「印尼華人の実像(3)」(2024年07月19日) 遠い昔に中国で生まれ育った華人がインドネシアにやってきて住み着き、現在に至るまで その家系がインドネシア人として続いている一家の子孫は華人プラナカンと呼ばれるほう が正確ではないかとわたしは考えている。それは血統の問題であると同時に文化の問題で もある。しかしプラナカンかどうかという斟酌をまったく外してしまったインドネシア華 人という言葉が、その対象者が持っている文化的な差異を消し去っているようにわたしに は感じられる。インドネシア華人の歴史的な側面に疎い者がその言葉だけを耳にしたとき、 その言葉の内容が中国とインドネシアの混血者が作っている折衷文化の人間集団を指して いるという本質にどれほど迫ることができるのだろうか。 そんな華人プラナカン家系の第一世代に当たる中国で生まれ育った新客singkekと呼ばれ る華僑がインドネシアでどのように家庭を設けたかについて、かれ自身がプラナカンであ るクウィは次のように説明している。 遠い昔に南洋に移住する華人たちの中に妻や娘を伴って来た者はほとんどいなかった。男 ばかりがやってきて異郷の地に住み着くのである。男が女を必要とするのは人類の本源的 な性質だ。バタヴィアが開かれてから後の時代にジャワに向かった華僑たちにとっては、 バタヴィアがジャワ島への入り口になった。バタヴィアは古くから奴隷市が活況を呈して いた町であり、バリやセレベス、ブギス・アンボン・ティモールなどを主体にしてインド ネシアの各地から奴隷が送られてきて市場で売買された。 たいていの華人は男が身ひとつでやってきてジャワのどこかで仕事を始め、稼ぎが一家を 立てるのに十分なレベルになると自分の家を持って生活の基盤にする生き方を踏襲した。 そのときに女奴隷を買い、家と男の暮らしの面倒を見させる者がいた。女奴隷はその家の 妻の機能を担ったということだ。たとえそうであっても、法的・宗教的に公式の妻にする かしないかは男にとって別の問題であり、そんなことに男が義務感を抱く必然性はまった くなかった。 女奴隷が華人男の妻として扱われたとき、その奴隷妻が産んだ子供が成人すると婿や嫁が 奴隷妻の暮らしに関りを持つようになる。妻は自分が奴隷身分であることを片時も忘れず、 自分が産んだ子供を主人の子供として遇し、子供の結婚相手に対しても相応の尊敬姿勢を 示さなければならなかった。 ジャワ島西部地方では今でも自分の子供の伴侶に対し、Babah Mantuと婿を呼び、Nyonya Mantuと嫁を呼ぶ。ババは大人の華人(青年期に入ったらもう大人扱いされた)に対する 尊称、ニョニャは夫を持つ女性に対する尊称だったのだ。最初は奴隷身分の姑が始めた習 慣だったものが、華人社会ではそれが当たり前の作法になり、奴隷制度などずっと昔に廃 止されたというのに、いまだに社会的な習慣になって使われている。 本論筆者であるわたしは、新客華人が家庭を持つとき、プリブミの娘と縁組をしてプリブ ミの家庭と姻戚関係になった者も少なからずいたと考えている。そんな例に関する話がい ろいろと書かれているからだ。ただしそのようなケースでは、新客華人が偉大なる中華文 化で統御された家庭生活を望んでも、その実現が困難になることが妻の実家側の態度次第 で起こったことが推測されるのである。妻がイスラム教とプリブミ文化を家庭生活の中に 持ち込んでくるのがほぼ確実だっただろうからだ。 時代が下ってくれば華人系プラナカン娘の数が増え、新客華人にとって家庭生活の中に生 じる異文化問題は縮小されることになった。だが南洋華僑の初期の時代には、女と家庭を 持つためにイスラム教とプリブミ文化を避けて通れないことも起こったはずだ。それが原 因でプリブミの宗教と文化に深入りし、偉大なる中華文化から離れて行った新客華人がい なかったはずもない。そんな状況下に女奴隷と家庭を持つことはプリブミ社会とのしがら みを作らないで済ます方法になったと思われる。[ 続く ]