「ジョン・リー(1)」(2025年06月17日)

インドネシアは独立革命の時期に周辺海域をオランダ軍に封鎖された。インドネシア共和
国の人間も物品も国外に出ることができないようにされたのである。しかしその封鎖をか
いくぐる努力を独立闘争の戦士たちは行った。成功した者もあれば失敗した者もある。む
しろ失敗して海の藻屑と消えた者のほうが多かったという話も聞こえてくる。

インドネシアを愛してその独立に尽力した米国人ミュリエル・スチュアート・ウオーカー
も生死を賭けて海を渡り、シンガポールに密入国した人間のひとりだ。スラバヤ・スーと
綽名されたかの女の物語は下をご覧ください。
http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/Kawan-18SUrabayaSoe.pdf

再植民地化を図るオランダとの戦争のためにインドネシアの軍隊と民衆は武器を必要とし
ていた。それを手に入れるためには、インドネシアの農村部で豊かに生産されている商業
用作物を国外に持ち出して販売し、得た金で武器を購入するという行動が必要になる。も
っと手っ取り早い話は海上でバーター取引をする方法だ。

それを何度も成功させた海軍軍人がいた。名前は李正泉。1911年3月9日に北スラウ
ェシのマナドで華人系の両親から生まれた、父親はリー・カイタイ倉庫運輸会社を経営し
ていた。プロテスタント派キリスト教徒だったから、リー・チェンチョアンはジョンとい
うクリスチャンネームを与えられた。ここからジョン・リーとかれを呼ぶことにする。


華人系東インド居留者向けに設けられたHollandsch-Chineesche Schoolオランダ華人学校
にかれは7歳で入学し、ほどなくChristelijke Lagere Schoolキリスト教小学校に移って
いる。17歳の時、かれは船乗りになる夢を抱いてバタヴィアに出奔した。そして港湾荷
役労働者になって収入を得ながら航海学校に通い、最終的にオランダ王国海運会社KPM
(Koninklijk Paketvaart Maatschappij)に三等航海士として採用された。1942年に
ジョンはイランのコーラムシャーで軍事訓練を受けている。

太平洋戦争が終わったので、ジョンは故郷の北スラウェシに帰り、スラウェシインドネシ
ア国民ユニオンという組織に参加した。できたてのインドネシア海軍が人材を必要として
いたために、1946年5月にかれは大尉の階級で海軍軍人になり、ジャワ島インド洋岸
のチラチャップで任務に就いた。

チラチャップ港は連合軍の襲来を予想した日本軍が機雷を敷設していたため、港を普通に
使うためにその掃海作業が必要になっていた。ジョンがその作業を指揮して港の機能を正
常に戻したことが高く評価されて、かれは大佐に昇進した。

そのあと、ジョンはオランダ海軍の海上封鎖を破ってインドネシアの物産を近隣諸国に輸
送する任務に就いた。1947年10月から、かれはシンガポール・ペナン・バンコック
・ラングーン・マニラ・ニューデリーなどに国内産品を送り届けるために何度も海上を駆
け抜けた。少なくとも15回は往復したと言われている。その成功率の高さから、かれは
マラカ海峡の幽霊と綽名された。

シンガポール在留のインドネシア共和国レップに引き渡す8百トンのゴムを積んだ船の護
送が初めての任務だったそうだ。戻りはゴムの販売代金で手に入れた武器を積んでふたた
び封鎖を破り、スマトラのリアウ県令に武器を引き渡してスマトラの対オランダ闘争を活
発化させた。[ 続く ]