「印尼華人の実像(11)」(2024年07月31日)

華人嫌いオランダ人がどうして出現するのかという謎解きのひとつとして、プアはこんな
ことがあったそうだというエピソードを書いている。

レシデンや、あるいは総督にまで上り詰めるオランダ人は普通、監視官という地方末端行
政官吏からその履歴を開始する。監視官閣下があるとき、自分の所轄管区に住んでいる華
人娘の美しさに一目惚れした。この娘を自分のものにしたいと思い、娘の親に申し入れた。
もちろん妻にするわけではない。アジア人の妻などを持てば自分の官僚としての履歴は頭
打ちになる。ピラミッドの頂点に達するためには、ヨーロッパ人の女が正妻でなければな
らないのだ。

華人の親の中にもさまざまな人間がいる。地元の最高支配者の手綱が握れたなら自分の稼
ぎを数層倍にできるかもしれないと考える者もいれば、わが娘の幸福を思えば妾に差し出
すようなことはできないと考える者もいる。そしてこのケースでは、監視官閣下は後者の
華人にめぐり逢ったのである。

娘の親は急いで華人青年のひとりを娘の夫にした。監視官閣下の怒りがかれの血をたぎら
せた。所轄地域の統治支配者であるワシをないがしろにする増上慢の華人はもう赦すこと
ができない。「おのれ、お前ら、この恨みを晴らさずにおくべきか!」

かれは一個人が持っている属性としての華人を、全華人を代表するものとして受け取った。
レッテル思考、ラベル思考の人間が陥る視野狭窄だ。そのようにしてひとりの華人憎悪者
が誕生したという話をプアは書いている。


インドネシアにやってきた華人のほとんどは最初、拙著「クンタオ」や「黄家の人々」に
見られるように、行商人の仕事をしてプリブミの村々を回った。そのような仕事をする限
り、町の住民でいることができた。町の華人コミュニティはたいてい規模が拡大する傾向
を持っていて、コミュニティ構成員に広範な経済活動の可能性をもたらした。また社会交
際や慰安娯楽の面でもより充実した暮らしを楽しむことができた。しかしインドネシアに
来て農民になり、あるいは漁業で生活した者もいた。そんなかれらは町から離れた辺地で
暮らさざるを得なかった。

スマトラ島リアウ州バガンシアピアピに1860年(別説では1875年)ごろやってき
た華人たちがそこに漁村を作って暮らし始めたのがその一例だろう。かれらはタイに移住
していた華人であり、タイを離れて新天地を得るためにスマトラに移って来た。3隻の船
でタイを出たが、無事スマトラの陸地に達したのはそのうちの1隻に乗っていた18人だ
けだったそうだ。


一方、バタヴィアからそれほど遠くないタングランに多数の華人農民が出現した。タング
ランに代々暮らしていた華人をインドネシア人はCina Bentengと呼んだ。その言葉の由来
として、VOCが建てた要塞の周辺に華人が集まって来て町ができたことにちなんでいる
という解説が一般に語られている。

わたしは最初その要塞をアンケ要塞と勘違いしていた。JPクーンがバンテンの属領であ
るジャヤカルタを1619年に軍事征服してそこにヨーロッパ人の街を作った。1621
年からバタヴィアという名前になったその町の建設が一段落して、町を囲む城壁の外に諸
活動を広げる時期に入ったころ、外で活動が行われるエリアの警備と防衛のために要塞が
作られた。

それ以前からバタヴィア城市の外周に既に作られていた東のアンチョル要塞、東南部のジ
ャカトラバイテンバタヴィア要塞に加えて、要塞を三カ所建設する総督決定書が1656
年に出されたのである。それに従って南方東側にノルドウェイク要塞(1658年)、南
方西側にレイスウェイク要塞(1656年)、西にアンケ要塞(1657年)が建設され
た。タングランの要塞というのがそのアンケ要塞のことという思い違いをわたしはしてい
たのだ。[ 続く ]