「マルクの悲惨(15)」(2024年04月08日)

ヨーロッパ人が行ったマルクのスパイスの奪い合いは、マルクの土地の支配権を奪い合う
ことに他ならなかった。かれらは原住民から支配権を奪うために要塞を建て、奪った支配
権を守るためにまた要塞を建てた。マルク地方に建てられた要塞の数は百を下らないので
はないだろうか。今現在判明しているものだけでも80以上ある。長い歴史の中で敵に破
壊されたり、あるいは持ち主の事情によって放棄されて土に埋もれてしまったものもたく
さんあったはずだ。

それほどたくさんの要塞がマルクの島々に建てられたのだから、Negeri Seribu Pulauを
もじってNegeri Seribu Bentengと語る人間が現れて当然だろう。ヨーロッパ人がマルク
地方にやってくるまで、何百年にもわたって華人・アラブ人・インド人・ペルシャ人・東
南アジアの諸国人がやってきていたが、要塞を建てた外来民族はひとつもなかった。


本論における「要塞」の語は基本的にイ_ア語のbentengを直訳したものだ。語彙の中に
含まれている語義の差が必然的に出現することについて、注意しておくべきだろう。

イ_ア語のベンテンを本論では基本的に要塞という日本語に翻訳しているが、ベンテンと
いう言葉は「防御・防衛のため、あるいは身を保護するための構造物」「敵の攻撃を遮断
する壁」といった機能面を捉えた単語であって、西洋語や日本語が持っている、形態や規
模の意味を加えた個別の言葉がすべてそこに含まれる。塹壕・要塞・砦・堡塁・砲台・城
塞・城壁に囲まれた町・等々は一般的にベンテンと呼ばれており、それをわたしは本論の
中で要塞という言葉でひとくくりにしているということだ。

ちなみにオランダ語ではkasteel, fort, redoute, batterij, bastion, blokhuisなどの
言葉で区別されているものの、イ_ア語でそれらはたいていbentengという言葉に翻訳さ
れている。

ヨーロッパ人がマルク地方に最初に建てた要塞がテルナーテ島のソンジュオンバチスタで
あることは上で述べた。テルナーテでは更にポルトガル人がSanto Pedro E'Paulo要塞を
1532年に建てた。テルナーテ人はそれをKota Janji要塞と呼んだ。続いて1540年
にはSanta Lucia要塞、別名KalamataあるいはKayumerah要塞、およびTolukko要塞を建て
た。このトルッコ要塞は海に突き出た丘の上にあり、地下道を通って海岸に出られるよう
になっていた。カラマタは1609年、トルッコは1610年にオランダの手に落ちた。
オランダはそれらを改装してその後も使い続けた。

そのほかにもポルトガル人が建てたと見られている要塞の跡地があり、地元民はその場所
をKota Bebe要塞と呼んでいる。そこは一見すると単なる草原と森にしか思えないのだが、
地形をじっくり観察すると要塞だった印象が浮かび上がって来る。この要塞についての詳
細データは何もない。

オランダ人が初の要塞を1607年に建ててオラニェ要塞と名付けた。この要塞はMalayo
とも呼ばれた。1609年にはTakomeを別名にするWillemstad要塞が建てられ、もっと後
にはテルナーテ王宮の裏にKota NakaあるいはSentosa要塞が18世紀に建てられている。
王宮への威圧・監視・盗聴の役割を担ったであろうこのスントサ要塞はいまや砲座と防壁
の残骸をさらすのみだ。

現代のテルナーテ当局はポルトガル人が建てた要塞5ヵ所、オランダ人の要塞3ヵ所の計
8要塞を歴史遺産として認めている。しかしVOCの資料にはテルナーテに要塞が12ヵ
所あることが記されており、その中には木造のKalafusa要塞の名前が出て来る。それは多
分トルッコに近い場所に建てられたものではないかという推測がなされているだけで、名
前だけが中空に浮いている。他にもTalang Ame要塞やBrogh要塞といった名前が書かれて
いるものの、現代のテルナーテ郷土史家たちにその位置は皆目見当もつかない。[ 続く ]