「大郵便道路(45)」(2025年02月18日) < チアンジュル Cianjur > グデ山の東尾根を数キロ下るともう標高460メートルのチアンジュルだ。この地方の特 徴のひとつに、北にある川は北に向かってジャワ海に注ぎ込む一方、南にある川は南に向 かってインド洋に流れ込むという現象がある。 チアンジュルは昔から農産物、中でもチアンジュル米で有名な土地だった。プリアガンに 住むスンダ種族は本質的に農民であり、チアンジュルのひとびとも同じだった。VOCが プリアガンに支配地を広げてきたことで、チアンジュルの民衆に生計手段の選択肢がもた らされた。その結果、住民の社会階層化がはじまったのである。農業社会にも、大土地所 有者、自作農民、農業労働者という分化は避けようもなくやってきた。 数百年間にわたって、チアンジュルの農民社会は貧富格差が深まり、それはオランダ時代 から民族国家になった今でも継続している。農業労働者に交渉力は皆無と言ってよいだろ う。他に金を手に入れる道がないのだから、雇った者が払う手間賃がどんなに低くても、 受け入れざるをえないのだ。 チアンジュルで独特の音楽芸能が生まれ、創作者たちはそれをママオスと呼んだが、それ がスンダ地方一帯に広がってチアンジュランと呼ばれるようになった。その創作者として 名を遺したのが、1834〜1864年にチアンジュルのブパティを務めたクスマニンラ だ。かれはそれを高度な音楽芸術に高めて地元文化の向上を図った。 1930年代になってからその公式な呼称としてtembang Sunda Cianjuranという名称が 一般化した。現代研究者たちはそれをKawih Cianjuranと呼ぶ方が適切だと主張している。 楽器はクチャピとスリンあるいはルバブだけの簡易なオーケストレーションに、歌が入る 場合もあり入らない場合もある。19世紀は男性ばかりで演じられていたが、20世紀に 入ってから女性歌手が混じるようになった。 寂寥を感じさせるペンタトニック音楽の響きはたいへん特徴的なもので、わたしのメラン コリックな精神体質にフィットした。1970年代にわたしがジャカルタに住み始めたこ ろ、夕方になるとどこかの家がスンダ歌謡の曲をラジオやカセットテープから毎日流して いたため、耳になじんでしまった。 地元の知り合いの家の子供がその音楽を、蚊を追い払うような音楽だと形容していたのを いまだに記憶している。スンダ歌謡イコールチアンジュランということでもないらしいの だが、スンダ文化の門外漢にはよく分からない。 大郵便道路はチアンジュルで比較的平坦な地勢を東に向かって40キロほど進んだあと、 パダラランに入る辺りから登り道になる。大郵便道路が作られたころ、パダラランは何の 意味もない土地だった。プラムディヤ・アナンタ・トウルはパダラランの思い出話を書い ている。 1945年末、独立闘争がインドネシア共和国軍とNICA軍の戦争の様相を取り始めた ころ、国軍軍曹だったプラムはパダラランに司令部を置いている司令官に密書を届ける任 務を与えられてパダラランに入った。司令部に着くと衛兵のひとりが密書を司令官に届け た。階級の低いプラムは司令官殿に会わせてもらえないのだ。返事の手紙が用意されるま での間、プラムは外で衛兵たちと雑談を交わした。 地元民である衛兵のひとりが地元の近況を物語った。最近、この辺りではgarongが我が物 顔で振舞うようになったと言う。ガロンという言葉を知らなかったプラムはその意味を尋 ねた。ガロンとは銃器で武装したグループだが軍や民兵組織に所属せず、治安体制が崩壊 した状況下に私腹を肥やすための活動を行う強盗グループのことだ。KBBIにはその語 義が強盗と記されている。 軍や民兵の監視が行き届いていない空白エリアで強盗をはたらくのがガロンなのだ。ガロ ンのメンバーは銃器を隠しやすくするために長い銃身をカットして使う。 プラムがその言葉の由来を尋ねたとき、GAbungan ROmusha NGamukの短縮語だという返事 が返ってきた。プラムは目を瞠った。その種の造語をするのはジャワ人だけだとプラムは 思っていたのだ。しかしそんなことはない。スンダ人が発明したcolenakやbatagorあるい はcombroなどの食べ物の名称を見れば、ジャワ文化の専売特許でないことがわかる。わた し自身もketoprakがketupat toge digeprakだとは知らなかった。[ 続く ]