「南往き街道(47)」(2018年08月13日)

ラウ・テッロッの業績は植民地政庁を十分に満足させるものであったが、かれが1848
年生まれのボヘミア系欧亜混血娘フランシスカ・ルイザ・ゼシャ(Francisca Louisa Zecha)
を妻にしたことは植民地支配階層の不興を買った。

夫の没後1884年にフランシスカは夫の秘書シム・ケンクン(Sim Keng Koen)と再婚し、
バタヴィア上流層の間で一大スキャンダルとして騒がれた。フランシスカの子孫がインド
ネシアのホテル業界で著名なアドリアン・ウィレム・ラウ・ゼシャで、かれはアマンリゾ
ートのオーナーである。


1946〜47年には復帰してきたオランダ文民政府と植民地政府軍がジャカルタ一帯を
制圧し、それに続く第一次警察行動のとき、ジャカルタ南部方面の軍事行動の際にアドリ
アナ・ヨハナのカントリーハウスは司令部として使われた。

1953年にはサムエル・デ・メイヤー(Samuel de Meyer)という人物への不動産名義変
更が行われている。1964年にその地域の広大な地所に国営ラジオ局RRIが大型送信
アンテナ3基を設けた。そのときそこのラジオ施設用地がRRIの資産にされたようだ。
必然的にアドリアナ・ヨハナのカントリーハウスもRRIの資産となる。

1978年にRRIはそのカントリーハウスを社員家族寮として使い、13家族用に建物
内を改装した。しかし老朽化のために2002年ごろから使われなくなって、完全に空き
家となり、風雨に痛めつけられて廃屋化した。

しかし地元歴史愛好家の話によれば、空き家となってからは完全に見捨てられ、何の補修
もなされなかったものの、2009年まで建物は完璧な姿で立っており、屋根も崩れてい
なかったそうだ。崩れ始めたのは2011年に入ってからで、2013年には四分の一が
崩れ、2016年にはもはや残骸に変わってしまったとのことだ。[ 続く ]