「独立に貢献した脱走兵(4)」(2020年01月29日) 銃を手にすることだけが戦争ではない。敵軍兵士の戦意を崩すことも戦場に効果をもたら す重要な戦略だ。スコットランド出身で米国籍のミュリエル・スチュアート・ウォーカー がスラバヤ・スーとしてインドネシア共和国死守のためにラジオ放送のマイクに向かって 熱弁を振るった姿がその一例だ。 スラバヤ・スーについては、 http://indojoho.ciao.jp/koreg/hsubsue.html でそのストーリーをお読みいただけます。 似たようなことは、他のいくつかの場所でも起こった。メダンで、マディウンで、タシッ マラヤで、ヨーロッパ人がヨーロッパ人に対し、インドネシア共和国に対する非道な攻撃 をやめろとの呼びかけをラジオの電波に乗せたのだ。 ジョン・エドワードはイギリス軍サウスウエールズボーダー第4旅団第6大隊所属の士官 だった。1946年、かれは原隊を脱走してニップ・サリムNip Xarim大尉指揮下の共和 国軍B大隊に加わった。 かれはアチェに移されて、イギリス軍、更にNICA軍向けの大ジャングルラジオ放送に よる宣伝工作を行うようになる。また第十師団司令官フセイン・ユスフ大佐の副官を務め ることもあった。しばらくしてから、かれは大尉の階級を与えられ、スマトラ島でゲリラ 活動を行っている共和国軍兵士たちにアブドゥラ・イングリス大尉と呼ばれて親しまれた。 プマタンシアンタルPematang Siantarの女性を妻にしたかれはイスラムに入信し、アブド ゥラ・シレガルという名の一市民としてプマタンシアンタルに暮らし、1956年に世を 去った。 オランダ人ピート・ファン・スタフェレンPiet van Staverenは蘭領東インドの旧態復帰 を促進させるために本国から派遣されてきたオランダ軍人だ。1947年7月、スムダン Sumedangに配置されていたかれは、原隊を脱走して西ジャワの地を徘徊していた時、共和 国軍の一部隊に捕まった。 スムダンの共和国軍はこの敵兵をヨグヤカルタの軍総司令部に引き渡した。アミル・シャ リフディン首相が捕虜を活かして使うように勧め、かれはマディウンの民兵組織が行って いるラジオグローラRadio Geloraで宣伝工作の手伝いをすることになる。 かれのオランダ批判がはなはだ辛辣であったことから、ヨグヤカルタのカリウランKali- urangで行われていた政治交渉の場でオランダ側が、かれのラジオ放送を黙らせなければ この交渉はご破算にするとインドネシア側を威嚇したことすらあった。 オランダ諜報機関が裏切者たちを放置するはずがないのは当然のことであり、ピートも上 位ランキングのターゲットにされていた。1949年末のインドネシア共和国主権承認が 間近に迫ったある日、かれはソロでオランダ憲兵隊に逮捕されたのである。 ポンケ・プリンセンはそのときの状況を、一緒にいた共和国軍将校ふたりはヤギを一匹ず つもらって、ピートが連行されて行くのを何もせずに見送っていただけだった、と語って いる。 1950年にかれはオランダ本国に移されて取調べが行われ、そこで行われた拷問にオラ ンダ市民が抗議の声をあげて社会問題に発展した。かれは1954年に釈放され、インド ネシアに戻ることなくオランダで生涯を送っている。[ 続く ]