「大郵便道路(46)」(2025年02月19日)

< チマヒ Cimahi >
南東に3キロほど行くとチマヒに入る。チマヒに入る前にパダラランを通過するのだが、
今ではパダラランにバンドゥン郊外の雰囲気を感じるものの、チマヒはもうバンドゥンの
町の辺縁部という印象を受けるばかりだ。

パダララン〜チルニ間にバイパスとして自動車専用道が建設されたのは1991年で、チ
カンペッ自動車専用道につなげるためにCipularang自動車専用道が2005年に開通した。
チプラランとはCIkampek-PUrwakarta-padaLARANGの合成語だ。

チプラランの開通後はプンチャッ街道を通ってバンドゥンに向かう自動車が激減し、プン
チャッ街道の商業価値が暴落したという話が新聞種になっていた。


チプラランが開通したおかげでジャカルタからチルニまでの通行時間が短縮され、わたし
は何度もそのメリットを享受した。バリからジャカルタに戻るルートをジョクジャからジ
ャワ島南ルートを通ってチルニまで達すれば、そこから先は運転が楽になった。このルー
トはナグレッの難所を通過するのだが、普通の乗用車であれば言われるほどの難所とも思
えなかった。しかし大型トラックが何台もエンストしているのを毎回目にしたから、大型
車両運転手には難所であるにちがいあるまい。

難所と言えば、大郵便道路が通るジャワ島北岸のバタン県グリンシンの西にあるアラスロ
バンの急坂のほうがはるかに危険だ。ただし距離としては短く、ナグレッの延々と続く苦
しい坂よりは楽かもしれない。

ともあれ、パダララン〜チルニ自動車道ができてからは、西からバンドゥンへ入るのにパ
スツール自動車道を通って市内に入るようになったために、パダララン〜チマヒ〜バンド
ゥン市内という大郵便道路を使う自動車は大幅に減少した。


チマヒという土地は1811年にダンデルスがそこに監視ポストを置くまで、世間にまっ
たく知られていなかった。今のチマヒ市のアルナルンにその監視ポストが建てられた。旧
名をCikolokotというこの村が外の世界とつながったとき、道路交通を監視する兵隊たち
がその事始めになったということのようだ。

現在、チマヒ市は軍隊の町として全国に知られている。チマヒ市をグリーンシティと呼ぶ
人がいるのは、陸軍兵士のユニフォームの色のことを言っているのだ。なにしろ市の総面
積40平方キロの6割が軍事用途に使われているのである。

とは言っても、ダンデルスがそんな方針を立てたわけでは決してない。ダンデルスは監視
ポストのために少人数の部隊をそこに駐屯させただけであり、ダンデルスが力を入れて行
ったのはメステルコルネリスを軍事都市にすることだった。ヴェルテフレーデンに東イン
ド植民地軍総司令部が置かれ、ヴェルテフレーデンの街中に軍隊が満ち溢れたものの、い
ざイギリス東インド会社軍がバタヴィア旧市街を無血占領してからモーレンフリートを下
ってヴェルテフレーデンに攻め込んできたとき、東インド植民地軍の主力はすでに要塞の
あるメステルコルネリスに移動して布陣しており、ヴェルテフレーデン防衛軍はたいした
戦力になっていなかった。

その時のバタヴィア攻防戦は正確に言うならメステルコルネリス攻防戦という言い方にな
るはずだ。戦争の勝敗を決める大決戦はマトラマンからメステル一帯にかけてのエリアで
行われたのだから。[ 続く ]