「大郵便道路(49)」(2025年02月24日)

大郵便道路建設工事がバンドゥン盆地の原生林を突き抜けて向こう側のチルニに達したこ
ろダンデルスは工事現場を視察し、既に出来上がった道路の脇に自分が持っている杖を突
きたてた。そして傍らにいる当時のバンドゥン県令、RAA ウィラナタクスマ2世にこ
う語りかけた。Zorg, dat als ik terugkom hier, een stad is gebouwd.
「今度わたしがここを訪れるとき、ここにひとつの町が作られているようにしてくれ。」

ダンデルスが杖を突き立てたその地点はバンドゥン市のKMゼロ地点とされ、里程元標が建
てられている。バンドゥン市内アジアアフリカ通りの歩道に建てられた、中央にBDG 
0, 右にPDL 18、左にCLN 18と記されたコンクリート製標識がそれだ。その後
ろに記念碑が建てられているから、見つけやすいだろう。この地区にはムルデカビル、サ
ヴォイホマンホテル、ビナマルガビル、国家財務ビルなどの大型施設が立ち並んでいて、
文字通りの都市センター地区になっている。


そればかりか、ダンデルスは自分のその希望を公式の命令にした。1810年5月25日
にダンデルスはバンドゥン県令ウィラナタクスマ2世に手紙を送り、県令の公館をクラピ
ヤッから自分が杖を立てた土地に移すよう求めた。県令はすぐに自分の居所兼執務所を大
郵便道路からあまり離れていない場所に移したそうだ。そこはバンドゥンのアルナルンの
南側に位置しており、県令の建物は現在Pendopo Kota Bandungと呼ばれていてバンドゥン
市長の公邸になっている。

ダンデルスはさらに1810年9月25日付で総督決定書を発出し、自分が杖を立てたそ
の土地にインフラとスプラ(町の下部構造と上部構造)を建設するように命じた。インド
ネシアが独立した後、この総督決定書がバンドゥン市のオープンであるという解釈が有力
だったことからバンドゥン市の誕生日が決まり、それ以来バンドゥン市は毎年9月25日
に創設祝賀の行事を行っている。

ダンデルスが総督決定書を出したということは、新しいバンドゥンの町の建設を県令だけ
の仕事にせず、政庁機構がトータルとして行う仕事にしたと解釈できるだろう。総督決定
書という形を取れば、政庁は組織を挙げてその実現をサポートしなければならなくなるの
ではあるまいか。

県令ウィラナタクスマ2世がダンデルスの要請に応じてクラピヤッから今のバンドゥン市
中心部に町を移し、新しい町の建設を行って総督の希望に答えたと表現しているイ_ア語
記事が少なくないのだが、政庁は県令に手を差し伸べなかったということをその筆者たち
は語っているのだろうか?


実際にバンドゥンがへメンテ(自治市:市長の下に住民が自治を行うという意味)になっ
たのは1906年4月1日であり、ヨハネス・ベネディクトゥス・ファン ヘウツ第64
代総督がバンドゥンをへメンテにする決定書にサインした。

その当時の市域面積は9百Haだったが、1949年にはほぼ十倍の8千Haにひろがり、2
001年の統計では1万8千Haと述べられている。

1889年にバンドゥンの住民人口は1.8万人だった。9割近い1.6万人超がプリブ
ミで、ヨーロッパ人が339人、東洋人在留者は1千2百人いた。

19世紀末にはオランダ人居住者が1万人になり、1941年にはその数が3万人まで増
大した。20世紀に入ってから、特に1920年代以降にバンドゥンに住むヨーロッパ人
が激増したことをそれが示している。バンドゥンが文化面で大いなる発展を示したのがそ
の時期だった。[ 続く ]