「ルピアレートの変遷(3)」(2019年09月20日)

2。スハルト時代
1965年9〜10月に起こったG30S事件によってスカルノ政府は崩壊し、政治の舵
取りはスハルトの手に移る。

G30S事件の社会的大変動が一応は収拾されて世の中の平常活動が再開された1965
年12月に、ルピアレートは35,000ルピア/USDになっていた。


1965年12月3日に出された1965年大統領決定書第27号によって、インフレに
よって価値の激減したルピア通貨を市場から回収し、新たなルピア通貨を市場に流通させ
る政策が展開された。スハルト新政権が行ったこの通貨政策は、実質的なデノミ政策だっ
た。

スハルト新政権は新しい政治体制を新体制(オルデバルOrde Baru略称オルバOrba)と呼
び、スカルノ体制を旧体制(オルデラマOrde Lama略称オルラOrla)と呼んだ。

オルバ政府は新ルピア紙幣を発行してオルラ紙幣を世の中から回収することを決め、19
65年12月13日20時からオルラ紙幣とオルバ紙幣の交換を開始した。そのときにウ
アンラマuang lamaと呼ばれた旧紙幣は1千ルピアが新紙幣ウアンバルuang baruの1ルピ
アに相当するという交換レートが使われたのである。つまり新紙幣を発行して旧紙幣の貨
幣価値を1千分の1にデノミしたということだ。

ただしオルバ政府は新紙幣を旧紙幣と同じレンジの額面金額で発行した。新紙幣も旧紙幣
と同様に、1ルピア札から1万ルピア札までの額面のものになっていたのである。


それ以前にオルラ政府が何度か行ってきた紙幣の額面価値の縮小とは異なり、このデノミ
政策はフェアでまともなものとして実践されるのが可能な政策だったにもかかわらず、オ
ルバ政府の予期し尽せなかった国民の奇妙な反応によって、期待された成果はズタズタに
されてしまった。

当時の国民にとっては、紙幣をハサミでちょん切るような、荒っぽいが単純素朴なやり方
のほうがわかりやすかったということにちがいあるまい。

むしろソフィスティケートされたものと言えるスハルトデノミは、政策自体に欠陥があっ
たわけではないというのに、国家経済を揺さぶるまでの悪影響をもたらしたおかげで、デ
ノミというものに対する反感と悪評の記憶を国民の間に残すことになった。数年前からジ
ョコウィ政府が準備を進めているデノミ政策に対する拒否の声の中に、スハルトデノミの
悪印象が影を投げかけている面があるのは否めないだろう。


ウアンラマで10万ルピアの月給をもらっていた勤め人は、ウアンバルの100ルピアが
与えられる。当時1リッター1千ルピアだった白米はウアンバルの1ルピアで買うことが
できる。

10万ルピアで借家契約し、前金に2万5千ルピアを支払い済みの者は、ウアンラマの7
万5千ルピアで完済してもよく、ウアンバルの75ルピアを支払ってもよい。それがスハ
ルトデノミのロジックだ。ところが世の中でいったい何が起こったか・・・・。[ 続く ]