「マルクの悲惨(16)」(2024年04月09日)

テルナーテ領内のモティ島には、1609年にオランダ人がNassau要塞を建てた。それは
別名Kota Moti要塞とも呼ばれている。

ティドーレ島には1578年にポルトガル人がTore要塞を建設したが、スペイン人は16
13年にTahula要塞、すなわちKota Hula要塞、とMarieco del Grande要塞を建てた。後
者をティドーレ人はMareku要塞と呼んだ。1618年にはさらにSaint Lucas de el Rume
を建て、原住民にRum要塞と呼ばれた。1637年にはSan Joseph di Chovo要塞が建てら
れた。今はCobo要塞と呼ばれている。

ティドーレには他にも詳細の不明なBiji Negara要塞、Ome要塞、Akelamo要塞、Tomanyira
要塞などがあり、その9ヵ所が歴史資産として行政当局に記録されている。

ハルマヘラ島には中央地峡の北にあるジャイロロの町にできたジャイロロ王国があった。
モルクキエラハのひとつであるこの王国は14世紀に興り、15世紀末にイスラム化し、
1551年にテルナーテに服属する国になった。そのためそれ以後のハルマヘラ島は北半
分がテルナーテ、南半分はティドーレの支配下に置かれた。

テルナーテ島の対岸でジャイロロからずっと南に下った岬の先端にポルトガル人が建設し
たSidangoli別名Kota Intan要塞があり、後にオランダ人がそれを奪ったが、1801年
にティドーレがイギリスと組んでこの要塞を占領した。イギリス人がマルク地方から去る
に当たってオランダに返還されている。

ジャイロロの町の近辺には古い要塞の廃墟がいろいろとある。SabugaとTabugaのふたつの
要塞が近い場所に建てられていた。ひとつがスペイン人、もうひとつはポルトガル人が建
てたことが確実視されているとはいえ、どちらがどちらなのかということはまだ確定して
いない。建設された時期もはっきりしない。北部にはスペイン人が建てたDodinga要塞が
ある。いつ建てられたのかは分かっていない。

他にもGamkonora要塞やJailolo要塞、Osowoyo、Payahe別名Kota、Toseho、Kota Low、
Fidi別名Nusleco、Batuなどの要塞があって、ハルマヘラ島でも広い地域でポルトガル・
スペイン・オランダのせめぎ合いが活発に行われていたことを証明している。

バチャン島。ハルマヘラ島に隣接しているこの島には14世紀初期に王国が成立した。1
5世紀にイスラム化し、1609年にオランダに征服された。この島にポルトガル人が1
558年に要塞を設けている。この要塞は後にスペイン人が使うようになったものの、オ
ランダがバチャン王国を征服してスペイン人を追い払ったときにオランダのものになり、
オランダ人はこの要塞をBarneveldと名付けた。

カシルタ島。バチャン王国の領地になっていたこの島にもポルトガル人がバチャンの古い
王宮の近くに要塞を建てた。現在Kasiruta要塞と呼ばれている。

ラルイン島。バチャン島の北で少し離れた位置にあるこの島にもWaiboba要塞が建てられ
た。[ 続く ]