「印尼華人の実像(4)」(2024年07月22日)

長い南洋華僑の歴史を通じて、南洋に移住して来る華人はみんな肉体労働者・貧農・小商
人など低階層庶民ばかりだった。ただ、明朝が満州人に倒されたとき、上流知識階層が南
洋に逃げたことがあった。皇帝の親族までがジャワにやってきたそうだ。ところが満州人
が中華文化を尊重する政策を採ったために中国本土の国内の混乱は短期間で収拾され、ジ
ャワに逃げてきた上流階層はこぞって中国に戻って行った。ジャワはまた下層階級の住む
ところとなった。

低階層の華僑たちは食うために南洋にやってきたのだ。教養文化活動など二の次になるの
が当然だろう。日常生活規範としての中華文化は営まれても、生活を豊かにするための教
養文化的な活動はかれらがもっと年を取って成功者になるまで待たなければならなかった。
ましてや元々が書画詩歌管弦の素養など薄いひとびとだったのだから、かれらの暮らしの
中に立ち昇る教養文化活動は高さ方向のスパンが短かった。

かれらがプリブミに産ませた子供たちに中華文化を持たせようにも、ジャワという環境の
中にある中華文化は本国に比べて間口も奥行きも狭かったのである。日常生活における規
範や価値観をしつける努力はなされたものの、漢字漢文を習得させるのは容易なことでな
かった。会話は耳から聞き覚えて習得できても、文字というものは学習という要素を抜き
にして身に着けられるものではない。生活環境のトータルが中華文化になっていればまだ
しも、そんなものをジャワでの生活で期待するのは不可能だ。プチナンに住まないかぎり、
華人家庭の外を取り巻いているのはプリブミ文化なのである。

家庭教師を雇って漢字漢文を男児に教えさせることを大きな成功者になった家は行った。
普通規模の成功者も数家庭でひとりの教師を雇い、男児たちに教えさせた。教材は儒教の
書物を使うのが普通だったようだ。社会の成功者になるという表現は多くのケースで、社
会構成員のマジョリティに対して使われるものでないことを忘れてはなるまい。


一方、女児に対する教育はまったく顧みられなかった。女児へのしつけは母親にまかされ
たのだ。あのプリブミ女奴隷に。あるいはプリブミ家庭で育ったプリブミ文化の娘に。

女児はハーフという血統であったものの、女児の魂が吸収した文化が中華とプリブミのハ
ーフになるわけがなかった。迷信に満ちたプリブミの価値観や生活習慣が圧倒的に女児の
精神の中身を埋めた。女児が娘に育ち、そして結婚適齢期になると父親は華人コミュニテ
ィの青年を娘の伴侶に選んだ。結婚したそのふたりが作った家庭に生まれた男児は父親が
かつて育てられたような教育を与えられ、女児も母親が与えられた教育内容を受け継ぐこ
とが何世代にもわたって繰り返された。

女児の衣服はプリブミ女性のもの、生活習慣もプリブミ文化のもの。中華文化と衝突する
ものだけは父親や男兄弟が否定するために捨て去られたが、それは確定されたベースに対
する消去法としてしか機能しなかった。

結婚式・葬式・出産などの祭事や育児におけるまじない事などで、基本形態は男たちが唱
える中華文化がベースに置かれ、女たちが教えられたプリブミ文化における慣習作法が男
たちの反対を受けないものに限ってそこに混じりこんだ。結婚式では、結婚当日の一日だ
け花嫁は中華文化の晴れ着を着用する。だがその前後の祝や祭りごとの日々には絹のバジ
ュクルン、サルンソンケッからスレンダンまで身に着ける。バリの慣習である花嫁の歯を
削る儀式まで行う家がある。[ 続く ]