「世界を揺さぶったスパイス(13)」(2024年05月06日) 1017年と1025年に、南インドのコロマンデル海岸を支配するチョーラ王国のラジ ェンドラ1世がスリウィジャヤ王国征伐軍を東方に送り、ニコバル島をはじめ各地に設け られていたスリウィジャヤの植民地を奪取し、スリウィジャヤの大王を拉致してインドに 連れ去った。スリウィジャヤの王宮はチョーラの支配下に落ちたが、スリウィジャヤ王国 は従来のままに維持され、1079年にはスリウィジャヤの朝貢使節がチョーラ王と共に 中国を訪問している。 スリウィジャヤの王宮ではサイレンドラからマウリへの王統の交代が起こり、マウリ王朝 はダルマスラヤ王国を設けて1183年にバタンハリ河上流に王都を移した。ダルマスラ ヤ王国はブキッバリサンを西に向かってパガルユンに分国を開き、1347年に興ったミ ナンカバウ王国の祖先の中に流れ込んだという説が語られている。 12世紀後半あるいは13世紀初期以後にスリウィジャヤの王都パレンバンの名前が聞か れなくなったからと言って、かつての都が消滅してしまったなどということはありえない だろう。そこには相変わらず人間が住み、社会生活を営み、街を維持して経済活動を行い、 それを統治する行政体が存在していたのは間違いあるまい。強大な王権が去ったあとのパ レンバンは、別の王権の地方領として生き続けたことが推測される。新首都IKNがオー プンしてもジャカルタが消えて無くなるはずがないのと同じことだ。 ジャワのマジャパヒッ王国が1343年にバリ島征服軍を送り出したとき、パレンバンの ブパティであるアルヤ ダマルが軍勢を率いて従軍した記録がジャワに遺されている。ア ルヤ ダマルはクディリの王侯のひとりだった。 マジャパヒッ時代にパレンバンの地は要衝のひとつとされていたようで、マジャパヒッの 大王ブラウィジャヤ5世が華人の側室をたいそう可愛がったところ、チャンパ出身の妻ダ ラワティが強く嫉妬したため、その側室がパレンバンの統治者アルヤ ダマルに下げ渡さ れたことがジャワ年代記に記されている。 妊娠していたその華人の側室がパレンバンで産んだ男児がラデン パタだった。アルヤ ダ マルはそのころ既にイスラムに入信しており、ラデン パタはムスリムとして育てられた。 ラデン パタは後に父王からドゥマッのブパティに任じられ、ムスリムのブパティの下に ジャワ島のイスラム化を目指すムスリム布教者が集まって来てドゥマッをイスラム都市国 家にしてしまった。そして行き着いたのが、息子のラデン パタが父大王のマジャパヒッ 王国を滅ぼすという結末だった。 しかしマジャパヒッ王国滅亡の歴史をそんな血族間の争いとせず、ドゥマッ王国の開祖は 下層階級出身の華人ムスリムだったと考えている歴史学者もいて、王国誕生の発端を古い 権威に結び付けようとする神話伝説の類がそんな物語を遺したのではないかという解釈も 存在している。 パレンバンの統治者がドゥマッ王国開祖をムスリムに育てたのであれば、パレンバンのイ スラム化はけっこう古い話になるのかもしれない。1512と13年にドゥマッのスルタ ン トレンゴノが行った、マラカを奪ったポルトガル人撃退大作戦にパレンバン軍も軍船 を参加させているし、1601年にパレンバンを訪れたオランダ船は、パレンバンの統治 者がスルタンを名乗っていたことを記録している。 1659年、パレンバンの統治者だったアブドゥラッマンが独立を宣言してパレンバンダ ルッサラムスルタン国を興した。この人物を、ドゥマッ王国で起こったスルタン トレン ゴノ没後の内紛から逃れるためにパレンバンにやってきたドゥマッ王宮上部階層に属す人 物と述べている説もある。[ 続く ]