「どうしてmempunyaiなのか?」(2018年01月31日)

2017年2月3日付けコンパス紙への投書"Mempunyai atau Memunyai?"から
拝啓、編集部殿。わたしは言語に関する学問のない、素人です。1月7日付けコンパス紙
のコラムに掲載された「mempunyai」という語が正しいと説くヤンワルディ氏の「Memunyai?」
と題する論説に促されて、コメントを述べたいと存じます。

ヤンワルディ氏によれば、mempunyaiをmemunyaiに替える強い根拠はないそうです。おまけ
に言語使用者の抵抗が、ある言語法則が不適切であることを示す特徴のひとつであるとの
こと。

わたしは別の角度からその問題を見ます。punyaという語は、持ち主であるtuanを意味する
empuを核に持つempunyaの一部分です。つまりmempunyaiという語は接頭辞me-とempunyaが
接合したものなのです。わたしはKBBIをまだ調べていませんが、グラフィカジャカル
タが出版した896ページもあるインドネシア語モダン辞典にはpunyaとempunyaが両方採
録されています。

ヤンワルディ氏の論説にあがっている他の単語について、国営ラジオ局のインドネシア語
解説番組でわたしが聞いたアントンMムリヨノ博士の説明を下記します。pが脱落してmに
なる法則は接頭辞per-と接尾辞-anで作られる抽象名詞に適用されません。その前に接頭
辞me-、その後ろに接尾辞-kanが置かれても、pは脱落しないのです。たとえばpersekutuan
はmempersekutukan、pertahananはmempertahankan、などのように。だから頭字pの次に子
音が来なくとも、per-のpは脱落しないのです。

外国語の頭字pも、mengklaimやmenstabilkanなどの頭字k,s,t,も脱落しません。parkirや
potretはもはや外国語という雰囲気が感じられなくなっていますから、その雰囲気の有無
は発音がしやすいかどうか次第になっており、またその語がどのくらいの期間使われてき
たかということにも関わっています。produksi, proyeksi, programなど頭にproが付く外
国語源の単語は、接頭辞me-を付ける場合でもpを脱落させないほうがよいのです。異化の
法則に従うということだけでなく、ここでのproはpe-anのアナログ接頭辞と見なすことが
できるからです。

mengkajiについては、アルクルアンを読むことに関連してmengajiとの区別をはかるため
に、頭字のkは故意に脱落が避けられています。上述の辞書の記述によれば、mengajiも
kajiに由来しているとのことであり、本当はkajianの意味におけるmengkajiという語は
作られる必要がなかったのです。その違いはコンテキストからわかるはずです。たとえ
ば、Para pakar sudah mengaji usulan itu.という文章からでも、そのmengajiがmela-
kukan kajianを意味していることが読者には明らかです。
[ 南タングラン在住、スギオ・ソスロスマルト ]