「大郵便道路(51)」(2025年02月26日) VOC時代に始まったプリアガン地方での栽培制度は植民地政庁が継続し、ファン デン ボシュ総督のときに行われた強制栽培制度の中でも続けられ、19世紀後半にはオランダ 東インドにおける事業の民間開放によってプリアガン高原に民間資本の農園が続々と開か れた結果、バンドゥンはそれら農園事業のセンター機能を担うようになった。バンドゥン はプリアガンの首都Ibu Kota Prianganになったのである。 大金持ちの農園事業主、農園経営のために雇用された幹部や技術者、更に農園が必要とす る技術や需要へのサービス事業を行う経営者や技術者など、バラエティあふれる背景を持 つ外来者がたくさんバンドゥンにやってきて住んだから、おのずとバンドゥンの街にコス モポリタン都市が形成されていった。これはきっと、北スマトラのメダンに起こったのと 類似の現象だろう。 農園事業者たちはPreanger Plantersと呼ばれ、また個別の事業分野に関連して砂糖農園 主はSuiker Lord、茶農園主はThee Jonkers、コーヒーはKoffie Baronnen、キニーネであ ればKina Boeren、タバコはTabaks Boerenという呼び名が奉られた。 Escompto銀行がバンドゥンで初の銀行業務を開始し、プリアンガープランターズの会計管 理に便宜を与えた。今マンディリ銀行が入っているそのビルは、面白いデザインで作られ ている。 植民地政庁がプリアンガープランターズの事業発展に種々の支援と便宜を与えたのは言う までもないことだ。たとえば、政庁は1920年7月3日に現在のバンドゥン工科大学の 前身であるDe Techniche Hoogeschool te Bandungを発足させた。農園の設計と造成に土 木工学技士が必要とされるのは言うまでもない。 一方の農園主たちも自力でさまざまな学術的活動をこの熱帯の地で行った。その代表的人 物が多分オランダ人Karel Albert Rudolf Bosschaだろう。かれは1896年にマラバル 農園を興して周辺地域一帯の大農園主のひとりになった。かれは天文学に興味を持ち、同 業仲間から資金を募ってオランダ東インド最大の天文台を作った。今でもボスカ天文台は 国の重要機関として天体観測の一翼を担っている。 工学系の最高学府がバンドゥンにできたことも、全国のプリブミ諸種族の英才たちがバン ドンに集まることを促した。スカルノもバンドゥンで学生生活を送ったのである。バンド ゥンは人間と文化のるつぼになった。特筆されることは、優勢な文化の中に変種があふれ ているというような形のるつぼでなく、すべてが同一平面上で混じり合った状態が生まれ たのだ。種々の文化に等距離で接することが習慣化して、社会の精神が創造性を容易に受 け入れる気性を持つようになった。 特に食べ物の世界でそれが顕著に起こった。スンダ文化のど真ん中に西洋人のコミュニテ ィができたのだから、西洋人のライフスタイルとの融合がそこに発生して当然だ。ヌサン タラの各地が持っている郷土料理がバンドゥンで変形され、バンドゥン名物として全国に 発信されたものも数多い。 2011年に面白いことが起こった。ヌサンタラのどこにでもあって、ありふれたつまみ 食品の代表のような存在だったキャッサバチップスのkripik singkongが突然、若者たち のスターになったのだ。クリピッシンコンに練りトウガラシをからみつかせた辣味バージ ョンはもちろん昔から作られていた。その辣味に等級を付けて辣味のレベル区分を行うア イデアがバンドゥンで生まれ、全国的な人気を集めたのである。 この新趣向に若者たちは目の色を変えて跳びついた。そんなものを土産にしようとバンド ゥンへ遊びに来る者まで出る始末だった。品物ではなくてニュートレンドが価値を持つ現 象だろう。この辣味レベル区分方式はテンペチップス・ミーリディ・アボンなど他の食品 にも波及して行った。[ 続く ]