「下手くそなゴミ経営の裏事情(前)」(2020年03月19日)

ライター: 詩人、新聞記者、F ラハルディ
ソース: 2006年9月20日付けコンパス紙 "Ketika Orang Miskin Dipersalahkan" 

インドネシアで貧乏人になったらもう大変だ。与えられる称号は「人間の屑」。そしてか
れらは崩れたゴミの山の中に埋もれて死んでいく。金持ちや権力者がそんなかれらに与え
るのは悔やみの言葉ではない。「かれらが悪いのだ。」という非難の言葉だ。

首都ジャカルタのゴミは日々数十億ルピアの金を生むビジネスである。ゴミビジネスに絡
んでいるのは貧乏人だけでなく、金持ちも権力者も関わっている。ゴミビジネスの主要ア
イテムはプラスチック、段ボール、金属、中でも鉄・銅・アルミ、そしてガラスだ。それ
らはすべて再利用資源になる。インドネシアの、中でもジャカルタの、ゴミ経営はでたら
めだが、ゴミの再資源化比率は高い。貧乏人であるくず拾いやゴミ収集者がこのビジネス
の最先鋒なのである。

ゴミ収集者は住宅地・駅・バスターミナル・市場などからごみ最終投棄場までのルートの
どこかに陣取っている。プラスチック・紙・段ボール・木材・金属・その他の工場から出
るさまざまな排出ゴミは、従業員組合・地元有力者・治安要員・やくざ者たちのいずれか
が握っている。その種のゴミはゴミ収集者の分け前に下がって来ないのである。わたしが
一日数十億のビジネスと言っているのは、住宅地等からごみ最終投棄場までのルートに流
れているゴミについてのことだ。工場排出ゴミのビジネス金額はそれをはるかに上回る。

一日数十億の金になるビジネスが都庁役人の関心を引くのは当たり前の話だ。バンタルグ
バンBantar Gebangごみ最終投棄場がゴミ収集者を含む一般に対し、公式に閉鎖されてい
るのと裏腹に、その中での実態は数千人のゴミ収集者が思うがままに動き回っている。一
般閉鎖が額面通り行われるなら、治安要員が出入り口を見張って誰も入らないようにし、
中では職員だけが業務しているのが当然の姿だろう。実態がそうなっていないのは、その
実態に目をつぶっている役人がいるからだ。

< インドネシアの貧困 >
貧乏人はどこでも一緒だ。収入がきわめて小さいか、もしくはゼロであり、財産も持って
いないのだから生活が苦しい。アフリカの砂漠地帯にある貧困国の貧乏人は、米国の貧乏
人とも、インドネシアの貧乏人とも違う。アフリカのそんな貧困国は、どんなに正直に政
府がハードワークに努め、旧宗主国や国際支援機関から援助を受けても、国民は貧乏なま
まだ。アフリカの砂漠の自然は貧しいのである。そこで鉱物資源が発見されないかぎりは。

米国で皿洗いやトイレ掃除人は、勤勉に貯蓄し無駄使いしなければ妥当な暮らしを営むこ
とができる。貧困者にならないのだ。米国では、正直さと勤労意欲を持っていれば貧困に
陥る者はいない。貧困者がいるのは、たいていその人間の側に問題がある。麻薬禁制薬物
中毒者、賭博常習者、金銭濫費者。あるいは法律家にしてやられて貧困に落とされる者も
いる。しかし米国で無職の貧困者は国からの保障が得られるため、米国民はくず拾いにな
る必要がなく、必然的に崩れたゴミの山の中に埋もれて死ぬこともない。ましてや、「お
まえが悪い。」と非難されることもないのだ。

米国のそんな状況をわれわれは、タイ、マレーシア、ベトナムでも目にすることができる。
それら三つの隣国では、勤労意欲を持ってさえいれば、貧困者になる必要がない。マレー
シアでは、建築労働者や農園作業者のような肉体労働をしなくても、生活をエンジョイす
ることができる。[ 続く ]