「サレンバ(5)」(2018年04月04日) かれは帰国してすぐ、バタヴィアのメンテン地区東端のチキニに5.7Haの土地を買い、 そこにドイツのカレンベルク城を模した豪邸の建設を開始した。かれ自らが設計し、そし て建設を監督したようだ。 できあがった豪邸の中のスタジオで絵画制作に励む一方、バタヴィアの貴顕淑女やバタヴ ィアに旅してきた欧米人を招いての晩餐会や舞踏会をかれはその豪邸で頻繁に開いた。 旧知でなくとも、バタヴィアを訪れた欧米人がチキニのラデン・サレ邸を訪れると歓迎さ れた。かれの名声を慕って訪れた米国人アルバート・ブリックモア教授はその旅行記に、 「東インド全土の原住民支配者がどれほどいようが、ラデン・サレの宮殿をしのぐ宮殿を 持っている者はひとりもいない。」と記している。 豪邸の周辺にもラデン・サレの審美能力は闊達に生かされていたらしく、豪邸の玄関目指 して近付いてくる来客たちの目を整えられた植栽が十分に愉しませ、また印象付けていた らしい。今のジャカルタからは想像もできないようなグリーンあふれる広大な自然の中で 鹿などの野生動物が放し飼いにされていた。 しかしかれの土地はまだまだ広い。現代ジャカルタの地図を見ればわかるように、チキニ 病院の位置にあるラデン・サレ邸から北西の場所にTIM(Taman Ismail Marzuki)がある。 ラデン・サレはそこに植物園を作って1862年に世間に公開し、更にそれに隣接させて 1864年には動物園をも開いた。 TIMがその植物園の跡地に設けられたのは1960年、そして動物園も1960年、南 ジャカルタのラグナンに移転するまで、ジャカルタ市民の人気を一身に集めていた。 ジャカルタで日本料理店の草分けとも言える菊川の店がある地区には昔、Jl Kebun Bina- tang という狭い道がいくつかあったが、チキニ動物園の名残を残すその名称も今や時代 の流れの中に埋没してしまったようだ。 ラデン・サレの豪邸はかれの死後、無差別救済のための病院活動を呼びかけたオランダ宣 教師の妻がウィレム三世妃エンマから寄付を仰いで1897年に買い取り、チキニエンマ 王妃病院として1898年に開業した。運営主体者は教会団だ。その病院は1913年に チキニ病院と改称され、日本軍政下には海軍病院とされた。戦後は再びインドネシア教会 団の管理下に戻され、チキニインドネシア教会団病院として今日に至っている。[ 続く ]