「ジャカトラ通り(5)」(2018年05月18日)

大郵便道路はアニェルからバンテンの王都を通過してバタヴィアへ向かう。ダンデルスは
それを機会と見て、バンテン王国の首都をアニェルに移し、ウジュンクロン(Ujung Kulon)
に港を建設するようバンテンのスルタンに命じた。バンテンの都を明け渡させることがか
れの本意だったようだ。

スルタンは王都の移転を拒んだ。そうなれば、あとは力ずくで本意を実現させるだけだ。
ダンデルス総督は、バンテンの王都を攻略してスロソワン宮殿(Istana Surosowan)を破壊
せよと軍に命じた。

その通りのことが実行されて、スルタン一族は捕らえられてバンテンに建てられているス
ピルウエイク(Speelwijk)要塞に幽閉され、後になってバタヴィアへ流罪にされて監視下の
一生を送ることになった。1808年11月22日、ダンデルスはバンテン王国領がオラ
ンダ東インド政府の直轄領となったことを発表した。

そのスピルウエイク要塞はスルタン・ハジを掌中に握ったVOCが、軍事上の要としてバ
ンテンの王都の外に建設したものだ。工事は1682年に着手されて1686年に完成し
ている。

但し、バンテンのスルタン側がダンデルスの仕打ちを諾々と受け入れたわけでもない。た
だ一時的に暴力に屈しているだけであって、スルタンの廃位を承服したわけではないから
だ。最終的にそれを承服させたのは、ジャワ島がイギリスに占領統治されていた時期に統
治権をふるったラッフルズ(Thomas Stamford Raffles)だった。バンテン王国は1813
年にその歴史を閉じた。


ジャカトラ要塞が建てられたとき、バタヴィア城市の壁の外側を囲んでいる濠の岸にでき
た道の東南角からジャカトラ要塞までの道路が整備されて、ジャカトラ通り(Jacatraweg)
と名付けられた。今のジャヤカルタ王子通り(Jl Pangeran Jayakarta)だ。

最初はプチナンの住民たちが東南方向へ向かうための踏み分け道だったのだろうが、チリ
ウン川の流れに沿ったその道の便の良さが幸いしたにちがいない。もともとこの道路と濠
岸の道の延長線が交差する地点の東南角に掘立小屋がひとつあった。スンダクラパ時代に
この地を訪れたポルトガル人が設けたもので、立ち寄るポルトガル船の船員たちがカソリ
ックの教会として使っていた。

初期のバタヴィアでは、街の建設と種々の仕事に必要な労働力をポルトガル人がアジア各
地に作ったメスティーソで満たそうと考えて、かれらをバタヴィアに連れてきた。ところ
が、華人の勤勉さと仕事の質の高さに気付いたバタヴィア上層部は、その方針をころりと
変えて華人を重用するように変わってしまったのである。[ 続く ]