「大郵便道路(13)」(2024年12月31日) < バンテン Banten > チルゴンから10キロ進むとバンテンだ。ヒンドゥ=ブッダ王国時代にバンテンは、バン テン湾の地の利と領内に産する豊富なコショウのおかげでパジャジャラン王国の有力な領 地のひとつとして繁栄を謳歌していた。そのころの政治面での構図では、経済センターで ある港を支配下に置くバンテン領主が任じられてパジャジャラン大王の膝下に服すという 形になっていた。領主はバンテンの港から少し南の内陸部にあるバンテンギランの宮殿に 住み、宮殿は土を盛った防塁で守られていた。西海岸部から内陸部にかけての地域に産す るコショウが港の主交易品だった。 トメ・ピレスは1514年にバンテンについてこう書いた。バンテンは優れた寄港地であ り、モルディブ、スマトラ、Panchure(バルス)との間で交易を行っている。この港ではコ メ・食料・コショウを買うことができる。ここにはイギリス・ドイツ・デンマークなど世 界の商船がやってくる。 1522年、ポルトガル領のマラカから使節がバンテンを訪れた。反イスラムという同じ 立場にあるパジャジャラン王国とマラカのポルトガル人の間ですぐに同盟が結ばれたのも 自然の成り行きだった。パジャジャランはドゥマッとチルボンが進めているジャワ島イス ラム化の矢面に立たされていたのだから。 バンテン港防衛のためにポルトガルが要塞を建てて防衛軍を置き、パジャジャランはその 対価として百バハルのコショウを毎年ポルトガルに支払うという契約がなされたものの、 マルクのスパイス群島を握るという大目的を持つポルトガル人はそのためにはなはだ忙し く、パジャジャランとのそんな約束は「できればする」という程度のウエイトが与えられ たにすぎない。マルクのスパイスを独占するという大目的のために全力投球しているマラ カのポルトガル人には現実に、バンテンに兵力を割く余裕などなかった。アジアではただ でさえ、メスティ−ソを最大限に使ってポルトガルという名前での国家活動が行われてい たのである。 ドゥマッとチルボンにとっては、ジャワ島イスラム化戦略にポルトガル人の邪魔建てが入 るのは頭の痛い問題だった。マラカを征服し、押し寄せるジャワからの水軍を全滅させた ポルトガル人の強さをかれらは知り尽くしていた。ポルトガルがバンテンに地歩を築く前 にバンテンをイスラム化させなければならない。 西ジャワをイスラム化するための司令塔になったチルボンのスナングヌンジャティがドゥ マッとの連合軍をバンテンに送り込み、バンテン港を占領した。バンテン港の実質的運営 者の多くが既にムスリムになっていたから、スナングヌンジャティの息子であるイスラム 軍総大将マウラナ・ハサヌディンは大した戦争をする必要がなかったそうだ。 スナングヌンジャティはパジャジャラン王国領内でイスラム布教を行い、ヒンドゥ社会で 暮らしている民衆をイスラムに改宗させることに努めた。バンテンギランの支配下にある バンテン港でも布教を行い、そこの有力者の娘を妻にした。もちろんチルボンにも妻はい るのだ。 その有力者の娘がスナングヌンジャティの妻になったのは、その有力者の一家がムスリム になったからだ。個人が自分の意志で何でも行うような時代にまだなっていないのである。 そしてマウラナ・ハサヌディンはその妻が生んだ子供だった。 マウラナ・ハサヌディンがイスラム軍を率いてバンテン港に攻め入ったとき、母方の親戚 一同がハサヌディンを出迎えなかったはずがあるまい。だからイスラム軍はバンテン港を やすやすと占領し、戦争はバンテンギランに住む領主プラブ プチュッウムンの軍勢との 間で展開されただけだったとされている。そして、バンテン港の民衆に支援されたイスラ ム軍が勝利した。マウラナ・ハサヌディンは港に近いチバンテン川河口のスロソワンに王 宮を建て、バンテンギランを放棄した。スロソワンはセランの町から北に10キロ離れた 位置にある。[ 続く ]