「マルクの悲惨(6)」(2024年03月25日) ポルトガル人が作ったコロニアル都市アンボンをVOCが奪ったのは1605年のことだ った。その反ポルトガル大作戦ではテルナーテ・ルフ・ヒトゥ・ジャワ・ゴワの軍勢がV OC側に付いてポルトガルを降伏させ、VOCはアンボンをカトリックの町からプロテス タントの町に作り変えた。これによってオランダ人はテルナーテ・ティドーレでの対スペ イン戦争に有利な態勢で臨むことができるようになったにちがいあるまい。 VOCがアジア本部を最初に置いたのがこのアンボンであり、1610年に総督府が開か れてピーテル・ボーツが初代総督として赴任した。第三代総督までVOCの本拠はアンボ ンに置かれており、第四代総督に指名されたJPクーンが会社重役会の承認を待たずに本 拠地をジャワ島に移転させる準備を進めて行ったのである。クーンは1619年にジャヤ カルタを壊滅させてから、後にバタヴィアと命名されるそのコロニーをVOCの本拠地に するために精魂を傾けたようだ。 戦力を整えたオランダ人は1605年にコルネリス・セバスティアンスの指揮のもと、ス ペイン=ポルトガルへの反攻戦を行った。ティドーレのポルトガル要塞を拠点にしていた スペイン=ポルトガル軍を攻めて要塞を陥落させたオランダ軍に対してスルタンサイッは、 テルナーテの市内に要塞を建てて軍を常駐させることをオランダ人に許可した。その場所 はテルナーテ軍が使っていた古い要塞がある場所で、オランダ人はそこにヌサンタラで最 初の要塞建設を行なってオラニェ要塞と名付けた。 しかしマニラのスペイン総督府もおとなしく引き下がるような人間たちではない。160 6年1月に3千人の大部隊をテルナーテ占領作戦に送り出したのだ。これにはスルタンも 勝ち目がないと考えて側近の者たちと一緒にハルマヘラ島に逃れた。 スペインに敗れたテルナーテはスペイン人に占領された。スペイン人はテルナーテとの和 平を申し出てスルタン サイッに和平協定締結を呼びかけた。スルタンはそれに応じてテ ルナーテに戻って来た。協定書の中にはスペインの覇権を認めてクローブの独占取扱い権 をスペインに与えること、イギリス人・オランダ人と接触しないこと、などの条項が記さ れていた。 協定の締結が終わるとスルタンの期待とは裏腹に、スルタンは自分の家族と共にマニラに 運ばれて幽閉されたのである。スルタンの息子が王位を継承し、新スルタン ムダファル シャとして即位した。スペインは都督と防衛軍をテルナーテに置いた。 新スルタンと宮廷の重臣たちはしかし、依然として反スペイン=ポルトガルの気分を維持 し続けた。かれらはオランダ人と連絡を取り、テルナーテをスペインの手から奪い返す計 画を進めた。 VOCが本気になって北マルク地方からスペイン人を追い払うようにさせるために、スル タン ムダファルシャは何をしたか?父王がスペインと結んだ和平協定の中にあるクロー ブの独占取扱い権をオランダ人に渡すことを約束したのだ。一度西洋人に奪われてしまっ たクローブはインドネシアが独立共和国になるまで、二度とテルナーテ人の手に戻って来 なかった。おまけにインドネシア共和国ができたころには、クローブは世界中でありふれ た物に成り下がっていた。ヨーロッパ人を奪い合いの狂気に包んだクローブはマルクの外 にも植えられるようになり、マルクにしかないスパイスではなくなっていたのである。 [ 続く ]