「インド洋の時代(10)」(2024年08月30日)

一方ファン・デン・ボシュの栽培制度にとって、ジャワ島南部地方で作られる商業農産物
の積出港が必要不可欠なものになる。その帰結として中部ジャワと西ジャワの境界にある
チラチャップに脚光が当たった。ドナン川の河口を西側から長さ40キロにもわたるヌサ
カンバガン島が覆って波浪を防ぎ、内部を穏やかな入り江にしている。その地の利に東イ
ンド政庁が白羽の矢を立てたのである。

加えて、スラユ川が内陸部からチラチャップまでの貨物輸送に大きい便宜をもたらしてい
た。人間が担いだり牛車に山積みして陸送するよりも、川船を使えばはるかに大量の貨物
が輸送できるのだから。

ただし、スラユ川は内陸部の人口稠密な地域を通過する重要河川だったものの、チラチャ
ップ港の埠頭から東に20キロほど離れた河口で海に注ぎ込むため、港に荷を運ぶ船は波
の荒い海岸部を航行しなければならなかった。その弱点をカバーするためにチラチャップ
の地元行政は運河を掘って船が海を通らないようにした。多分そのころがジャワ島南部地
方における栽培制度の黄金時代だったのだろう。

元々チラチャップ地方はマタラム王国を戴く中部ジャワの民衆にとって、ネガティブな色
で塗られている土地だった。広範な湿地帯が埋めているその地方はマラリア蚊の巣窟であ
り、保健衛生上の危険に満ち満ちていた。そんな場所だからこそ、マタラムの歴代スルタ
ンは王権に反抗する者や王権を簒奪しようとした者をそこに流刑した。チラチャップは王
国にとって上位に置かれている流刑地だったのである。


1830年にジャワ島で強制栽培制度が開始されたとき、東インド政庁は早々にチラチャ
ップを支配下に置いているバニュマスの統治者を1831年に取り込み、そこをバニュマ
スレシデン統治区に変えた。そしてチラチャップにジャワ島南岸部最大の商港の建設を開
始した。それまで沿岸部地元民が地元で産する塩魚やトラシなどの食材を船で他地方に運
びだしたり内陸部で産する食糧とバーターされるだけの市でしかなかったチラチャップが、
コーヒー・藍・砂糖・シナモンなどをヨーロッパに向けて大量に積み出す輸出港に成長す
る転機が訪れたのである。

港の公式完成が宣される前の1832年にはもう外洋船がチラチャップにやってきて貨物
の積み出しが始められた。チラチャップから船積みされる貨物はコーヒーとタバコがメイ
ンを占めた。そのころ、チラチャップに入港するオランダ船は積み荷のほとんどがビロー
ドやウールの布地だったそうだ。つまりそれがチラチャップに下ろされる輸入品だったと
いうことになる。


東インド政庁は1847年にチラチャップ港を公式の開港に定めた。ジャワ島北岸のスラ
バヤやスマランのような、民間の商船がひっきりなしに寄港する港になることを政庁は期
待したようだが、その期待はなかなか実現しなかった。政府関係の船が物産を積み出すた
めに入港するのが大半であり、いつまで経っても1847年より前に行われていた活動に
たいした変化は起こらなかった。

ヨーロッパから運ばれてくる輸入品にしても、チラチャップ港の後背地にたいした需要は
存在しなかった。その種の需要を持っている消費者はヨーロッパ人と華人・アラブ人から
なる東洋人在留者、そしてヨーロッパ人統治行政者と関わるプリブミの貴族と大金持ちく
らいであり、貧しいジャワ島南部地方に住むその種の人間の数が北岸地方とは大きく違っ
ていたのである。ジャワ島奥地の南海岸部寄りの地方で栽培制度によって生産された物産
が「お上御用」の船で積み出される活動がいつまでも、チラチャップにおける港湾活動の
メインを占めた。民間の通商従事者のための物流がチラチャップ港を通過するためには、
後背地の市場がまだ育っていなかったと言えるだろう。

栽培制度に関わる民間人が増加するようになっても、かれら商人たちは船積み地の選択を
北岸の港にした。北岸部は競争が激しいためにさまざまな価格がそれによって低下する傾
向を持っている。競争のないチラチャップ港は港までの輸送も港湾荷役費用も、そしてヨ
ーロッパまでの海上運賃も北岸に比べて高かった。チラチャップ港は政庁の期待に反して
たいへんなハンディキャップを抱えていたのだ。果たして政治がそのハンディを打ち砕く
ことができただろうか?[ 続く ]