「印尼華人の実像(1)」(2024年07月17日) 19世紀末から20世紀前半にかけてムラユ語で著作を綴る華人が輩出した。その中に英 名を謳われた優れた作家がたくさんいた。中でも著名度と作品評価で一二を競った人物が 郭?懷Kwee Tek Hoayだ。かれは1886年にバイテンゾルフに生まれて1951年にス カブミのチチュルッで生涯を閉じた。 かれが遺した文芸作品には劇作11編、エッセイ3編、ノンフィクション小説36及びフ ィクション小説26編という総合計76タイトルの出版物があり、多忙な作家活動を営ん だことが推測される。言うまでもなく、新聞雑誌にかれが寄稿した文論を数え上げるのは 不可能だろう。 ご多聞に漏れず、かれは新聞記者として文筆活動を開始し、リーポー、ホーポー、シンポ ーに記事を書いた。1925年にバンドンの新聞の編集責任者になり、その傍らで文芸雑 誌の発行を開始した。 オランダ東インドという環境の下で外国人居留者と位置付けられた華人プラナカンの個人 と社会のあり方という視点から切り込んだ当時の世相のありさまとかれが抱いた理想を物 語るクウィ・テッホアイのペンは華人ばかりかプリブミ読者の心にもずっしりと重く響く ものを残すことに成功したようだ。 1928年にかれが自分の文芸雑誌「パノラマ」に発表した小説Drama di Boven Digulは 全57章の章立てを持つ大作で、単行本の出版を望む読者の声が絶えないことから、19 38年から1941年までかけて四分冊にして発行された。わたしもこの作品を興味深く 読んだ読者のひとりであり、クウィ・テッホアイのプロット作りの巧みさと文才の偉大さ に脱帽したひとりでもある。 西暦1900年3月17日、バタヴィア在住の進歩派華人プラナカン知識層が集まって中 華会館Tiong Hoa Hwee Kwan運動の拠点をプチナンのパテコアン通りに開いた。今のグロ ドッタンボラ地区にある国立第19高校が建っている場所だ。その時代、華人社会ではま だチナTjinaという語が中国を指して使われるのが一般的な語法であり、中華を意味する ティオンホアTionghoa、中国を指すティオンコッTiongkokという言葉を使う華人は少なか った。華人コミュニティの中にいるたくさんの華人がその意味すら知らなかった。 クウィは1933年に「インドネシアにおける中華モダン化運動の発端」と題する論説を 雑誌パノラマに発表した。オランダ東インド在留華人プラナカン層が父祖の国である中国 本土の民族主義の高揚に刺激されて汎中華思想が盛り上がりつつある最中の時期に当たっ ていたとはいえ、中華会館運動は正しい中華文化を東インド華人プラナカン社会に認識さ せることを最大のミッションにしており、政治的な民族主義運動を煽ることを目的にして いたのではない。 運動が芽生えてから30数年も経てば、運動を立ち上がらせた環境や状況、運動の目的と 成果などに関する諸論評が憶測や想像を混ぜこんで語られ、的外れの論を大勢が信じるよ うなことがしばしば起こるのは、いつの時代どの場所でも似たようなものだ。現代のわれ われでさえ、日々そんなありさまにもみくちゃにされているではないか。 クウィは中華会館運動の由緒を正確に復元することによって、華人プラナカン社会のモダ ン化が的外れでない正しい方向に進むよう望んだにちがいない。クウィのその論説を読む と、インドネシアで何世紀にもわたって続いてきた華人プラナカン社会の実態がわれわれ の間にはびこっている的外れの想像といかに異なるものであったかということが見えて来 る。インドネシアの華人社会という日本語が示している内容には何ら正確な情報が与えら れておらず、その言葉から得られた感覚と想像が一般化されてひとつのイメージを作り出 し、たくさんの日本人がそのイメージを実態と思い込んで信じているのではないかとわた しには思われるのである。[ 続く ]