「ヴェルテフレーデン(3)」(2020年04月16日)

パフィルユンフェルドのオーナーとして次に登場するのがコルネリス・シャステレインで、
VOC上級幹部だったかれが1696年にその土地の地主になっている。シャステレイン
はその土地にビラを建てて住み、種々の農園を設けて農産物を生産した。またいくつかビ
ラを建てて快適な保養地に変え、VOCトップ階層の用に供した。ヴェルテフレーデンと
いう言葉は、ひょっとしたら保養ビラ売り込みのキャッチフレーズだったのかもしれない。

かれが自分用のビラを建てた場所は後に軍中央病院になった所だ。南往き街道からそのビ
ラに入って行くための道路が作られて、ガンクナガGang Kenanga(今のJl Senen Raya III)
と命名された。ガンクナガの南側にはかつて質素な教会が建てられていたが、今はアトリ
ウムスネンAtrium Senen三角地区の北端商店街になっていて、教会は消滅している。ガン
クナガという名称は1970年代でも地元民がまだ使用していたように記憶している。


次いで地主として登場するのがユスティヌス・フィンクJustinus Vinckだ。かれは173
3年にヴェルテフレーデンを3万9千リンギッで購入し、1735年にはヴェルテフレー
デンの東側にスネン市場Pasar Senenを、タナアバンにタナアバン市場Pasar Tanah Abang
を開設して大いに当てた。その頃既に、ヴェルテフレーデンとタナアバン地区がそれほど
に充実した消費地区になっていたということだろう。

フィンクは両市場間の物資の流れを活発化させるために、その二カ所を結んで道路を設け
た。スネン市場南端からヴェルテフレーデン南縁の川の北岸に道を作り、チリウン川とぶ
つかる所に橋を架けた。その道が今のプラパタン通りであり、その橋がグヌンアグンGunung 
Agung書店西側にある橋だ。更に道はその先で現在のクブンシリKebun Sirih通りとなって
タナアバン市場に向かう。


1749年にヤコブ・モッスルJacob Mossel第28代総督が2万8千リンギッで地主にな
った。かれはシャステレインの邸宅を贅を尽くしたヴェルテフレーデンカントリーハウス
Landhuis Weltevredenに変えてわが世の春を謳歌した。地所の西縁になるチリウン川に接
して建てられたカントリーハウスは川の水を引き込んで池や養魚場が設けられ、チリウン
川の船着き場からは舟遊びや川下りが行われていたにちがいあるまい。

かれはまた、カントリーハウスから東向きに運河を掘り、南往き街道に突き当たったとこ
ろで街道沿いに北上させ、街道の西側に沿って既に作られてある運河がパサルバルに曲が
る場所に合流させた。これは自分の居所から南往き街道に出るための交通路の確保である
と同時に、パサルスネンに向かう物資の輸送効率向上をも目的にするものだった。その運
河が現在のカリリオKali Lioだ。

ジャカルタの現代地図を見ると、パサルスネン南端の交差点で広い道路が枝分かれし、バ
ンテン広場へと向かっていく。このスネンラヤ通りは1770年の地図に出て来ないので、
バンテン広場の建設後に作られたものかもしれない。モッスルの大邸宅の正面プロトコル
道路を表門の真ん前で南から横切って交差する道路の建設を大邸宅の主人が許すはずはな
いだろうから、ヴェルテフレーデンカントリーハウスが威容を誇っているかぎり、スネン
ラヤ通りは日の目を見なかったようにわたしには思われる。

1836年になって、モッスルの大邸宅の跡地に軍中央病院が設けられた。もちろん東イ
ンド植民地軍の中央病院で、インドネシア共和国承認後に移管されて現在はガトッスブロ
トGatot Soebroto陸軍中央病院になっている。モッスルの大邸宅がいつ壊されたのか、時
期がはっきりしないのだが、ダンデルスが破壊を命じた可能性は高いように思われる。総
督官邸と儀典プラザの南側をすべて軍用施設にしようと考えていたかれにとって、贅沢な
大邸宅など邪魔になるばかりだったろうから。
[ 続く ]