「メイジ(前)」(2018年02月19日) ライター: コンパス紙記者、トゥリアス・クンチャッヨノ ソース: 2018年2月11日付けコンパス紙 "Meiji" 150年前にそのできごとが起こった。1868年のことだ。1868年はグレゴリオ暦 で水曜日から始まる閏年であり、ユリウス暦では月曜日から始まる閏年だ。 その時代、ツァーのアレクサンドル二世がロシアに君臨し、ナポレオン三世がフランスを 支配し、バタヴィアでは蘭領東インド政庁がバタヴィア博物館を公式オープンした。今、 インドネシア国立博物館、あるいはグドゥンガジャ(Gedung Gajah)の別称で呼ばれている 建物がそれだ。グドゥンガジャの名前は象の姿を示す青銅像が建てられていることに由来 しており、1871年にバタヴィアを訪問したシャムのチュラロンコン王がプレゼントし たものである。 1868年のできごとは、ロシアで起こったのでなく、フランスでもなく、ましてやバタ ヴィアで起こったものでもない。1868年1月3日(金)のできごとは、「日の昇る国」 日本で起こったのである。徳川王朝第15代将軍「Keiki Yoshinobu」が支配権を返上し たのだ。かれはそのとき、年齢5歳のカイサル(ローマ皇帝シーザーを語源とする言葉で、 日本の天皇はインドネシア語でカイサルと訳されている)「Mutsuhito」に支配と統治の 権限を譲り渡した。カイサル「Mutsuhito」は1867年に逝去した父のカイサル「Komei」 を後継した人物だ。 徳川慶喜とも呼ばれる将軍「Keiki Yoshinobu」(1837−1913)が後の明治天皇 となるカイサル「Mutsuhito」(1852−1912)に統治権を譲ったことは、日本に とってたいへん大きな意味を持つものだった。そのできごとは260年続いた将軍統治時 代の終わりを示すものだっただけでなく、日本のデモクラシー時代の幕開けにもなったの である。日本のデモクラシーは立憲君主制を採っているヨーロッパ諸王国を真似たものだ った。(ダナ・ケネス・ティーズリー:2009) 江戸時代とも呼ばれる徳川時代(1603−1867)は日本式伝統社会の最期の時代だ った。平和・政治的安定・将軍制度に率いられた経済発展・徳川家康が築き上げた軍事独 裁といった言葉で語られた時代がそれだった。江戸時代と呼ばれたのは、政権が江戸、つ まり今の東京、に置かれたからだ。 時代の要求するところに従って、徳川時代はついに終わった。政権移譲は円滑に行われ、 大量の流血は回避されたと歴史は伝えている。その政治事件は、絶対権力を持つ将軍たち に率いられた封建主義の時代が幕を閉じ、カイサルの手に国家統治権が返還されたことを 示すものだったのである。 日本は新たな歴史のページを開いた。カイサル「Mutsuhito」の登場が、後に明治維新と 呼ばれた啓蒙復古時代の端緒となったのだ。(アレクサンダー・デビッド・ブラウン、2 005) その一世紀前の17〜18世紀にヨーロッパでは、啓蒙主義と呼ばれる知識層の運動が始 まっていた。フランス人がシエクルデリュミエール(si?cle des Lumi?res)、ドイツ人は アウフクレルン(Aufkl?rung)と呼んだ叡智の黎明時代。叡智を用いることが人間に大自然 の法則を見つけ出すことを促し、それによって人間は世界のすべてを理解することができ るという思想がヨーロッパの知識層の間に広まったのである。[ 続く ]