「インド洋の時代(11)」(2024年09月02日)

東インド政庁は伝統的に確立されたスマトラ西岸地方通商地帯のようなものをジャワ島南
岸にも設けようと考え、その構想を1858年と1859年に政策として発表した。目玉
はジャワ島で16のローカル港を商港に開発するという内容であり、さらにスマトラ西岸
のナタルとパリアマン、およびカリマンタンのサンピッもそこに加えられて全19港が新
商港開発の対象になった。ところが本国議会がその政策に待ったをかけた。インド洋の時
代が既に終わっていることを議員たちが指摘したのかもしれない。

結局、政庁は商港開発方針をチラチャップ・チルボン・パスルアンの三港にしぼってエネ
ルギーをそこに注ぎ込むことにした。少なくとも、政庁の経済開発方針によってその三港
と周辺地域の経済は向上した。だが、ジャワ島南岸地方に通商地帯が生まれることはなか
った。ジャワ島にインド洋の時代は最後までやってこなかったのだ。


チラチャップ港の様相に変化が起こったのは、ヨグヤカルタ〜チラチャップ間の鉄道運行
が開始されてからだ。この路線は中部ジャワで二番目に設けられた鉄道路線だった。中部
ジャワで最初の路線は全国でも初の鉄道運行となったスマラン〜グロボガン26キロ区間
であり、1864年に工事が開始されて1867年に蒸気機関車がその間を走った。この
路線はソロを経由してヨグヤカルタとスマラン港を結ぶ物産輸送を最大の目的にしたプロ
ジェクトであり、1873年1月1日にヨグヤカルタ駅を第一便が発車した。

軍事上の必要性もカバーさせるために鉄路はアンバラワの東インド植民地軍ヴィレム一世
要塞まで延ばされ、ヨグヤカルタ〜アンバラワ間に支線が設けられている。

ヨグヤカルタ〜スマラン港線に続いてヨグヤカルタからチラチャップまで路線が設けられ
たことは、東インド政庁がジャワ島内陸部で生産される物産の船積みをいかに重要視して
いたかを赤裸々に物語る証拠と見ることができる。全長187キロのジョクジャ〜チラチ
ャップ鉄道工事は1879年に開始されて1887年に完成した。チラチャップの町中に
作られた鉄道終着駅と港を結ぶ支線が1888年に開通している。

鉄道線路が通過するようになった地方からチラチャップに向けて送られる農産物が増加し
た。それまでスマランに送られていた物産がチラチャップに運ばれるようになったのであ
る。鉄道運行のおかげでチラチャップ港はジャワ島でバタヴィア・スラバヤ・スマランに
次ぐ四大港のひとつとしての地位を獲得した。


このインド洋に面するジャワ島南岸部の良港はジャワ島を領有するオランダ東インド政庁
にとって重大な軍事上の意味を持っていた。それは1825年に始まって5年間続いたデ
ィポヌゴロ戦争の際に明白になった。ディポヌゴロ軍部隊にイギリス製の武器を持つ者が
いたのだ。情報を探ったオランダ政庁は、それがイギリス領ココス島からチラチャップに
運ばれてきたものであることをほぼ確信した。こうしてジャワ島南岸部での密輸入を警戒
することの重要性が浮上してきた。強力な基地を設けてインド洋沿岸部の警備を高めるこ
とが不可欠になったのである。

そしてその基地の防衛についても怠りなく準備がなされた。チラチャップの防衛陣地とし
て1855年に90人から成る砲兵部隊が駐屯したのだ。最初は沿岸砲1門だけだったが、
すぐに3門に増やされた。1857年にはヌサカンバガン島のチムリン山に港内監視塔が
建てられた。

日進月歩の兵器開発に伴って旧型沿岸砲はすぐに時代遅れになり、大型砲を搭載した敵艦
と撃ち合うために口径24センチのアームストロング砲が1877年、チラチャップに到
着した。そして翌年にはさらに6門が追加されて旧型砲に交代した。

防衛軍本拠地として要塞が埠頭から6百メートルほど後ろ側に建設された。建設工事は1
861年に開始されて、全施設が完成したのは1879年だった。公式名称はヴィレム2
世要塞とされたが、地元民はそれをBenteng Pendemと呼んだ。プンダムという言葉は「地
面の下に隠れる」を意味しており、この要塞が地下要塞の姿をしていたのが多分その愛称
を招いた原因だったのだろう。[ 続く ]