「本人の愚昧か?国民の愚昧化か?」(2018年02月06日) 2017年10月26日付けコンパス紙への投書"Pejabat Publik dan Sejarah"から 拝啓、編集部殿。10月17日のさまざまなテレビ報道や18日のコンパス紙の報道では アニス・バスウェダン都知事のスピーチが引用されていました。「植民地支配をもっとも 深く感じてきた町がジャカルタなのです。他の町々では、オランダ人を間近に見るような ことはありませんでした。オランダ人をすぐそばで見たのはだれでしょうか?ジャカルタ だったのです。」 その表明は、オランダ植民地支配をもっともよく知っており、そしてそれにもっとも苦し められたのがジャカルタだったという印象を与えます。しかしその表明が本当に正しいの かどうかについて、インドネシアにおけるオランダ植民地史の中の事実と突き合わせてみ る必要があります。 まず、17世紀のマルクの島々におけるスパイス通商の支配と独占はオランダVOCによ る暴力と流血に彩られています。オランダに屈服したインドネシア最後の地域アチェは1 9世紀末に、民衆の英雄的な抵抗を伴って血と涙に覆いつくされました。 オランダは常に分割統治方針を用い、地元支配構造を分裂させて最後に支配権を握る方法 をとってきました。それが史実なのです。 わたしは東ジャワのウリギという小さい町で生まれ、育ちました。1930年代末から4 0年代はじめにかけて、わたしはオランダ人学校(Europeesche Lagere School)の存在を 目撃しています。ほかの学校よりもはるかに素晴らしい建物で、生徒はほとんどがオラン ダ人の子供であり、親は農園や製糖工場あるいはミルク工場のオーナーや職員、そして警 察や郵便局の長といった公職高官たちでした。言うまでもなく、その状況は全国のたくさ んの町でも同じように起こっていたものです。それがわたしの直接体験し、あるいは目撃 したことを含む、歴史上の事実です。 わたしが思うに、公職高官は自分の国と民族の歴史をもっとよく理解し、そこから教訓を 汲み取って、国民を団結に導くようにするべきでしょう。歴史という名前を用いて国民を 分裂に導くなど、もってのほかです。[ 西ジャワ州ブカシ在住、ハルステジョ ]