頼されたアンプを家に持ち帰る途中にそ
のムソラで礼拝を済ませたところだったのである。あまりにも偶然な状況が無実なMの運
命を変えてしまった。

正義と力に目をくらまされた5百人近い人間が、ムソラ管理人に加勢してMを追いかけた。
パニックに陥ったMは近くの小川に身を投じたが、それはかえってリンチ集団の思うつぼ
になってしまった。捕まえたMを村の集会所に連行して理非を問いただそうとする「理性」
のある少数派を押し切った、正義の力に酔いしれたい多数派が、Mをパサルへ引きずって
行った。

群衆の間からMに向けて投げつけられる「泥棒!」「Maling!」という怒声に興奮した強
者自慢の男たちが、素手で、あるいは棒切れで、Mを殴りつけ始めた。全身をあざだらけ
にして地面に崩れ落ちたMを取り巻く男たちに向けて、「バカルサジャ!」「Bakar saja!」
という声が周囲から湧きおこった。誰かがプラボトルに入ったガソリンを持ってきて、か
すかにうごめいているMに振りかける。その直後にMの全身が炎に包まれた。


警察が現場に駆け付けたとき、Mは既に焼死していた。どこで何を盗んだのかという事件
の内容などまったく無関心で、多数の人間が「泥棒」と指さしたことだけをたよりに反応
し、正義の勝利に酔いしれた群衆は、警察の登場で即座に解散する。警察の相手になった
のは、遠くからストリートジャスティスの推移を見守っていた「理性」のある少数派だけ
だった。

警察は聞き込み捜査で部落民からの証言を集め、M焼殺事件の犯人として5人を数日後に
逮捕した。5人はM殺害犯として送検されることになる。Mの家には25歳の妻と3歳の
子供、そして修理中のアンプ類数台が残されていた。