「ヴェルテフレーデン(1)」(2020年04月14日) ダンデルスHerman Willem Daendels第37代総督がバタヴィアの城壁を撤去してヴェルテ フレーデンWeltevredenに町の中心を移したとき、新バタヴィアNiuwe Bataviaの都市計画 の中にふたつの大型広場が予定されていた。ひとつは現在のバンテン広場Lapangan Banteng、 もうひとつは現在のモナス広場Lapangan Monasだ。 今のバンテン広場は華やかさのない、地味であまり人気のない公園にすぎないが、それは 植民地時代と共和国時代でそれらふたつの大型広場の地位が逆転してしまったためだ。バ タヴィアで植民地支配者の威勢を輝かしてきたバンテン広場は、植民地支配者の没落と歩 を同じくする運命をたどるのがその定めだったようだ。 反対に、植民地時代にそれほど重要な使われ方をしなかったモナス広場は、スカルノ大統 領が華麗な変身を遂げさせた。かつてのバタヴィアの中心プラザだったバンテン広場のス テータスはジャカルタのモナス広場に移されたのである。植民地支配者の遺産をできる限 り消滅させようとしたスカルノの目論見は、国家儀典プラザに関する限り、十分な成功を おさめたと言えるだろう。 オランダを支配下に置いた皇帝ナポレオン1世は、オランダ最大の海外支配地である東イ ンドをイギリスに奪われまいとして、懐刀のダンデルスにその対策を命じた。1808年 1月にバタヴィアに到着したダンデルスは前任のヴィーゼAlbertus Hendricus Wieseから 総督の座を引き継ぐと、ただちにジャワ島防衛のための諸政策を展開し始めた。 城壁に囲まれたバタヴィア城市が時代遅れのもので、その当時の現代戦の役に立たないこ とを見て取った新総督は、バタヴィア中心部をもっと南のヴェルテフレーデンに移すこと を決める。そしてヴェルテフレーデンから南へ6キロの距離にあるメステルコルネリスを 軍事拠点にし、ヴェルテフレーデン南部に軍事施設をまとめて軍事ブロックとしての連携 を持たせた。 ダンデルスのもうひとつの偉業は、ジャワ島の西端アニェルAnyerと東端にほど近いパナ ルカンPanarukanを結ぶ1千キロの大郵便道路De Grote Postwegを一年間で建設させたこ とだ。この道路の完成によって、バタヴィアとスラバヤの間にあるジャワ島北岸部の主要 都市に軍隊を移動させることがたいへん容易になった。イギリス軍がどの町に攻め込んで 来ようが、短期間で応戦体制を構築することができる。 ヴェルテフレーデンという地名は元々、コルネリス・シャステレインCornelis Chastelein がその土地の地主だったときに命名されたものだ。その意味からヴェルテフレーデンの地 所を特定するなら、パサルバルPasar Baru南側運河からイスティクラルモスクMasjid Istiqlal東側のチリウン川Kali Ciliwungを北縁・西縁として、グヌンサハリGunung Sahari 通り〜パサルスネンPasar Senen通り(旧名南往き街道de grote zuiderweg)を東縁、プ ラパタンPrapatan通りを南縁とする広大な土地である。昔はプラパタン通りとクウィタン Kwitan通りの間が川になっていたから、そこは南往き街道の西側にある川で囲まれていた 土地、つまり川を境界線にしていた土地だったことがわかる。 しかしダンデルスが新バタヴィアを開いた後は、時代が下るにつれてバタヴィア中心部全 体がヴェルテフレーデンと呼ばれるようになって行った。だからハルモニーHarmonieやレ イスウェイクRijswijk、あるいはコニングスプレインKoningsplein一帯などの本来ヴェル テフレーデンの外側だったエリアも、ヴェルテフレーデンという名称で呼ばれることがあ った。だがわたしはシャステレインのヴェルテフレーデンという本来の用法に限定してこ の話を進めて行く。[ 続く ]