「印尼華人の実像(10)」(2024年07月30日) プアがそれを書いた1907年の状況はそうであっても、中華会館の努力によってその後 東洋人居留者への差別が緩められたから、華人にも長期借地権や土地所有権が認められる ようになった。だから1907年の状況が1942年まで継続したということでは決して ない。とは言うものの、その後の時代になって東インド政庁が日本人やタイ人にヨーロッ パ人並みの待遇を与えたときですら、華人はそれまでと同じようにヨーロッパ人にもプリ ブミにも劣るステータスのままに据え置かれた。 漢字漢文の読み書きができる華人プラナカンがいなかったということも、その後に変化が 起こっている。中華会館や社会の有志が中国語教育の努力を何年も続けたあとではじめて 中国語の読み書きが堪能な華人プラナカン層が形成された。1930年代の華人プラナカ ン社会は1900年代のひとびととまた異なる姿を見せていた。 中国語も日本語もそうだが、話し言葉は耳と口を使って習得できても、書き言葉というの はそうはいかないのである。話し言葉を文字に書き表す技術は表意文字を使うかぎり、特 別の教育と学習が必要になる。ところが表音文字を使えば、音写の規則を学ぶだけで自分 が話す言葉を容易に文字化させることができる。19世紀末に華人がアルファベットを使 ってパサルムラユ語文学を大成させた事実は、その二種類の文字が持っている実用性の違 いがいかに大きいものに感じられたかを示しているようにわたしには思われる。 プアは居留地制度と通行証制度が行き着いたポイントを、華人嫌いオランダ人が華人を差 別扱いするための道具というポジションに置いて眺めた。その制度はオランダ人農園主に とって間違いなく、雇用する人材の幅を狭くする要因になった。農園は町から離れている のが普通だし、プチナンが山の中にポツンと作られるはずもない。町中に設けられたプチ ナンに住み、毎日通行証の手続を行って遠くの農園まで通勤するような人間は、たとえ華 人でなくても存在しないだろう。 レシデンの中には、午後6時から翌朝午前6時までの間に居留地から出てはならず、違反 すれば罰金刑に処すという方針を立てる者もあった。なぜそういう厳しい扱いをするのか と尋ねられたそのレシデンは、「華人は邪悪な連中だから」と答えたそうだ。通行証の手 続きについては拙作「居留地制度と通行証制度」をご覧ください。 ⇒ http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/Kawan-99_KyoryuchiSeido.pdf その悪条件を克服しようとしてオランダ人農園主は、政治力を使って地元レシデンに働き かけるはずだ。工場内に住まわせる特別裁可をその華人に与えてほしい、と。ところが例 外を作ると統制が崩れると考える傾向がレシデンに強ければ、農園主の要請が蹴られるこ とも起こる。ましてやアンチ華人派レシデンであれば、考える前にノーの言葉が口をつく にちがいあるまい。 農園主たちはそんなレシデンの姿勢を何とかしてほしいと総督に直訴した。ところが総督 までもがその問題に立ち入ろうとしなかった。「その制度についてはレシデンが権限を持 っているのであり、大きな問題が発生しない段階でわたしが口をはさむことはできない」 という態度を総督さえもが示したのである。 それでも、そんな総督はまだマシだったのである。華人嫌いオランダ人が総督になれば、 リベラルなレシデンさえもが特別裁可を農園主に雇われた華人に与えるのに躊躇するよう になる。1900年から1905年までそんな東インド総督がバタヴィアに君臨したため に、多くの農園で経理出納係に雇われていた華人が解雇されることが起こっている。その あと総督職に就いたファン ハーツは華人の活動に理解を示し、華人新聞に掲載される政 策批判に目が向けられるようになった。[ 続く ]