「大郵便道路(52)」(2025年02月27日)

1916年ごろ、スマランの保健医療担当官だったヘンドリック・フレアク・ティレマが
ジャワ島北岸諸都市の自然条件の劣悪さに関する研究論文を書き、オランダ人は内陸高原
部に居住するべきであるとの献策をヨハン・パウル ファン リンブルフ・スティルム第6
6代総督に提出した。

一般的に言って港湾都市は大気が暑熱のために不健全であり、流行病が発生しやすい。不
快な気候は人間を疲れやすくし、勤労意欲を低下させる。そう主張したティレマの献策を
採り上げた総督は政庁内でそれを検討させ、さまざまな候補地が挙げられた中でバンドゥ
ンに白羽の矢が立てられた。

1920年に出たAlmanak Voor Bandoengには、「バンドゥンは東インドで最も健康的な、
美しい居住地である。標高730メートル前後の高度にあって、町にはフレッシュで快適
な空気が流れている。」と書かれている。おまけにバンドゥンは地形的にも外敵の来襲を
防ぐのに適した天然の要害になっていて、軍事戦略面からも遜色がないとの判断が加味さ
れた。多分、イギリス東インド会社軍のバタヴィア〜メステルコルネリス征服の苦い記憶
がその判断の根底にあったのだろう。

オランダ東インド植民地軍の本部をバタヴィアから内陸部へ移動させるという案件は比較
的早い時期にまとめられたようで、最終的にチマヒへの移転が1896年に実行された。
軍が武器兵器弾薬の製造拠点を東ジャワからバンドゥンに移すことまで行って内陸部への
移動に専念している事実も、行政府に首都移転を考慮させるに十分な理由を提供したよう
に思われる。

そして第一次世界大戦が勃発し、軍はスムダンなどの戦略的な場所に要塞を建設して、軍
事面での本拠地をバンドゥン〜チマヒとする確固たる姿勢を示した。


1920年に開校したバンドゥン工学高等学校の学長Jクロッパー教授がティレマの献策
への支持を表明した。現在Gedung Sateと呼ばれて西ジャワ州庁舎に使われている建物の
建設がその年に開始されて24年に完成した。この建物は最初、中央政府機構内の交通・
公共事業・水利事業省の本庁として建てられたものであり、省職員の住宅1千5百軒も同
時にその周辺の2万7千平米の用地に建設されはじめた。政庁が移転を決意していたこと
をそれが示している。

東インド政庁のその姿勢は、バタヴィアに本社を置いているヨーロッパ系実業界に歓呼で
迎えられた。本社をバンドゥンに移した実業界のトップランナーは潤滑油製造事業を行っ
ているストリーフランド社だった。同社の新本社社屋はバンドゥン駅に近いブラガ通りに
設けられた。

続いてボールドウィンロコモティブワークス、ラインエルベユニオン、シーメンスシュカ
ートヴェルケ、シーメンスハルスケ、デイーケンホフヴィドマンなどが雪崩を打って本社
をバタヴィアからバンドゥンに移した。

国有事業体も徐々にバタヴィアからの移動を開始した。鉄道、郵便・電信・電話、測量、
地質。種痘研究所も移転して既にバンドゥンにできていたパスツール研究所と後に合体し
た。ボゴールからは商業省や財務管理オフィスがバンドゥンに移った

1928年に建てられた今のバンドゥン中央郵便局は最初バタヴィアの郵便・電信・電話
局が移転した時のPosten Telegraaf Kantoorだった。戦争省や情報省もバンドゥン市内に
移り、バンドゥン市防衛軍は歩兵2個大隊と砲兵1個大隊が増強された。移転が難しい政
府機関は内務省、教育省、国民議会くらいのものだった。


バンドゥンという地方都市を首都に変身させるための都市計画作成に1930年、政庁は
ヘルマン・トマス・カーステンを起用した。カーステンは25年後の状況を想定して、東
西方向へのバランスの取れた拡張を基本にする計画を作成し、バンドゥン市域の総面積は
1930年当時の2,835Haから12,758HAに(計画の中で)広げられた。

カーステンプランと呼ばれたその計画は住民人口75万人を基準に置き、広い自然空間が
たっぷりと盛り込まれた都市構造になっていて、北バンドゥンエリアを現状のままヨーロ
ッパ人居住地区にする構想になっていた。[ 続く ]