「ヴェルテフレーデン(2)」(2020年04月15日) この地所が歴史にはじめて登場するのは、1632年のこと。1628・29年に行われ たスルタン・アグンSultan Agungのバタヴィア進攻のほとぼりが冷めたころ、バタヴィア のVOC高級将校アントニー・パフィルユンAnthonij Paviljoenが攻撃的原住民や野獣の 徘徊するその土地を開拓して自分の地所にし、ジャングルと湿地帯と草原から成るその場 所で牛や水牛を飼育した。地主の名をとって、その地所はパフィルユンフェルド Paviljoenveldと呼ばれた。 パフィルユンフェルドを中心にしてバタヴィア城市南部で開墾地が増やされ、米・野菜・ 果樹・サトウキビなどの農園が営まれるようになる。パフィルユンは華人に土地を貸して 農園事業を行わせた。サトウキビ農園はサトウキビ搾り作業場を近くに建てた。今のタマ ンプジャンボンTaman Pejambonにはそのころ既にキビ搾り作業場が建てられている。 攻撃的原住民というのは、もちろんオランダ人とVOCに敵意を持つプリブミであり、ス ルタン・アグンの進攻に従軍して帰還せずにそのまま残ったマタラム兵士たちや、バンテ ン王国から進出してくるゲリラ兵たち、更にはバタヴィアからの逃亡奴隷などがメインを 占めていた。バタヴィア城市南部に出て来る人間が増加し始めると、農園の世話をする奴 隷たちが襲撃されて殺される事件は頻繁に起こったし、華人やオランダ人も被害者になっ た。 また城市の壁の外のジャングルや湿地帯には、ワニ・トラ・ヒョウ・サイなどの猛獣や気 の荒い野牛bantengやイノシシbabi hutanなどが棲息し、また毒蛇や人間を襲う毒虫が大 量にいて、しばしば人間はそれらの被害者になった。バタヴィア設立初期の時代、壁に囲 まれた城市の外へ出るというのはたいへんな危険に直面することを意味していたのである。 アンチョルで働いている奴隷がトラの餌食になったことも再三だし、1659年にはジャ ングルで木を伐り出していた14人の人間がトラの群れに襲われて全滅している。ワニは 壁で囲まれた城市の中にまで侵入してきた。1692年にはヨーロッパから到着したばか りのヨーロッパ人3人が巨大なワニに襲われ、近くにあった絞首台の柱によじ登ってかろ うじて命拾いした事件も起こっている。絞首台が人間の命を救った世にも珍しい物語だ。 1644年に、後に第12代総督になるヨーン・マーッサイカーJoan Maetsuyckerは3百 人(別の説では8百人)の勢子や射手を集めて城市南部地区で一大狩猟プロジェクトを実 施し、南から北に向けて野獣を追い立て、大量の獲物をしとめた。その後の数日間は城市 内で連日連夜のバーベキューが続けられたのではあるまいか。 その頃から18世紀末までのVOC時代、バタヴィア城市南部は狩猟愛好家のメッカにな っていた。獰猛でないが狩猟の獲物に最適な鹿もたくさんいて、狩猟好きにはこたえられ ないほどの猟果を提供した。1762年には、27頭のトラとヒョウをしとめた狩猟グル ープに総督庁から褒美が出されている。バタヴィア城市外の南部地区にカントリーハウス を建てて暮らすVOC上級職員の増加は、そのような形での野獣の絶滅を南部地区にもた らす結果を招いたようだ。 アントニー・パフィルユンの開墾地は拡大を続け、そこで華人にサトウキビ・野菜・米な どを作らせて、自ら行っている牧場と併せてバタヴィア城市内への食糧供給ソースのひと つにした。 パフィルユンフェルド一帯がバタヴィア城市のための食糧生産基地のひとつになると、生 産活動の保全を考慮する必要が出て来る。1658年に南東方面の防衛基地としてノード ウェイク要塞Fort Noordwijkが建設され、守備隊が常駐するようになった。バタヴィア城 市からモーレンフリートを南下し、その南端と東のチリウン川を結ぶ(今のヴェテラン Veteran通り沿いの)運河の東端がチリウン川と交わる地点に設けられた防衛基地は、言 うまでもなくパフィルユンフェルドの治安をも担った。要塞が設けられた場所は現在のイ スティクラルIstiqlalモスクの地所の中だ。ダンデルスは1808年にノードウェイク要 塞を撤去させた。[ 続く ]