「マルクの悲惨(7)」(2024年03月26日)

オランダの軍勢はテルナーテを奪還してから、ティドーレの征服に取り掛かった。オラン
ダとテルナーテの連合軍がティドーレのスペイン守備隊に大規模な攻撃をかけたのは16
13年だった。ティドーレにはスペインの要塞が4ヵ所あり、戦局はなかなか容易に推移
しなかったように思われる。

オランダ人はそのあと、ティドーレへの派手な攻撃をあまりしなくなり、ティドーレ王宮
を懐柔してスペインと手を切らせる方向に導いた。ティドーレに残っていたスペインの軍
勢が完全に姿を消したのは1660年代だったという解説がインターネット内にかろうじ
て見つかる。

一方、インドネシア語の記事はオランダ人がスペイン人を追い払い、いざテルナーテ王国
がかつての栄光を輝かせられる状況に戻ったのも束の間、オランダ人の謀略によってテル
ナーテ王宮がVOCの操り人形にされていったという論調ばかりが見つかり、スペイン人
があたかも1610年代に北マルク地方から完全に追い払われていた印象を受けてしまい
そうだ。

そればかりか、王宮は西洋人侵略者に神からの賜物であるスパイスを売り渡し、自分は給
料をもらって飼い殺しされる道を選んで、民衆を侵略者への生贄にしてしまったという非
難が現代インドネシア人の論説の主流を占めている。


スルタン ムダファルシャがお墨付きを与えたことで、テルナーテ領の全土で生産される
クローブが全量VOCの手に入ることになった。独占物になったクローブがヨーロッパ市
場で高値を維持すればオランダ本国の富は増大する。そのためにはVOCが必要とする量
だけ生産されれば十分なのである。過剰生産が百害のリスクばかり発生させるだろうこと
は誰にでも想像が付く。アンボンのVOC総督府は生産調整を命じた。つまりアンボン・
サパルア・セラムといった監視の容易な場所を生産センターに指定し、それ以外の島にあ
るクローブの木をすべて根こそぎ引き抜いて廃材にし、あるいはクローブ林を焼いてしま
えと言うのである。これはそれらの島の住民の生計の種を奪う残酷な政策になった。

王宮が領民を侵略者の生贄にしたという批判の根拠は、たとえばテルナーテ王宮とVOC
が結んだこんな契約がある。マキアン島からクローブの木をなくすことに対する損害賠償
としてVOCはスルタンに2千リンギッ、カラマタ王子に5百リンギッ、王宮の重臣たち
に1千5百リンギッを均等分配、マキアン島の各地方首長に5百リンギッを均等分配、そ
して以後王国は毎年1千2百リンギッを支給される。

さらにVOCはこの契約に反対する者が出ないよう、インドの布地や中国の陶磁器といっ
たプレゼントを宮廷の高位者たちに用意した。契約書にサインすればご褒美がもらえるわ
けだ。


この政策の実行部隊になったのが、オランダ人がHongi Tochtenと名付けた船隊だった。
インドネシア語ではEkspedisi HongiあるいはPelayaran Hongiと翻訳されている。オラン
ダ語のトッテンは航海や遠征を意味する言葉だが、ホンギトッテンを行なう者もその言葉
で呼ばれた。ではホンギとは何なのか?オランダ人はこの綴りを/hon-gi/と分節してホン
ギと発音するのに対し、インドネシア語では/ho-ngi/と分節してホ~ギ(鼻音のギ)と発
音する。元来のマルク語ではどちらの発音になっていたのだろうか?

ホ~ギというのはマルクの諸王国で多数のコラコラに乗った海上部隊が出動することを指
していた。コラコラは数十人が乗って櫂漕ぎと帆で走る高速船であり、浅瀬が多いマルク
多島海の特徴に即した船体を持ち、そのまま浜に乗り上げると乗組員が武器を手にして敵
に襲いかかる戦闘方法が普通だった。襲撃戦や略奪をしに敵国へ乗り込むために出撃する
コラコラ船隊の行動が従来はホ~ギと呼ばれていたのである。[ 続く ]