「大郵便道路(48)」(2025年02月21日) < バンドゥン Bandung > チマヒから5キロも行かないうちに、大郵便道路は今のバンドゥン市に入る。チマヒから 少し南東に下ってから、標高平均7百メートル余りの大盆地を横断してまっすぐCileunyi に抜け、そこから北東にあるスムダンを目指して進むのである。この大盆地は太古の巨大 火山の火口だった。盆地の北側と南側には既に死んだ火山が連なっている。 古代のこの盆地は巨大な火口湖になっていて、周辺に住む古代人はその湖を超えて盆地の 北と南を往復していた。1万6千年くらい前から湖面が低下しはじめ、30メートルほど 下の湖底が出現して湿地帯になり、その水流のひとつが今のチカプンドゥン川になった。 大郵便道路は盆地のほぼ中央を突っ切る形で建設された。そこにあったのは広大な原生林 であり、その当時、バンドゥン地方のブパティはチタルム川沿いのKerapyakに町を作って 首府にしていて、道路が通過する大森林の中に町あるいは人間の住む集落は存在していな かったようだ。 クラピヤッはこの盆地の南部にある一画で、現在はDayeuhkolot郡という名称になってい る。スンダ語のdayeuhは「都」、kolotは「古い、昔の」を意味する言葉だ。ダユコロッ は今のバンドゥン市中心部から十数キロ南に離れていて、その地区の北端あたりにパダラ ラン〜チルニ自動車専用道のブアバトゥゲートが位置している。 1970年代の前半にわたしは何回か、会社の運転手が運転する車でジャカルタとバンド ゥンを往復している。南ジャカルタのクバヨランバルから、ボゴール街道を下ってチアウ ィに至るルートと、サワガン〜チビノンを経てボゴール街道につながるルートのどちらか を会社の運転手は通った。後者を採るほうが多かったのは交通量に歴然たる差があったか らだろう。もちろん後者は道路幅が狭いから交通量が少なくて当然だ。おまけにスンダ地 方の田舎の風情がたっぷりと味わえたから、わたしは何も言わずに車窓からの風景を愉し むのに専念した。大きな農家の庭先に色白のスンダ娘が伝統衣装を着てたたずんでいたり して、絵になる光景をしばしば目にすることができた。 似たような風景を目にしたのは20年後のパンデグランの丘陵を抜けてスンダ海峡のラブ アンへ走った時だった。そのときは自分で運転していたからじっくり眺める余裕はなかっ たが、その丘陵地帯で目にした若い娘たちはみんな伝統衣装姿だった。海峡沿いの行楽地 であるアニエルやチャリタ、そしてその時向かっていたラブアンでは、若い娘たちはみん な洋服姿であり、伝統衣装を着ているのは年寄りばかりだったから、その現象がわたしの 記憶に興味深く残った。ただまあ残念ながら、昔目にした色白のスンダ娘は褐色のバンテ ン娘に入れ替わっていて、20年前の感激はよみがえってこなかったのだが。 そのころインドネシアに自動車専用道はまだひとつもなかったから大郵便道路がボゴール 〜バンドゥンを結ぶ主要街道になっていて、誰もがプンチャッ峠を越えてチアンジュル〜 パダララン〜チマヒ〜バンドゥンというルートを通った。街道沿いにはところどころに大 きいレストランがあって、スンダ料理を提供していた。お勧め品は川魚料理であり、わた しはナマズのおいしさをそこで初体験した。上司に付き添ってバンドンへ行ったときにそ の店を教えられ、それ以来、わたしひとりのときは毎回そこで休憩するようになった。 その店はチアンジュルとパダラランの間の道路沿いにある大きなレストランで、その種の スンダレストランによくあるkuringという言葉が付いていたように思うのだが、場所も店 名もわたしの頭髪と共に記憶から抜け落ちてしまった。 1978年にボゴール街道と並行して走るジャゴラウィ自動車専用道がオープンし、スン ダの田舎情緒を味わうわたしの愉しみは消滅した。1988年にチカンペッ自動車専用道 ができると、混雑する大郵便道路を通るバンドゥン行きの交通は徐々に、チカンペック自 動車道のプルワカルタの料金所で降りてジャティルフル湖とプルワカルタ市街の間にある 小高い道を抜けてパダラランに向かうルートにシフトしていき、最終的にそのルートがチ プララン自動車専用道に姿を変えたとき、大郵便道路はジャカルタ〜バンドゥン間のメイ ン街道の座から転落した。[ 続く ]