「竹筒飯」(2019年06月03日)

北スラウェシ州ミナハサ地方のナシジャハnasi jahaはもち米と白米を混ぜ合わせ、それ
にココナツミルクとショウガ、そしていくつかの香菜を加えてバナナの葉に包み、竹筒に
入れて焙る。食事の主食にもできるし、甘くないおやつとして食べることも可能だ。そし
て祝宴のときに供されるのは、北マルクのガムタラ部落と変わらない。

東部インドネシア地方には、竹筒で飯を炊く調理法があちこちで行われている。北マルク
のガムタラ部落のような白米を使うものが多く、もち米のルマンのようなおやつではない。
この種の竹筒飯をインドネシア語でナシブルバンブnasi buluh bambuと言う。ナシブルバ
ンブはパプアのチュンドラワシ湾Teluk Cenderawasih一帯からソロンSorongにまで広ま
っている。


パプアにまで広まった竹筒飯の作り方はいったいどこから由来したものなのだろうか?マ
ルクかもしれないし、ミナハサかもしれない。それは長い歴史の中で各地の住民が東部イ
ンドネシア海域を往来することによって情報が伝達されて行ったのであり、単純な一本の
線で描き出されるものではない、とパプアリサーチ院長で人類学者でもあるジョスア・マ
ンソベン氏は語る。

古代から世界でたいへんな希少価値を持っていたスパイスの産地が東部インドネシア海域
にあった。東は中国の王宮から西はインド〜ペルシャ〜アラブを経てヨーロッパにまで至
る通商路の根元がその海域であり、たくさんの船が儲かる商品を求めてその海域を往来し
た。

ヨーロッパ人がやってくる何百年も前から、その海域を地元とする諸種族の船が通商のた
めに往来していたのである。北スラウェシ・南スラウェシ・北マルク、アンボン・バンダ
・セラム、パプアの鳥の頭地方やチュンドラワシ湾沿岸の諸地方。

セラム人はパプアから樹脂・ナツメッグ・ワニ皮などを運び出した。クローブとナツメッ
グの中継港になっていた東セラム地方には、南スラウェシのビラBira族さえもがやってき
た。17世紀のバンダとセラムの港湾長日誌には、ビアッBiakとラジャアンパッRaja 
Ampatの船が島民への食料として売るためのサゴを積んで入港していたことが記されて
いる。

VOCの記録では、海賊船として拿捕したビアッ・ラジャアンパッ・ジャイロロJailolo・
サグルSangerの船では乗組員がサゴを航海中の食料にしていたという報告も見られる。


ガムタラ部落のあるジャイロロ王国は1551年にテルナーテ王国に征服された。元々テ
ルナーテとティドーレの二大国のはざまで均衡の傘の下にいた周辺の小国のひとつをテル
ナーテが征服したことで従来の均衡は崩壊し、先行きを危惧したティドーレがテルナーテ
との戦争の泥沼に足を踏み入れることになった。しかし通商幹線ルートの混乱は、それに
関わっていた諸種族を否が応でも動乱の渦の中に巻き込んでしまう。

ヨーロッパ人がこの海域にやってくるはるか以前から、ビアッのマンブリmambri(偉大
なる人物)たちは遠方への航海を競った。かれらは船に乗るとき、サゴを竹筒に詰めて焼
いたものを食糧として持参した。そして訪れた土地で知った料理を持ち帰った。

それとは別に、北ビアッや北スピオリにしばしば漂着するサグル族が作る料理を現地人が
学び取ることもあった。食文化に関する交流が決して一方的なものでないことは、現代で
も変わらないだろう。

マナド料理として有名なリチャリチャrica-ricaがテルナーテ・ティドーレ・ハルマヘラは
元より、パプアのチュンドラワシ湾一帯でも日常食品として地元民の食卓に載っている
のである。


パプアのスンタニSentani湖地方住民はパペダpapedaという名の料理を作る。サゴを濃い
粥状にしたものと、黄色い汁の魚スープだ。別々の容器に入れてそれを食べる。ところが
南スラウェシ州パロポPalopoの住民はまったく同じサゴの濃い粥と魚のスープを作り、
それをひとつの容器に入れて食べる。

遠く離れた地方に見られる類似性と、土着的要素が加えられたバリエーションにわれわれ
は文化の溶け合う姿を見出すことになるのである。